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【第百七六節/新世界賛歌―クタリ・クォレル・クォート】

 難民居留地から付いてきたイスラたちは、他の聴衆に混ざってカナンとユディトの対決を見守っていた。ペトラが踏み潰されそうになっていたため、揃って馬車の御者台や屋根に避難している。


「ぶち上げてきやがったな、姉ちゃん」


 屋根の縁に座り、ぶらぶらと脚を揺らしながらイスラは呟いた。


 だが正直なところ、彼は話の流れをあまりよく掴めていなかった。断片的に理解出来る箇所はあるのだが、何分難しい話だ。学の無い自分では到底ついていけないと匙を投げている。


 なので、分からないことがあれば全て隣のオーディスに聞くようにしていた。


「……で、循環国家論って何だ?」


「私にも分からん」


 イスラのみならず、応援に来ていた難民団の面々がそろってずっこけそうになった。オーディスは腕組みしつつ溜息をついた。


「仕方無かろう。私とて一度も聞いたことの無い言葉だ。恐らくはユディト様の造語だろうな」


「造語……ってことは、中身も全部、姉ちゃんが考えてるってことか?」


「全部が全部ではあるまい。もちろんユディト様自身の考えも含まれているだろうが、既存の学説や歴史書から引っ張ってきている部分も多いだろう。


 最も、それらをしっかりとまとめ上げたうえで政策論として完成させているなら、驚異的なことだ」


「闇渡りのハラン曰く、わしとやより鶏は出でず、だってさ」


格言それ聞くの、なんか久しぶりだねぇ」


「そうか?」




◇◇◇




「循環国家論について語るにあたり、まず前提として、皆様に知っておいていただきたい事実があります」



 ユディトは、自分の身体に突き刺さる無数の視線を余さず意識していた。


 今から自分が語ることに対し、群集心理がどのような反応をするか完璧に見切ることは出来ない。下手をすれば会議そのものを潰してしまう可能性さえある。


 だが、この大前提だけは決して誤魔化してはならない。たとえ蜂の巣に指を差し入れるような行為であるとしても、絶対に言っておかなければならないことだ。


 ユディトは懐に手を入れ、そこに仕舞っていたある物を取り出した。


 それを手の平に乗せ、大衆にも見えるように高く掲げる。


「継火手カナン。これが何か分かりますか?」


 ユディトのたなごころにある物……それは小さな赤い石だった。


 遠目には魚の赤身のようにも見えるし、あるいは生肉のような色にも見える。見物に来ていた一人の貴婦人が「紅玉の原石かしら」と呟いた。



「岩塩、ですね」



 カナンは正答を言い当てた。ユディトは頷き、岩塩の塊を円卓に置いた。



「この一握いちあくの塩が、全てを物語っています」



 ほっそりとした長い指で、ユディトは岩塩を軽く転がす。彼女の蒼い瞳は、そこに世界の真実を見出そうとするかの如く透徹な知性を湛えている。いや、実際に彼女の視界の中には、小さな塩の塊が語る世界の真実が、確かに映し出されていた。



「現在、煌都の中で正式に製塩を行っているのは、海沿いにあるタルシシュとテサロニカの二都市のみです。一月あたりの総生産量は、合計で700クォート(約700トン相当)。


 ところが、我々が一日に消費する塩の量は、一人当たり平均3クタリ(約3グラム相当)です。現在の都市生活者の総人口はおよそ一千万人であり、一日当たりに30クォートの塩を消費し、一か月経てば900クォートの塩を必要とします。



 ……つまり、200クォート足りないのです。



 概算なので正確さには欠きますが、我々が常に物資不足の危機にさらされていることを証明するには十分でしょう。


 ところが、我々は塩の不足で困ることはほとんどない。流通の乏しい小村ならともかく、煌都はいずれも物資で溢れかえっています。


 では、残り200、あるいはそれ以上の量の塩はどこから来ているのか?」



 ユディトの投げかけた問いは、湖面に投げ込まれた小石のようにざわめきの波紋を広げていった。


 商いに通じる者や政治を司る者を除けば、誰も自分たちの口にしている塩がどの程度作られ、どこから来ているかなど知り得るはずもない。また、200にせよ900にせよ、クォートという単位を実生活の中で実感するのは困難なことだった。


 だが、真実を知る一握りの者たち……すなわち煌都の支配者たちは、彼女の言葉を聞いて密かに動揺していた。


 そしてカナンもまた、あることを思い出していた。旅に出たその日のこと。あの日、闇渡りのイスラが受けていたある仕打ちについて、思いを巡らせていた。



「カナン。貴女なら知っているでしょう」



「……言うまでもありません。ですが、あえて言いましょう。


 残りの200クォートの塩にせよ、あるいはそれ以外のあらゆる品々……特に原材料や燃料といった物品の流通は、闇渡りとの交易によって成り立っています」



 ユディトから投げられた球をカナンは即座に打ち返した。そして、彼女の言葉を聞いた大衆は、いよいよ動揺の色を深めていく。


 衝撃的な事実であった。煌都の人々は、生まれた時からある種の特権意識に浸かりつつ成長する。それは、自分たちが選ばれた民であり、選ばれなかった闇渡りよりも祝福されているという意識だ。


 選ばれたということは善の証明となり、逆に選ばれなかったことは悪の証明となる。故に闇渡りと交わることはおろか、会話を交わすことすら忌避される。不平等に扱ったとて誰も文句は言わず、当の闇渡りたちでさえ大半は唯々諾々と従う。そうした態度が、余計に都市生活者の自尊心を膨らませていた。


 それだけに、神の良民たる自分たちが、悪人と蔑視していた闇渡りの助けを受けて生活しているという事実を、素直に呑み込めなかったのである。


 しかしユディトは「まだまだ」だと考える。この程度の指摘は序の口に過ぎない。


 だが、彼女が再度口を開く前に、カナンが先んじて言葉を発した。



「今から半年前……私が、エルシャで守火手を得た時のことです。


 彼が……闇渡りのイスラが下町の酒場に入ってきて、店主にささやかな食事と麦酒ビラーを注文しました。ですが店主は彼を追い払おうとしたため、イスラは拳ほどもある瑠璃の原石を取り出してそれと交換したのです。


 その時の食事は、私は正面に座っていたので良く憶えています。どう見積もっても銅貨二枚分にしかならないような食事が、金貨一枚以上の価値を持つ宝石と取り換えられた光景は衝撃的でした」



「それと同じことが、全世界で日常的に行われているのです!」



 カナンの結びを奪う形で、ユディトは再び演説の主導権を取り戻した。もっとも、大衆の反応は彼女が予定していた以上に沸き立っている。


「ふざけるな!」


「どっちの味方をしてるんだ!」


 そんな罵声さえ聞こえてきた。継火手に対する罵倒など無礼千万な行いだが、誰がどこで言ったか分からず、ラヴェンナの兵士も取り締まれなくなっている。


 もっとも、ユディトはまるで気にしていなかった。


 こうなるのは当然だろう、と思っている。人畜無害な市民であるはずなのに、いきなり「不平等な物々交換を強いる連中だ」と言われてしまったのだ。大衆は自分たちが悪者扱いされることに、過敏なまでの拒否反応を示すものである。自尊心を傷つければ、礼儀や規範すら忘れてしまうのも仕方の無いことだろう。



 無論、表立って声を上げる人間は少ない。場が静まるまで、しばらくユディトは待つことにした。用意された杯に水を注がせ、一息に飲み干した。

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