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【第百七七節/星の宮殿の姫君】

 これは夢なのだろうな、と早い段階でユディトは気付いていた。


 煌びやかな蒼いドレスを纏った彼女は、透明な酒の入った杯を片手に、巨大な広間の中心で立ち尽くしていた。


 広間の天井は、彼女が知っているどんな神殿よりも高く、それを支える大理石の柱も、さながら巨人の如く聳え立っている。


 壁面はガラスで覆われており、その向こう側には無数の綺羅星が踊る夜空があった。


 星々の動きは現実には到底あり得ないもので、花火のように滅茶苦茶な軌道を描いては、激し過ぎるほどの光を放ちつつ夜空の何処いずこかへと去っていく。


 その夜闇の深さを思うと、この広大な広間さえ、小さな箱庭のようだった。


 ユディトの周囲には、人の形をした影法師が乱舞している。真っ黒な人形ひとがたは、いずれも高価な服を着ているようだ。高価かどうか判断する材料はないが、夢の中では思ったことが全てである。


 だから、自分に寄ってくるそれらが不可思議極まり無い言語で何かを言ったとしても、ユディトにはそれが解読出来る。


「ヌクラヤ マタヤサナ サナヤ?」


「ええ、そうね」


 ユディトが適当に相槌を打つと、影法師たちは口を開けて笑った。その箇所だけ、人間の口と同じような仕組みになっている。


「ニア ナナラナヤマム スプレ」


「スプレ!」


「スプレ!」


 普通なら気味が悪いと感じたり、苛立ったりするのだろうが、不思議とユディトは順応出来た。というより、昔からこういうことには慣れていたような気がする。


 そんなことよりも、ユディトは別のことで胸騒ぎを覚えていた。


 自分はこんな所でこんなことをしている場合ではない。もっと他に、やらなければならないことがあったはずだ。


「ハサ ヤヤユルルム ユディト?」


 異言語の中に唐突に名前を混ぜられ、やや狼狽えつつも、ユディトは「後にして」と目の前の影法師を押しのけた。


 どこに行くべきか、何を探すべきなのか、彼女自身も分かっていない。ただ、探さなければならないという切実な想いが彼女を突き動かす。ユディトは酒の入った杯をその場に落とすと、影法師を押しのけ歩き始めた。


 しかし、どれだけ進んでも広間の果てに行き着かない。歩けば歩いた分だけ、奥行きが増していくように感じる。


 影法師の男と女が、森の木々のように彼女の行く手を阻む。不可解な言葉を喋りながら、赤い唇だけが三日月状に釣り上げられる。



 その向こうに、ユディトは細い背中を見出した。



 自分とは違う、短く切った金色の髪。それ以外には、少しも見た目の違わない身体。



「ねぇ、どうして追いかけるの?」



 影法師が、人間の言葉を喋った。


 どれがそう言ったのかは分からない。しかしどこからか、たしかにその声は響いてきた。



「嫌いなんでしょ、あの子のことが」



 目の前に立ち塞がった影法師の少女が、くるくると回りながらそう言う。ユディトはそれを蹴飛ばしたが、クスクスという笑い声が聴覚を満たす。遠ざかって行く背中との距離は、縮まらない。



