目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

【第百七六節/新世界賛歌―魂の天秤】

「先生、この世界で一番小さなものって何ですか?」


 カナンが十歳の時のことだ。屋敷の一角、後に彼女の書庫になる部屋で、フィロラオスにそんな質問を投げかけたのは。


 幼いころから、自分の内側にも外側にも、数えきれないほどの疑問が転がっていた。そして、誰かれ構わず質問せずにはいられなかった。


 時には父に、時には姉に、またある時は師であるギデオンに。だが、誰よりも彼女の知的好奇心を満足させてくれたのは、パルミラからやってきた老博士だった。


 フィロラオスは誰よりも真摯に彼女の問いに答えてくれた。他の教師たちも賢者には違いないのだが、どこか父をおもんぱかっているところがあり、あまり核心的なことは教えてくれなかったのだ。


 そしてフィロラオスもまた、目の前にいる少女が人並外れた智慧を湛えていることに気付いていた。「世界で一番小さいものは?」という質問は、一見すると年ごろの子供が抱きそうなものに思えるが、カナンの場合は事情が異なっている。


 彼とてそう多く出会ったわけではないが、天才的な人物というのは、その頭脳の中で何段階にも発想や思考を飛躍させている。言葉や行動として出てくるのは、その段階の一部分に過ぎない。だから傍目に見れば奇異に映るが、当人にすればそれは論理的かつ必然的な行動・言動なのである。


 フィロラオスは、そんなカナンの天才性を微塵も否定しなかった。むしろ、その飛躍がどのようにして現れたのか知りたいと思った。


「何故、それが気になるのかね?」


 そう聞き返すと、カナンはやにわに林檎を取り出した。屋敷の庭に一本生えていたな、と思い出す。そこから持ってきたのだろう。林檎の表面には小さな噛み痕がついていて、瑞々しい金色の果実が露わになっている。


 カナンは、その噛み痕を老博士に向かってズイと突き出し、言った。


「シャリシャリなんです」


「ほう、シャリシャリ」


 彼女の父親であるエルアザルは、カナンのこういう突飛なところが苦手らしい。勿体ない、とフィロラオスは思った。


 こういうことには、楽しんで乗っかるのが正解なのだ。


「何故、シャリシャリなのだと思うのかね?」


「林檎が、小さい粒の集まりだからです」


「蜜柑もそうじゃ。小さい粒の集まりじゃろう?」


「林檎の粒はもっと小さいからです」


「うむ……なら、塩や砂はどうじゃろうか」


「あれはジャリジャリです」


「成程。しかし塩も砂も小さい粒じゃ。じゃが、ジャリジャリと音を立てる。ということはつまり、シャリシャリが生じる原因と、物そのものの大きさは関係ないということになるのう」


 カナンはこくりと頷いた。「君はどう考えているのかね」とフィロラオスは促した。


「林檎がシャリシャリするのは、林檎の粒の間に、もっと小さな何かがあるからだと思うんです」


「ほう」


 今のカナンの言葉で、大方の彼女の思考が読み取れた。林檎に噛り付いた時の食感から、直感的にそこに何かがあると考えたのだろう。そして、先の質問に繋がるのである。


「君は林檎を齧って、そこにシャリシャリを生じ得る何等かの存在を疑った。


 そして、その何等かの存在は、儂らの住む世界全体に満ち満ちているのではないか……そう考えたのじゃね?」


「はいっ!」


 カナンはパッと顔を輝かせた。自分の考えを読み取ってくれたのがよほど嬉しかったのだろう。もし尻尾が生えていたら、千切れんばかりに振り回していたはずだ。


 そしてその喜びの中には、自分が未だ発見されていない未知なるものを見つけた、という興奮が多分に混ざっているのだろう。



「残念ながら、そういうことを言いだしたのは、君が初めてではないのじゃよ」



「えー!?」


 一転して不機嫌そうな顔になる。唇を尖らせたまま、彼女は林檎をかぷりと噛んだ。


「ほっほっ、まだまだ甘いのぅ。そういう物の考え方は、すでに何百年も前に生み出されておるのじゃ。原子論と言ってのう。神様がこの世界を創造するにあたり、とてもとても小さな粒を材料にした、というものじゃ」


