「欲望を満たすだけでは、人は満たされません。循環国家論は不完全な構想です」
カナンは決然と言い切った。その言葉にユディトは眉を顰め、煌都の代表たちは顔を見合わせる。周囲を取り囲むラヴェンナ市民たちに小さなざわめきが起こった。
彼ら一般人からしてみれば、ユディトの提示した循環国家論=帝国復活構想は、十分に驚嘆すべき意見であった。また、実現してみたいと思わせるだけの求心性も持ち合わせている。
そんな計画に対して、継火手カナンは真っ向から反発したのだ。
「不完全とおっしゃるのは自由です。ですが、それなら貴女には説明する義務が生まれる。一体、循環国家論のどこか不完全なのですか?」
ユディトは即座に反発する。カナンが反撃してくることは織り込み済みだった。彼女にとって、ここからが本当の戦いだ。
それはカナンにとっても同様である。
「欲望を満たすだけの社会は、本当に人を幸福にしてくれるのでしょうか。その社会は、人にとっての幸福が、物質以外によって満たされることを知っているのでしょうか」
「確かに物質主義が全てを解決するとは思わないわ。けれど、最大多数の人間を幸福に導けるのはこの方法を置いて存在しない。
逆に貴女は、人が霞だけを食べて生きられると思っているの?」
「もちろん私も、物質主義の全てを否定するつもりはありません。肉体的な欲求は精神的な欲求に先行するものであるとも思います。
確かに物で溢れさせ、欲望を充足させる社会は、大勢の人を満足させられるでしょう。ですが、その過程で必ず不幸な少数者が現れます。すなわち、自分が物以外の何かで満たされることを知っている人々です」
「現実を無視した観念論ね。説明になっていないわ。
貴女が言うところの精神の充足を成すためにも、まず社会そのものが力を持たなければならない。
窮乏の中にあってなお能天気でいられるなら、その者は馬鹿か変態のどちらかよ」
「……正気の、痛ましい表情ばかり浮かべた人々で溢れかえるよりは、いくらかマシだと思いますが」
こんな状況下でも思わず茶化してしまうのは、カナンという娘の救い難い欠点であろう。
ユディトはにべもなく「引っ掻き回さないで」と叱りつける。こうしてのらりくらりとやり過ごそうとするのは、カナンが度々使う常套手段だ。
だから一気に決め付けてしまう。傍目に見ている者は、それだけでどちらが攻めていて、どちらが守っているかを判断してしまう。いわば詰めの一手だ。
「貴女が言っていることは、全て極論に過ぎないわ。私は違う。循環国家論が完全な世界を約束するとは言っていない。
人間は不完全な生き物よ。だから人間の力だけでは、完全な社会を創ることは出来ない。
けれど、それの何が悪いの?
人間が寄り集まり、社会を形成する際に、少数者が不利な立ち位置に置かれるのは摂理のようなものよ。そんな人間にも満足させられる指標が、富の……」
「孤独になったことも無い癖にっ!!」
ユディトは一瞬、誰がそう怒鳴ったのか分からなかった。目の前にいるカナンであると気付くまでに数秒を要し、その間頭の中は真っ白になってしまった。
それは怒鳴ったカナン自身も同様だった。あるいは、この場で最も動揺しているのは彼女であったかもしれない。
逆鱗に触れる、と言うが、まさにそのような心境だった。ユディトの放った言葉のうちに、彼女の感情を瞬間的に沸騰させてしまうものが混ざっていたのだ。
言葉の投げ合い打ち合いが完全に止まり、二人の間に生じた動揺と混乱は、瞬く間に広場全体へと拡散していった。
ここまで全く焦燥を見せなかったカナンが、唐突に曝け出した生の感情。寝耳に水とはまさにこのことだ。
ざわつきが大きくなりつつある中、先に立ち直ったのはカナンの方だった。否、ユディトの方が出遅れた、と言った方が正確かもしれない。
ユディトは見てしまった。
