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【第百七六節/新世界賛歌―間奏】

「あったなぁ、そんなことも」


 煎り豆を齧りながらイスラは呟いた。いつも使っているおやつ用の袋の中には、塩を振って炒っただけの豆が大量に詰められている。長丁場になると思っていたので、ともかく口寂しさを紛らわせることの出来る間食を作ったのである。


「もうちょっと感慨深そうに言いなよ。ちょっとおくれ」


「ん」


 ペトラの小さな手にざらざらと豆を落とす。後ろで見ていたサイモンは「俺も!」と手を突き出すが、「無くなるからやらん」と突っぱねた。


 そんな様子を見ていたオーディスが、唐突に「面白いな」と言い出した。


「何がだよ」


「イスラ。君はその豆をどこで仕入れた?」


「難民団のガキ共から買った。それがどうしたんだよ」


「成程、闇渡りの子供たちが第一次生産者、そういうことですね?」


 観覧鏡から目を離したヒルデが答える。オーディスは深く頷いた。


「出所が分かっただろ。豆類は煌都の耕作地でも育て易い部類に入るが、それはそれだ。むしろ、煌都が闇渡りに依存している部分は多岐に渡ろう」


「私も、ウルバヌスの経営を任されていた頃に感じていました。都市の生産力だけではどう考えても困窮するはずなのに、不思議と経済は上手く回っている……でもそれは、見えないところで負担を掛けられる層がいたからなんですね……」


 ヒルデは顔を伏せた。名うての行政官として持て囃されてきた彼女だが、実際には既存の経済構造に則って事を進めてきたに過ぎない。その事実は、聡明な彼女自身が誰よりも深く理解していた。


「悔やむことは無い。君は私の仕事を代わりにやってくれていたんだ。それに、自分が治める者たちを富ませるのは、統治者として当然の責務だ」


「ありがとうございます、オーディス」


 ヒルデは小さく息を吐いた。


「……煌都の支配階級の中では、密かに広まっていた事実だ。エマでさえ、知りながらどうすることも出来なかった。出来たかもしれないが、時間が無かった」


「でもさ、一つ思うんだけど」


 ぽりぽりと豆を齧りながらペトラが質問する。


「何がだね?」


「いやね、吹っ掛けられるのが嫌なら、値段を吊り上げたら良いじゃないか。煌都だって塩や薪が無かったら困るんだろ?」




「「「出来るわけがない」」」




 一つはオーディス、一つはイスラ、ではもう一つの声はどこから聞こえてきたのかとペトラがきょろきょろと周囲を見渡す。


 そんな彼女の後ろに、ずんぐりとした禿頭の男が立ち上がった。


「アブネル、あんた来てたのか。ってか、よく通して貰えたな」


 気安く話しかけるイスラを苦々し気に見下ろしながら、アブネルは革袋に入れた水を一気に飲み干した。


「私が呼んだんだ。元サウル派の急先鋒には、是非ともカナン様の演説を聞いてもらいたいと思ってね」


「お陰で馬車の荷台に押し込まれたがなっ!」


 それで赤くなっていたのか、と一同合点がいった。


「で、何でダメなんだい?」


 気を取り直してペトラが質問する。


 最初の回答者はオーディスだった。


「穀物や酒、あるいは鍛造品の生産を都市に依存しているからだ。


 特に穀物だな。パンを作るにせよ、麦酒ビラーや火酒を作るにせよ、原材料は全て麦だ。そして麦を育てようと思ったらどうしても広大な土地が必要になる」


「それに、闇渡りには組織的に物を売り買いする業者……つまり商人の数が圧倒的に不足しています。だから個人で商店や村、町と取引をすることになるんです。加えて、商人を守るための法律が存在しません」


「だから用心棒を雇うしかない。しかし雇ったところで、腕自慢を抑え込むことは出来ず、結局乗っ取られてしまう。こんなところではないかな?」


 オーディスはちらりとアブネルを見た。まさにアブネルこそ、こうした現状を最も理解している人間であろう。


「じゃあ、腕っぷしの強い商人になれば良いじゃないか」


 ペトラは食い下がるが、今度はイスラが「どうやってなるんだよ」と聞き返す。


「そりゃあ、まあ……色々勉強して?」


「誰から」


「先生?」


「そんなカナンみたいな奴が、ホイホイ生え出てくるわけないだろ」


「つまり、知識階級の不足。これが第二の原因だな。現在我々の抱えている難民6000人の内、最低限の読み書きが出来る者は100人に満たない。最近はいくらか向上しつつあるが、煌都の水準には到底及ばない。


 それに、仮に闇渡りたちの識字率が煌都と同等であったとしても、対等になることは決して出来ない。何故なら……」


「継火手がいるからだ」


 アブネルが呟くように言った。


「天火と法術の力は絶対だ。いくら伐剣を振り回して斬りかかったところで、消し炭にされるのがオチだろう。サウルがウドゥグの剣を手に入れるまでは、誰もがそう思っていた」


 サウルが継火手を討ったその瞬間こそ、まさに歴史の転換点であったのだ。


 既存の権威を覆い隠していたヴェールが剥ぎ取られ、継火手もまた暴力に屈しうる存在だと白の下に晒されてしまった。


 問題は、彼が世界の転覆を企むことしか考えていなかったことだ。また、サウルを討ったイスラとしては、彼がより個人的な動機で行動していたように思えてならない。アブネルも同じような感慨を抱いた。



『世界だなんだと、自分の目に収まりきらねぇことまで考えてどうするよ。何の得になるってんだ』



 そんなことを言いそうだな、とアブネルは思った。


 だが今、彼の目の前には、世界のことについて真剣に論じ合っている少女たちがいる。


 自分やサウルには見えなかったものを、その目に映している少女たちが。


「……参るな、全く」




◇◇◇




 世界について語る少女たちを前に、オーディスもまた感慨に耽っていた。


(財力、学力、そして暴力……煌都が闇渡りたちを圧倒していたのは、これら全てを独占していたからだ。


そしてその頂点には、究極の暴力の担い手である継火手がいる)


 エマヌエルが生きていた頃、彼女は人前では決して弱味を見せなかった。常に理想の継火手であり、理想の統治者であろうとしていた。


 そんな彼女が、一度だけ弱音を吐いたことがあった。褥の上に白色金の髪を広げ、上気した身体を毛布一枚で隠したきりで、ぽつりと呟いたのだ。




「世界を支配する、人ならざる力を持った女たち……まるで、人間じゃないみたいじゃありません?」

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