「そうよ、嫌い! 大嫌いよ!」



 そう怒鳴っても、彼女は振り返ってくれない。自分の歩調を少しも変えず、脇目も振らずに前へ前へと進んでいく。ユディトの声など聞こえてもいない。


 昔からそうだ。自分はこうやって、彼女の後ろ姿を追いかけてばかりいる。そんな自分の苦闘を彼女が察したことなど、一度たりとも有りはしない。ユディトはそう思っていた。


 思い続けてきたから、それが夢になって現れ、彼女を急き立てる。



「嫌いなら、それでいいじゃない。行くに任せて、放っておけば良いじゃない」



 影法師がずらりと立ち並び、ユディトの行く手を阻む壁となった。


 その向こうでは、広間の最奥に達した少女が、巨大な扉に手を掛けていた。



「駄目よッ!!」



 いつの間にか、ユディトの手の中には一本の長剣が握られていた。彼女は迷い無くそれを振るい、立ち塞がった影法師を斬り裂いて進む。



「あの御方は、こういう場がお嫌いのようですから。放っておいて差し上げましょう?」



 そんなことを言った影法師の口に、剣を捻じ込み黙らせる。


 そうしている間にも、扉は大きな音を立てながら開いていく。



 ユディトは見た。



 見るだけで凍えてしまいそうな虚空の中に、白く輝く花弁のようなものが浮かんでいる。


 その花弁は途方も無く遠く高い場所にあり、彼女たちの居る場所からはほとんど詳細が分からない。ただ遠くにあること、そして計り知れないほど巨大だと分かるくらいだ。


 彼女・・は、その天空の花弁に向かって、足を踏み出そうとしていた。



「待ちなさいっ……待って……!」



 影法師の腕が身体に絡み付く。ユディトは剣を振るってそれらを薙ぎ払い、強引に身を乗り出し腕を突き出した。




「待てって言ってるでしょ、馬鹿妹っ!!」




 指先が、衣の端に引っ掛かった。




◇◇◇




 ユディトはカッと目を見開き、上体を跳ね上げた。


「姉さぎゃっ!」


 必然的に、姉の顔を覗き込んでいたカナンの額に、自らの額を打ち付けることとなった。ユディトの頭は元在った位置に叩き落とされ、カナンは仰け反ったまま椅子から転げ落ちる。姉は寝台の上で、妹は床の上で、しばし丸まりながら身悶えする。


「おいっ!」


 何事か、とイスラが部屋の中に飛び込んでくる。だが心配は長引かず、丸まって悶絶する二人を見て「……おい?」と怪訝な表情に変わった。


 石造りの床の上でぷるぷると震えながら、カナンはパタパタと手を振った。大丈夫、という合図だ。イスラはそっと扉を閉じた。


 痛みが引き、カナンが改めて寝台の左脇の椅子に座りなおすと、今度は気まずい沈黙が部屋の中を満たした。


 ユディトは俯くカナンを見やり、それから部屋の中に視線を巡らせる。石と煉瓦を組み合わせて作られた無骨な部屋は、バシリカ城が要塞だった頃の名残だ。急な出来事で、とりあえず収容できる場所に収容した、ということなのだろう。


(急な出来事……そう、そうね)


 全てに合点がいった。ユディトは溜息をつくと「カナン」と妹の名前を呼んだ。


「はい……」


 先程まで大群衆の前で演説していたとは思えないほど、弱々しい声音だった。


 ユディトはすでに、脳内で状況の整理を終わらせていた。それはカナンも同じだろう。


 政策の決定権を群衆は持っていない。しかしあのような暴動が起きてしまった以上、煌都の上層部も民意というものを強く意識せざるをえないだろう。ましてや、その発端となったカナンの救征軍構想と選択肢の哲学は、いくらでも他の都市に拡散してしまう。そうなれば、ラヴェンナとは正反対の位置にあるエルシャやテサロニカといった諸都市も、他人事のままではいられないだろう。


