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【第百七六節/新世界賛歌―福音終奏】

 その言葉は大歓声と賛意をもって迎えられた……わけではない。


 カナン自身の想いに反するように、人々の間にはさほど深く伝播しなかったようだった。あまりに当たり前のことであったからだ。


 だが、彼女はいささかも落胆していない。一度届かなかったくらいで頭を垂れるようなら、最初から人々に向かって語ろうとは思わない。


 一度言って分かってもらえないなら、もう一度言うのだ。それでだめなら、また最初から、何度でも。


 それを相手がどう受け止めるかは分からない。だが、語ろうとする意志を棄ててしまったら、その先には何も無くなってしまう。


 だからこそ、己の全知全能を尽くして、言葉を紡ぐのだ。




「私たちは誰もが、行き先を知らない旅人としてこの世に生まれてきます。


 どこに向かって、何をやって生きていけば良いのか……その答えを知ったまま生を受ける人は、誰一人としていません。


 社会というものは、私たちにその生き方の指標を与えてくれます。社会の中には様々な人が居て、その生き方を真似たり、憧れたり、時に反発して自分を作っていく。それが私たちです。


 けれど、社会は同時に、私たちの在り様を決めてしまうものでもあるのです。知らず知らず、自分はこうならなければならない、こうでなければならないと思い込まされてしまう。それを自覚して受け入れたり、拒絶したり、あるいは自覚せずに生きていく……それは人それぞれでしょう。


 幾多の人々が寄り集まり、その中で自分が何を望むか、望まないか。それを選べるのは、とても贅沢で、尊いことなのです」




 カナンは身体の向きを変え、居並ぶラヴェンナ市民に対し声を張り上げる。その言葉以上に、彼女の表情や声音が、引力のように人々を引き寄せた。




「何かを選ぶという行為の中に、私は人間という生き物の豊かさを見出します。


 例えば朝食のパンにバターを塗るか、ジャムを塗るか迷ったり……どんなに些細な選択であっても、そこには神様から与えられた自由意志が働いているからです。


 獣であっても、何かを選ぶということをするかもしれません。けれど、彼らにとっての選択と、我々人間にとっての選択は、全く異なる重みを持っているのです」




 胸に手を当て、目を閉じる。そこに潜んでいる、見えない何かと対話するかのように。




「私たちだけが……人間だけが、必要性に拠らない、不合理な、その人にしか分からない理由で、何かを選ぶ。


 どんなに重い選択も、軽い選択にも、その人が積み上げてきた、その人の人生そのものが関わっている!


 何かを選ぶその瞬間に、私たちは自分でも意識しないまま、他のどんな時よりも人間らしく在るのです!」




 今や救征軍のことも、循環国家論のことをも脇に置き、カナンはただひたすら、自分の中から湧き出してくる言葉を無我夢中で操っていた。


 最初は淡白な反応しか示さなかった聴衆にも、徐々に変化が生じ始める。


 カナンの一挙手一投足に、誰もが目を奪われていた。知らず知らずの内に、彼女の言葉は聖堂の鐘の如く、人々を内側から振動せしめていた。


 無限に生き続ける言葉があるとするなら、それはさながら、永遠に響き続ける鐘のようなものだ。


 果たしてそんなものを人間が産み出せるのかは、誰にも分からない。


 しかし今この時、カナンが紡いだ言葉は、世界ツァラハトの歴史に長く残響を轟かすものとなるだろう。


 少なくとも歴史家たちはそう判断し、彼女の言葉を委細聞き漏らすまいと、耳と手に全神経を集中させていた。


 カナンは、続ける。




「では、この世界で最も不幸な状態とは何でしょうか。


 私は、選ぶということを知らない、知らされなかった人々こそ、最も不幸であると思うのです。


 選択という、人間性の発露……それを知らないということは、自分が人間であることを知らない、知らされないのと同じことなのです。私たちが本来持っている自由や権利や尊厳を知らないということなのです!