「小さな粒って、どれくらい小さいんですか?」


「それは儂にも分からん。何せ、目で見える程度の小ささではないじゃろうからのう。昔はそういったものを見る技術もあったそうじゃが、今は完全に失われてしもうた。じゃから、原子論も仮説のまま止まったきりで、真相がどこにあるのかは分からんのじゃよ」


「へー……」


「ただ、これを言い出した人は、世界の在り様を説明しようとした点が実に偉い。神の御業を推し量ることは儂らには出来んが、そこに何かを存在させようと思えば、それを存在させるための何かが存在するはずじゃ……少しこんがらがるがのう」


 恐らく自分が生きている間に、その世界を構成する「何か」を目にすることはないだろうな、とフィロラオスは思った。



「さて、そういうわけで、世界には一番小さな何かがある。しかしそれを見ることは出来ず、従って証明することも出来ん。以上じゃ」



 いささか消化不良気味のまとめ方だが、現にフィロラオスが答えられることはこれ以上無い。老博士は書庫を出ていこうとした。


 だが、天才の思考は、物の構成要素だけでは満足していなかった。


「先生」


 フィロラオスが振り返ると、カナンはローブの胸元をぎゅっと強く握った。




「先生。物が小さな粒で出来ていることは分かりました。


 じゃあ、人間の心にも、それを形作る小さな粒があるんですか?」




◇◇◇




 さすがに今となっては、人間の心が天秤のような形をしているとは思っていない。子供らしい単純な考え方だな、とカナンは思った。


 だが、自分は昔から、心というものに強い興味を抱いていた。


 魂と表現出来るかもしれない。


 哲学のごく基本的な問いだ。我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか……。


 継火手カナンは、この旅の中で様々な経験を積み重ねてきた。それら一つ一つに対し、彼女はどこまでも真摯に向き合い、己の心と照らし合わせてきた。


 共感することもあれば理解出来ないこともあり、分かりながら拒絶したこともある。それはまさに自己を規定する行為であり、ひいては己の思考を洗練する営みだった。


 そしてふと、自分が旅を始めた理由を思い起こした時、何もかもが必然であったように感じられた。


 何不自由無い環境で育った自分が、何故、自らの人生に不満を抱いたのか?


 傍目に見れば不幸にしか見えないことを率先して行う、その不合理性。そして自分はそれを辛く思ってはおらず、むしろ充実感さえ覚えている。


 イスラはどうだろうか? いささか特殊な例だが、とりあえず彼にとっての幸福、そして不幸について考えてみる……もちろん、分からない。彼は自分と異なる他者であるからだ。願わくば、自分と彼の望みが一致していることを欲するばかりだが、それは一旦置いておくことにした。



 あるいは、アラルト山脈の暗がりで自分を犯そうとした男はどうだったのか。


 守るべき村民を生贄に捧げ、自分自身の命さえ投げ棄てて息子を生かした父はどうだったのか。


 持て余すほどの力に取り憑かれてしまった魔女は、今も苦しんでいるのか。


 継火手を守り死んでいった守火手は。遺されてしまった継火手は。


 王になろうとした男は。王を失ってしまった戦士たちは。


 たった二人きりで夜空へと飛び去っていった少年と少女は。




 彼らは幸福であったのか、それとも不幸であったのか。




 ……分かろうはずもない。何を幸福と感じ、何を不幸と感じるのか。それは個々人によって異なる。


 人間は皆、心の中に各々の価値を決定する天秤を持っている。例えば、人によっては純金の塊が片方に乗せられても、一枚の絵の方が重みを持つかもしれない。物だけではなく、目に見えない様々な考え方や趣味嗜好が乗せられ、計量される。ただの拘りのために、山と積まれた貨幣を吹き飛ばしてしまうこともあるだろう。




 つまり、一般化することは出来ないという、至極当然の答えにカナンは辿り着き。




 そして、その一歩先へと踏み出した。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?