常に飄々とした言動や表情を崩さないカナンが、怒鳴った直後のわずかな間だけ、幼い少女のように顔をくしゃくしゃと歪めたのを。
妹のそんな姿を見るのは、一体いつ以来だろうか。
カナンはすぐにそれを仮面の下へと押し隠してしまった。だが、いかに賢良方正な継火手の顔をしようと、ずっと一緒に育ってきたユディトは、それが不完全であることに気付いていた。気付いてしまった。
両者にとって、全く想定外の事態だった。ユディトは何が妹を怒らせたのか分からなかったし、カナンは姉の前でこうまで感情を露わにしてしまったことを恥じていた。
しかし同時にカナンは、空白になったこの瞬間の貴重さに、即座に気付いた。そして、その間隙に付け込んだ。
「私が、循環国家論を否定する本意は……!」
ユディトがはっと顔を上げる。だが、すでに一手遅れていた。
「その思想が、根本的に孤立と格差を生じ得るよう設計されているからですっ!!」
姉が我に返ったのは見えていた。その上で、カナンは続ける。
「貴女の意見では、帝国を復活させることによって全ての人間を豊かにするとある。けれど、そんなことは絶対に不可能です。
むしろ、元から財を持っている人間がより多くを得、何も持っていない者はさらに貧しい立場へと追いやられる! 土地を持たない闇渡りたちがいかに不利な立場に立たされるか、貴女が分からないわけがない!」
言われた、とユディトは思った。だが聴衆はさほど動揺していない。カナンは思わず「闇渡りたちが」と口走っているが、それが不味かった。ここに居並ぶ都市生活者にすれば、闇渡りの事情など所詮他人事だ。カナンは闇渡りたちのことを想うあまり、この場の聴衆を味方につけることを忘れたのだとユディトは断じた。
(よくも……まやかしてくれたわね)
いくらかの私的な憤りを抱きながら、ユディトは斬り返す。
「だからどうしたと言うの。言ったはずよ、この世に完全な社会体制などありえない。社会に富が存在する限り、ある者が栄え、ある者が貧しくなるのは当然のことよ。
循環国家論は最善の答えではないわ。けれど次善の策にはなり得る。貴女は闇渡りたちにとって不利だと言ったけれど、その不利な闇渡りたちでさえ、今より遥かに豊かな暮らしをするようになるわ!」
ユディトの言葉に対して、どこかで「そうだ!」と声が上がった。まばらだが拍手の音も聞こえる。強硬論は支持を得やすいものなのだ。
だが、カナンはそれを吹き飛ばすかの如く反論する。
「彼らにとっての豊かさを決めるのは、私たちではありません。
闇渡りだけでない……!」
カナンは腕を高く掲げる。ラヴェンナの大燈台に灯る天火を掴むように、星々を
人々の視線を吸い寄せたその腕を、カナンは撫でるようにゆっくりと掻き払った。
「遍く全ての人々にとって……ここにいる人々も、いない人々も。煌都の住人も闇渡りも、祭司も戦士も罪人も……」
この時のカナンの声は、それまでとは異質な響きを伴っていた。聖なる継火手として語る超然とした声音はなりを潜め、ありのままの彼女の声だけが……血の滲むような切実さと、その後ろに透けて見える、どこまでも純粋な想いだけがあった。
「貴女も、私も」
ユディトでさえ、一瞬圧倒された。
妹が今まで見せなかった表情、露わにしなかった激情、それらに囚われてしまった。
(……見せなかったんじゃない、無かったんだ……)
自分が知らないうちに、妹が手に入れていたもの。カナンにしか分からないもの。それが彼女に新しい強さを与えたのだと、そう思った。
「誰かの幸福を決めることは、私たちには出来ない。
けれど、幸せを得るために、誰もが必ず通る道があります」
「……それは、何?」
無意識のうちにユディトは呟いていた。
そんな姉の顔に真っ直ぐ向き合い、カナンは言った。
「何かを選ぶということ。そして、何かを選べる自由です」