広場は未だ喧騒が燻り続けているが、当初よりはいくらかマシにはなった。結局、聴衆はおろか煌都の代表でさえ、ユディトの二の句を待たないことには、議論を進められないからだ。
だが、カナンもまた、広場が落ち着きを取り戻すのを待っていた。
「先程の言葉を聞く限り、私たちは互いに共通認識を抱いているように思えるのですが」
「そうですね。私も、貴女の意見を全て否定するつもりは無いということです。現に今の世界の仕組みが破綻しかけていることは事実ですし、その事実も露わにされたのですから」
「でしたら、救征軍を認めていただけますか?」
カナンはぬけぬけと言ってのける。ユディトは間髪入れず「論外ですね」と撥ね退けた。
「最初に申し上げた通りです。救征軍構想などという浮世離れした考えを、政策として認めるわけにはいきません」
ユディトが指を鳴らすと、後ろに控えていたイザベルとイザベラが資料を配っていく。各代表とカナンの手元にまで回ったのを確認すると、ユディトは次の段階へと駒を進めた。
「都市生活者と闇渡りの間で発生している格差については、先程お話した通りです。確かにこの格差があるからこそ、全世界の煌都と衛星都市、村落は発展を続けてこられました。その裏側に、大きな危険性を孕んだまま。
しかし、見方を変えれば、この危険性を大きな好機に変えることも可能なのです!」
「……その根拠が、この資料に書かれていることなのですね」
カナンは手渡された紙を指先で叩いた。
そこには、ユディトが手に入るだけの資料を使って弾き出した、様々な数字が列挙されている。
「その通り。早い話、現在煌都をはじめとした諸都市の使っている貨幣制度を、そのまま全世界の闇渡りたちに浸透させるのです」
一部の識者を除き、ユディトの語ったことの重大性を理解出来る者は少なかった。だが分かる者からすると、それがいかに革新的な発想であるか一目瞭然であった。ある意味、エマヌエルの構想を下敷きにしたカナン以上に、過激な提案ともとれる。
「継火手カナン、貴女は闇渡りたちの間に貨幣制度が根付いていないことに、早い段階で気付いていたのではありませんか?」
カナンは首を縦に振った。姉が自分の書いた日報をしっかりと読み込んでくれていたことが伺えて、少し嬉しかった。
「その通りです。補足すると、全く根付いていないというわけではないのです。一部の知識を持った者は、ちゃんと貨幣の価値を理解していました。
現に、闇渡り同士では貨幣もある程度意味を持ちます。常に旅を続けている彼らにしてみれば、いつも現物を持ち歩いていくわけにはいきませんから。
ですが危険も大きい。銀行のような仕組みも無いので、一人当たりが保有出来る貨幣の量には限界があります。そして、個人単位でしか貨幣のやり取りをしていないため、全体的な流通量も非常に少ないものと思われます。
何より、闇渡りたちが都市生活者と取引をする場合、貨幣よりも現物の方が価値を持ってしまうという点が何よりも大きな問題です」
「だから貴女は、出店や雑役を通して都市側と経済的な繋がりを作ろうとした」
「はい」
ユディトの指摘するところは、まさにカナンが意図して実施し続けてきたことそのものだ。何も伊達や酔狂でやらせていたわけではないのである。
「……私たちは、貨幣という金銀銅の塊に対して価値を見出しています。それは貨幣が元々価値を持っていたからではなく、私たちが、貨幣には価値があるということを決めてしまったからです。そして煌都の人々は、その幻想を共有することによって経済活動を営んでいる。
ですが、闇渡りたちにとっては、貨幣は共通幻想の源泉となり得なかった。何故なら貨幣に対する信頼より、現物に対する信頼の方が強いからです。それは過酷な環境で生きる彼らにとって当然の選択であるとも言えますが、それではいつまで経っても煌都と対等になることは出来ない。
……ですから、継火手ユディト。貴女が提案した貨幣制度の浸透については、私も異議はありません。
しかし、それだけではないですよね?」
カナンの問いかけに対して、ユディトは「無論」と頷いた。
「まず、貨幣制度を浸透させる方法として、各煌都の管区内に取引きのための窓口を設けます。主導は当然祭司階級……さらに言えば、継火手を常駐させるのが最も望ましいですね。また、この動きと並行して、市場へ流すための貨幣を増産します。
