その日、ラヴェンナに大雨が降ったのは、誰にとっても喜ばしいことだった。
カナンの演説に触発された暴徒は、しばしの間ラヴェンナの高級住宅街で暴れまわっていた。このようなことはかつて無く、そしてあってはならないことでもあった。
ラヴェンナ上層部が近衛騎士団と継火手の投入を決定するまでにさほど時間は要さず、実際にバシリカ城の城門前で部隊が整列するところまで来ていた。
そこに、バケツをひっくり返したような猛烈な土砂降りが降り注いだ。熱に当てられて暴走していた群衆は、文字通り水をかけられ沈静化し、一旦様子見に移行した近衛騎士団も、行動を出動から警戒へと切り替えた。
無論、これは暴徒を赦したわけではない。雨が上がり、暴動の勢いが弱まったところで、目に余った者を逮捕する腹積もりだ。
「雨が降りながらも、これが嵐の前の静けさというわけだ。実に皮肉なことだね」
フード付きの外套を身にまとったハルドゥスは、混乱の爪痕が残る広場を見渡しながらそう呟いた。同じくフードで頭を覆ったコレットは、それまで一心不乱に動かしていたペンをぴたりと止めた。
「……犯人は、誰になるんでしょうか」
広場にはそこかしこに、民衆と軍隊の衝突した痕跡が残されている。城門前に置かれていた円卓は無残に破壊されており、周囲を囲っている建物は城壁以外なんらかの損傷を受けている。中には支柱を叩き折られて倒壊した家屋まである。
一体どのような正当性があればこのような行為が許されるのか、コレットには理解出来なかった。暴動を起こした大衆の脳裏に、あの時いかなる考えがあったのか分からない。その意味不明さが、彼女にしては珍しく、明確な苛立ちを引き起こしていた。
「犯人を求める、というのは危険な考え方だよ」
しかし、師であるハルドゥスは、彼女に安易な回答を投じることはしなかった。
「どうしてですか?」
「ふむ……」
ハルドゥスは足元に転がっていた木片を爪先で軽く蹴った。
「君は法律家かね?」
「いえ……」
「だろう? 私は君に歴史学を教えているし、君も熱心にそれを勉強してくれていると思っている。であれば、安易に何かを決めて欲しくないな。
いいかい? 世の中には答えを出せないことの方が遥かに多い。ましてや我々歴史家は、その判断を後世の人間に任せることを生業としている。歴史学とは……そうした態度をとることが、何よりも重要なんだ。
継火手カナンは彼女なりの思想を語り、継火手ユディトがそれに反論した。ただそれだけのことなのに、何故民衆はこうまで過剰な反応をしたのか?」
「……分かりません。でも、私は怖いと感じました」
「大衆の力を?」
「それもあります。でも……彼らを駆り立てた、継火手カナンの言葉の力の方が、私は怖いと感じたんです」
「成程」
短い期間とはいえ、コレットはカナンをすぐ間近で見てきた。彼女の人となりや行動指針は理解しているし、決して悪意を持った人間でないことも分かる。
しかし、そんな人間が紡ぎ出した言葉が、かくも無残な混乱を引き起こすという事実が、コレットには恐ろしく思えたのだ。
「……確かに、犯人や悪者はいないと思います。でも、発端や火種となるものは、確かにあるんじゃないでしょうか?」
「そうだね。それは確かにあり得るだろう」
ハルドゥスも、そこは否定しなかった。
彼は腕を組んだまま、雨水を被る荒れた広場を見やった。コレットもつられて同じ方向に視線を向ける。
「世直しを始めようとするのは、いつだって知識階級だ。だが、彼らは有り余る知識故にいつも夢を見る」
「夢、ですか」
「そう。そして、理想は夢から生まれてくるんだ。だが地に足をつかない理想は必ず暴力を伴う。現実を、理想の高みにまで引っ張り上げるためにね」
見物に来ていた子供が落としたのだろうか。少女を模した人形が、泥まみれになって地面に転がっていた。コレットはそれを拾い上げる。片腕が踏み砕かれていた。
「理想が大衆によって共有された時、同時に理想は堕落を始める。多くの人々を参画させるということは、それだけ思想の純潔が損なわれるということだからだ。そして、堕落した理想を目にした知識人は絶望して世捨て人になる……世直しの結果を放り出したままね」
「継火手カナンも、そうなると?」
「さあ、どうだろうね。それは私には分からない。彼女が自分の言葉に対してどれだけの責任を果たせるか。それは歴史が決めることさ」
今の話をカナンが聞いたならば、恐らく目を伏せるだろうな、とコレットは想像した。彼女は自分自身に対しても「絶対」という言葉を使わない。そんな言葉を安易に使うほど、今のカナンは愚かではない。だから、ハルドゥスの言葉を否定しようともしないだろう。
だが、いかな名君賢帝とて一歩間違えれば愚者へと身を落とすことを、コレットは歴史から学んでいた。
「……冷えてきた。そろそろ帰ろうか」
ハルドゥスは外套を強く身体に巻き付けた。教え子を振り返ると、コレットは壊れた人形を手にしたまま、何か物思いに耽っているようだった。
そして、雨水に濡れた眼鏡を外し、まだ幼さの残る顔を師に向けた。
「先生、私は――」