 元より救征軍という選択肢は、煌都にとってさほど負担にはならない。無理に暴動の危険性を背負い込む理由はどこにもないのだ。


「何と言うべきかしら……とりあえず、おめでとう、かしらね」


 ユディトとしては、皮肉を言ったつもりは無かった。それ以外に言葉が思い浮かばなかった。


 だが、カナンはズボンを強く握り締めた。


「……私は……あんなことになるなんて」


「引き際を見誤ったのは私よ。柄にも無く、焦り過ぎたわ」


 天井を見上げながらユディトは呟く。だが、妹の悔悟がこの程度で癒されるはずがないと分かっていた。だから、言いたいことを言っておく。


「でもね、分かったでしょう? お前には蒼い天火よりも危険な力があるのよ……今はもう、ね」


「……っ!」


 カナンの眦に、透明な水滴が浮かんでいた。


「姉様を傷つけることになるなんて……っ!」


 ユディトはそっと自分の頭に手を伸ばしてみた。気絶する直前、つぶてをぶつけられた箇所に触れてみる。案の定、出血どころか傷一つ無かった。


「馬鹿ね、私だって継火手なのよ。これくらいの傷、残ったりしないわ」


「でも!」


 くしゃくしゃに歪んだカナンの顔を見ていると、ユディトは逆に笑いが込み上げてくるのを感じた。


「意外ね、カナン。お前が私に、そんなに気を遣うなんて」


「だって、だって……!」


 ユディトは微笑を浮かべたまま寝返りをうった。右腕を伸ばして、今にも泣き出しそうな妹の頬に触れる。


「私のことなんて、眼中に無いものだとばかり思ってたわ」


「そ、そんなこと、ない……ないよ、姉様っ」


 頬を伝った涙が、ユディトの指を濡らした。


「わたしはずっと……ずっと、姉様のことが好きだったよ……っ!」


 そう、とユディトは呟く。身体を起こして寝台に腰かける。真っ直ぐにカナンの顔を見据えて、ユディトは言った。



「私はずっと、お前のことが嫌いだったわ。今だってそう。大嫌いよ」



 えっ、とカナンの表情が凍り付く。少ししてやったりという満足感を覚えながら、ユディトはカナンの身体を強く抱き寄せた。




「でも、愛してるわ。ずっとずっと、今までもこれからも、ずっと……」




 自分と同じ顔、同じ身体、同じ体温、そして同じ鼓動。


 自分と違う考え方、違う才能、違う経験、そして違う天火。


 あまりによく似た肉体と、あまりにかけ離れた精神。


 だからこそ、意識せずにはいられない。惹かれずにはいられない。嫉妬を繰り返し、苛立ちを繰り返し、怒りや呆れを覚えることも何度もあった。


 だが、見放そうと思ったことは一度も無い。ましてや憎もうとしたことなど、どれほど記憶をさかのぼってもありはしない。


 遠くて近い相手に、狂おしいほどに引き寄せられるこの感情。それは好きでも嫌いでも、当然恋でも執念でもない。




「昔っから、振り回されっぱなしで、負けっぱなしで……でも。でもね、お前を愛することだけは、どうしてもやめられなかった。


 エデンになんか……行かせたく、なかった……」




 腕の中で、カナンがびくりと震えるのが分かった。思わず漏れてしまった本音を、しかしユディトはもう誤魔化そうとは思わなかった。


「だから……だから、あんな論争を……?」


「……帝国復活構想なんて、ただの方便よ。救征軍構想の規模に匹敵する政策を出そうと思ったら、それくらいしか思い浮かばなかった。

 結局、全部無駄になってしまったけどね」


 ユディトは腕に込めていた力を緩め、そのまま仰向けに寝台の上へと倒れ込んだ。


「あーぁ……今度こそ勝てると思ってたんだけどなぁ……結局また負けちゃった」


 そうぼやくユディトに被さるように、カナンが飛び込んできた。


「きゃっ」


 ユディトはカナンを抱きとめる。小さい頃、何か怖い昔話を聞いて、揃って寝た時のことを思い出した。


「違うよ、姉様」


 泣いたり驚いたりを繰り返したせいで、カナンの頬は赤く染まっていた。額には汗が浮かび、金色の前髪が張り付いている。


「違う、って……?」


「私が姉様に勝てたことなんて、一度も無いよ……私が欲しかったもの、姉様は全部持ってるもの」


 今度はユディトが驚かされる番だった。てっきり、劣等感を抱いているのは自分ばかりだと思い込んでいたし、カナンは勝ち負けにあまり拘らない性格だと信じ切っていた。


 そんな妹が、こんなことを言いだしたのは、あまりにも意外だった。


「カナンが、欲しかったもの?」


 カナンは恥じらいを隠すかのように、ユディトの胸元に自分の顔を押し付けた。




「姉様は、誰かに恋することが出来る人だから。


 私の居られない場所で、誰よりも綺麗でいられる人だから」




 息が止まりそうになった。同時に、朧気になって消えようとしていた夢の中の光景が、再びユディトの脳裏にありありと映し出された。


 あの広大な宮殿も、影法師たちも、全て記憶の表象だったのだ。


 華やかなドレスに身を包み、人々に取り囲まれる自分。


 その輪の中に入れず、一人去って行こうとするカナン。


 今まで、ずっとそうだった。




「私にとって、姉様はずっと……きらきら輝く、星の宮殿のお姫様だったよ」




 遠くて近い。そう感じていたのは、ユディトだけではなかった。


 星の宮殿と喩えるほどに、カナンもまた、ユディトとの間の隔たりを意識していたのだ。


「何よ、それ……」


 ユディトは苦笑した。


 そんなことにすら気付けなかったのはやはり、自分とカナンが、互いに遠くて近い存在であるからだ。


 だが、強く抱き寄せた妹の身体の感触が、今までよりも少し鮮明になったような気がした。

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