取引き窓口を起点として、購入分には相応の対価を支払い、煌都と闇渡りが対等の歩合で取引出来る信用を作ります。同時に我々の手の届かないところまで貨幣が行き渡り、少しずつ闇渡りを我々の経済活動の中へと取り込んでいく。
人間の手足や器官には、大小様々な血管が走っています。例えば指を強く締め付ければ、指先や爪は血が回らず変色してしまうでしょう。
経済も同じです。今まで私たちは、身体のあちこちを縛り付けて、重要な器官だけに血液を流し生きてきたようなものです。しかし指先に血が通えば、再び精緻な動きを取り戻すことも出来るでしょう。脚に血が通えば、立って歩き回ることも出来るのです」
語りながら、ユディトはその細い腕を突き出し、目に見えない何かを捧げ持つように両手を広げた。
「かつてこの世界に在った巨大な帝国は、国土の隅々に至るまで経済と政治機構を整え、さながら一柱の
今は倒れ伏して、死骸の如く弱り果てているその巨人を蘇らせるためには、この世界に生きる全ての人間の力が必要なのです。
……全世界の経済単位。すなわち全人類の合力による、旧世界の秩序の復興。
私はこれを、循環国家論のテーゼとして主張します」
ユディトは、別段大声で語り切ったわけではない。口調そのものも、今までとは大差ない。
しかし彼女の主張した内容は、まさに巨人の拳の如く強烈な印象を伴っていた。先ほど彼女が「格差の構造」について暴露した時以上の衝撃が人々の間に伝播した。事前に彼女の構想を聞かされていた一部の要人でさえ知らなかった、循環国家論の神髄である。
この大風呂敷の広さは、カナンやエマヌエルの救征軍構想に勝るとも劣らない。さらに、今まで影も形も無かった所に急に現れてきただけに、印象の強さについては、この
かつてこの世界に巨大な帝国が存在したことは、闇渡りでさえ知っている常識だ。だが、それはあまりに遠い過去のことであり、今となっては一部の文献や朽ち果てた遺跡に、その名残を見出すのみである。
誰にとっても近くて遠いもの。それが旧帝国である。
今現在、自分たちを取り巻いている環境……すなわち永劫の夜という状態は、その帝国が神の怒りを買ったが故に起きたことだ。だから、そんな諸悪の根源を復活させるという大言はある種の涜神行為とさえとられかねない。現に、話を聴いていた祭司の一部がユディトに攻撃的な視線を向けていた。
だが、そんな一部の反感をよそに、大衆は彼女の構想の壮大さに魅せられていた。
賛成するか否かは別として、今まで考えたことも無かったようなことが、目の前に急に表れたのだ。巨人の復活という扇情的な形容も、大衆の心を捕らえるのに一役買っていた。
ユディトは、その
「短期的に見れば、貨幣の増産は都市生活者にとって不利に働きます。これまで格安で買い叩いていた品々を手に入れるために、今以上の支出が必要となるでしょう。
しかしそれは、都市生活者が豊かになるための前段階に過ぎません。
考えてみてください。取引の拡大によって都市に流れ込んでくる原材料が増えれば、それを加工するのは都市生活者の仕事となるのです。
そして、加工され価値を付加された品々は、今まで以上の見返りを我々にもたらすことでしょう。
何より、闇渡りの不満を軽減することで、私たちは安全という掛け替えのない利点を得られるのです」
曖昧だった騒めきが今度は確かな歓声へと変わった。手応えを感じたユディトはさらに畳み掛ける。
「この政策により、何より林業の発展が見込まれます。林業の発展は建築や加工、製鉄の分野の発展を促し、それらを輸送する流通や、流通に携わる者を助ける奉仕職業の活性化を促します。
天火があるために見落とされがちですが、私たちは常に少ない燃料を用いて日々を凌いでいます。その枷が外されるということは、今まで細々と続けるしかなかった産業が、潜在的な力を発揮し得るということなのです。
一つの産業分野の発達は他の発展を促し、その勢いは波動のように全世界へ普及していきます。
想像してみてください。
物が溢れ生活に何不自由することもなく、文化と文明が煌都を彩る世界を。
この輝かしい未来を棄てる道理など、何処にもありはしません!」
歓声。それに続き、拍手が沸き起こる。大衆は完全に、ユディトの語る煌びやかな世界に魅せられていた。
さもあらん、煌都とは閉鎖された世界である。大燈台と天火の加護によって安全を保障されてはいるものの、必要以上の贅沢を享受出来るのは一部の特権階級や富裕層のみだ。そしてその特権階級にしても、地位に応じた厳しい義務を課せられる。