 自分が、この世界を照らす光の一つであることを知らないということなのです!!」




 遠くからカナンを見ていたアブネルは、その華奢な後姿にあの日のサウルの背中を重ねていた。


 育ちも素質も、考え方も経験も、果ては歳や性別さえ違うというのに、アブネルにはカナンとサウルが同じ存在のように思えた。より正確に言えば、彼らの纏っている空気そのものが似通っていた。


 もしもこの世界が大きな劇場であるなら、照明を操る何者かが存在するはずだ。そしてその眩い輝きを向けられた人間は、光に当たっている限りある種の神性さえ帯び得るのではないか……そんな埒も無いことを考えた。



 だが実際に、この時のカナンは継火手でも祭司でもなく、それらより権威のある何者かのようであった。



 相対しているユディトでさえ、圧倒され、半ば戦意を失いかけていた。


 妹が天才であるということを自覚しながら生きてきた人生だ。だからこそカナンに対して張り合うようにひたすら努力を重ねてきた。


 また、妹を誰よりも知っている自分であるからこそ、この論争に勝機を見出していた。今のユディトには、ただの天才を退治する方法などいくらでも思いつける。


 だが、カナンは最早理屈を語っているのではない。


 真理を語っている。


 才能や知識ではなく、人間精神の最も深い場所から溢れてくる賛歌。ユディト自身でさえ、内心何度頷かされたか分からない。


 群衆の脳裏からはすでに、帝国復活の絵図など消え去っていることだろう。あれが絵に描いたパンであることはユディト自身も承知している。どんなに華やかであろうと、帝国を復活させることによって得られる豊かさは将来的な物だ。


 カナンは違う。今ここに居る全ての人に向かって、彼らの中に宿っている確かなものを解き明かして見せた。富であがなうことあたわない何かがあるのだと証明してしまった。群集だけでなく、冷徹な判断を下すべき煌都の重鎮ですら、彼女の言葉に呑まれていた。


 一体、金の延べ棒をやるから首に鎖を巻けと言われて、従う者がいるだろうか? カナンはそういうことを言っている。


 歴史書を紐解くと、その中には神の寵愛を得たとしか思えないような人間が散見される。あるいは時代の意思そのものを代弁、代行したかのような者が現れる。自分の妹は今、そんな存在になっているのかもしれない。


(あの子の行く道を妨げようとするのは……歴史や時代に喧嘩を売るようなもの、か……)


 少し前に、ラヴェンナの劇場で鑑賞した演劇のことを思い出す。あの時も、エマヌエルに扮した役者が照明を一身に浴びていた。今のカナンは、あれとは比べ物にならないほど大きな舞台に立っていて、目も眩むような光を纏ってる。


(……選ぶことが、幸福なのだと言ったわよね。それなら、私は……!)


 ユディトは拳を固く握り締めた。




「大切なのは何かを与えることじゃない。人が自分の望む物を知り、それに向かって手を伸ばせる世界。


 だからこそ私たちは、世界を……私たちの居場所を広げなければならない!


 定められた箱庭を出て、一人ひとりの尊厳が貴ばれる煌都を新たに打ち建てる! その在り様こそが、神の望む正しい世界です!!」




「否ッ!!」




 ユディトは絶叫と同時に、振り上げた拳を円卓に叩き付けた。それまでの取り澄ました口調をかなぐり捨て、無粋な一打と共にカナンの独唱を遮る。


 しかし、それは非常に危険な行為でもあった。


 最早群衆はざわついてなどくれない。ほとんどがカナンの味方になってしまっている。味方というよりも、沸き立った油と表現した方が良いかもしれない。何かのたがが外れたら、彼らは一斉に暴徒と化して自分を引き裂こうと殺到するだろう。


 だが、ユディトは傲然と胸を張った。他人の言葉に流されて右に左に揺れる有象無象など恐れるに値しない。もしも襲い掛かってくる不埒者がいたら、迷いなく法術を放つ覚悟だ。


 そうまでしてでも、カナンと相対する選択をユディトは採った。これが単純な憎悪や嫉妬、怨恨であったなら、とうに戦意を失っていたことだろう。しかしユディトはそもそも、そんな動機で戦ってはいない。


 それに、まだ無謀な戦いと決まったわけではない。成程確かにカナンの言葉はある種の真理を突いている。しかし、真理をそのまま政策に転用することは出来ない。政治とは雑多な人間の意志が絡み合って成り立っているのだから。




「選ぶことが幸福の条件だと、そう言うのね?