ユディトにせよカナンにせよ、いささか気真面目過ぎるとは言え、そうした煌都の基本的な倫理観に忠実であるに過ぎない。
だからこそ、そんな貴族たちが手にしているような豊かさが手に入るとなれば、人々が熱狂するのは当然の反応であった。貧しい生活を強いられている者ほど、ユディトの提案に心を揺さぶられた。
場の空気は、完全にユディトが掌握してしまった。彼女が、人々が最も望むことを提示してしまったからである。最早大衆は、カナンを贔屓目に見てはくれない。
『違う。虫だ。大衆という名の害虫が、高貴な心を穢すのだ。花弁の陰にこそこそと隠れ、葉を齧り蜜を啜る寄生虫。一部の選ばれた者、高貴な者以外は全てがそうなのだ。
大衆は弱く、故に愚かである。弱いから己の考えを持てず、胸を張って発言することも出来ぬ。しかしこれが十、二十と寄り集まると途端に凶暴になる。その上愚かで理性が無いから、白を黒と信じることもあるし、一に一を足して三と答えもする。
故に真理や正義を説いても意味が無い。彼奴らの卑屈な魂には決して届かぬ。どれほど賢く気高い者であっても、いつかはその愚鈍さ、阿呆ぶり、高慢に耐えられなくなるのだ』
魔女の言葉が、カナンの脳裏に木霊した。この旅の中で何度となく蘇っては、彼女を責め苛んできた言葉。それを自覚するたびに、己の中にいる穢れた意思を自覚させられた。
(でも)
孤立無援の状況下にあっても、カナンはなお諦めてはいなかった。頭蓋の中に響いてきたベイベルの言葉を振り切り、敢然と顔を上げ、ユディトと向き直る。
「難民たちは、どうなりますか」
「煌都と夜の世界を繋ぐ橋渡しになってもらいます。貴女もそう。彼らの窓口として、これ以上適任の者はいないでしょう」
そうだ、それが良い。と誰かが言った。その声に乗せられて、賛意を表明する声がまた一つ、また一つと増えていく。どこまで行っても、都市生活者にとって闇渡りなど他人に過ぎない。
それは投票権を握っている各都市の代表者にしても同じことだ。
循環国家論、すなわち帝国の復活とは、どこまでも人々の欲望を刺激する思想だ。欲望が経済活動の、ひいては人間にとっての原動力である以上、この巨人を打ち倒すのは容易なことではない。
(そうだとしても)
欲望は人を魅了し、駆り立てるかもしれない。
しかし、人を生かし、意義を持たせるのは、もっと別の物であるはずだ。
「諦めなさい」
ユディトは冷然と告げる。彼女は勝利を確信していた。
循環国家論は完全な理論ではない。というのも、内部に必要悪を抱えているからだ。闇渡りの世界に通貨を大量流出させるのは、一見すると彼らを対等に扱う行為に見えるかもしれない。
しかし、それだけである。公平さを担保するのはあくまで取引においてのみであり、待遇そのものは一切変わらない。彼女が語った豊かさも、結局は都市生活者だけの利益である。
ユディトは、自説が持つそうした生臭さを、余すことなく理解していた。理解した上で言っている。何故なら、この会議の主導権を握るのは煌都の重鎮と都市生活者であるからだ。肝心の闇渡りは蚊帳の外に置かれていて、一切異論を挟めない。
イスラがギデオンに勝利したことで、確かにラヴェンナの市民たちはこの一件に注目した。だが、それですぐに闇渡りを支持するわけではない。人は基本的に、他者の利益よりも自己の利益を追求する生き物なのだから。
人間の生々しいまでの欲望。循環国家論は絶対に支持される。何故なら、これが人の本質を突いた政策であるから。
「分かるでしょう、カナン。これが、人の望みの喜びよ」
ユディトは小さく唇を動かした。その動きは、カナンの目にも見えたはずだ。
ユディトは顔をそむけ熱狂する大衆たちを見やった。彼らの熱気とは裏腹に、ユディトはどこまでも冷ややかで、まるで氷で創った彫像のようだった。
欲望は、頻繁に火や炎として喩えられる。この光景を見れば頷けるはずだ。いくら理想主義者の妹であっても、ここまで我を忘れた大衆を鎮める言葉を語ることは出来まい。ユディトはそう思っていた。
だが、心のどこかで「そうはならないわ」と呟く声が聞こえた。
「違います、姉様」
妹は、昔からはねっかえりだった。
そして、世界中の誰よりも、屁理屈をこねるのが上手い。
「人の望みも喜びも、そんなところにはありません」