 だったら、人を殺す判断をしたら、それが幸福になるの!? 強姦は? 強盗は? 詐欺は、偽証は、暴行は!? 


 そんな身勝手が許されたら、エデンどころの話じゃないわ!


 お前は法を蔑ろにするつもりなの!?」




 完全に不利な状況下でユディトが立てた戦術は、カナンの自由を信奉する態度を攻撃するというものだった。


 カナンの言葉はあまりに心情が先行し過ぎている。それでは他者の共感を得られたとしても、実現可能な現実性を帯びているとは言い難い。ユディトはそこに、一縷の望みを託した。


 しかしカナンは、そのような自説の弱点をすでに把握している。




「無論、そんな意図はありません。


 選択することが人間に幸福をもたらす前提条件であるなら、逆に最も憎むべき行為が何であるかも明らかです。


 すなわち、他者の選択肢を侵害すること。他者の意志を捻じ曲げ、本来自由であるべき精神の翼を折ること。これこそが罪悪であり、その最たるものは殺人です」




 今や孤立無援の状況に陥っていることをユディトは理解している。あくまで挑戦的な態度は民衆の反感を買い、反感は敵意へ昇華しつつある。まるで火によって炙られた鉄のように、民衆は触れることさえ危険なものへと変わろうとしていた。


 その変容ぶりが恐ろしくないといえば、嘘になる。ユディトはその智慧故に、民衆がいかに恐ろしいものであるか十分に悟っていた。


 それでもなお、彼女は戦いを止めようとしない。




「矛盾のあまり支離滅裂になっているわね。


 法と自由は決して相容れないものよ。法の実態が刑罰、すなわち制度化された暴力であることは周知の通り。私たちはその暴力をちらつかせることで民衆を支配している。そうでもしないと社会が成り立たないからこそ、必要悪としての法は絶対に必要なのよ。


 この事実を否定出来るかしら?」




 ユディトの反論は至極真っ当なものであった。


 カナンが法の正当性を認めるのであれば、彼女が謳う「選択の自由」は限定的なものとなり、その聖性を失う。


 一方、あくまで選択の自由を正当化するのであれば、それは法を蔑ろにするということであり、社会そのものを成立させることが出来なくなる。


 法と自由。どちらを優先したとしても、カナンの持論に潜む欠点を暴き出すことが出来るのだ。この逆説パラドックスこそが、今のユディトが繰り出し得る最後の切り札だった。




「否定する方法はあります」




 カナンは静かに、だが深い確信をもってそう答えた。「そんなことは……!」ユディトは即座に否定しようとする。しかし、カナンは姉の言葉を抑え込んで続ける。




「法が私たちを律し、制限するものであるのなら!


 まずは自分たちにとって必要な法を選んでしまえば良いのです!


 あるいは、法を創る人間を選ぶ、そういう方法を採っても良い。私たちには、それを可能とするだけの理性が宿っているはずです!」




「そんなものは希望的観測に過ぎない! 人間が信用に足る存在なら、最初から政治なんてものは……」




 ユディトはなおも反論しようと試みる。


 しかし次の瞬間、どこからか投ぜられた飛礫が彼女のこめかみ・・・・に当たり、彼女の言葉を途切れさせた。鮮血が舞い散り、ユディトの嫋やかな身体が葦のように揺れた。


 姉様、とカナンは絶叫したかもしれない。しかしその声は怒号を上げる群衆と衛士の衝突によって掻き消され、誰の耳にも届かなかった。

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