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【第百七九節/「欲しいものは」】

 全煌都会議の後半が、実質会議としての体裁すら守れないであろうことは、ユディトにも容易に想像できた。


 カナンの決意に理解こそ示したものの、やはり行ってほしくないという想いは彼女の中に依然強く在る。しかしそんな自分の感傷など、事ここに及んでは何の意味も無いだろう。


 バシリカ城の地下通路の一つを使って屋敷に戻ったユディトは、テラスの椅子に座り、ぼうっとしたまま煙草を燻らせていた。まだ雨はしとしとと降り続けていて、湿った空気と煙の匂いが混じりあっている。彼女の眺める先にはバシリカ城と大燈台があり、暗闇の中にぽっかりと浮かび上がっているかのようだった。


「カナン様のことをお考えですか?」


 いつの間にか後ろに立っていたギデオンが、彼女にそう声をかけた。手にはグラス二つと、ラヴェンナ産の葡萄酒の瓶を持っている。


「それもあります」


 ギデオンは慣れた手つきで葡萄酒の栓を抜き、中身を二つのグラスになみなみ・・・・と注いだ。一流店の給仕が見たら目を覆いそうなほど雑な注ぎ方だ。だが、ユディトの反応は違った。


 時々、こうしてギデオンと飲むことがある。だが、彼は決してこんな風に多く注ごうとはしない。自分は継火手なので多少のことで酔ったりしないし、それをギデオンも当然分かっているが、こういうところはいつまで経っても子ども扱いのままだった。


 だから、この小さな変化と気配りが、ユディトにとっては無性に嬉しかった。もちろんそんな動揺を表立って見せようとは思わない。片方の肩だけをすくめて「ありがとう」と言う。


「これからのことを考えていました」


 グラスを持ち上げると、中身が零れそうになった。純白の祭司服を着ている手前、染みを作ることだけは避けたい。


「救征軍のことですか」


「間違いなく通るでしょう。と言うより、通さないわけにはいかない。そろそろ……」


 ユディトがグラスの中身を四分の三ほどに減らしたところで、イザベルが来客を告げた。やはり来たな、とユディトは思った。


 ただ、報告しにやってきた人物は、ユディトにとっても少々意外な人間だった。ラヴェンナ王配グィド・ラヴァル・ゴート直々の訪問だったのだ。ユディトは慌てて煙草の火を消した。急いで応接室に案内するよう指図するが、グィドはわざわざユディトのいるテラスまで登ってきた。


「申し訳ありません、十分なおもてなしも出来ず……」


 ユディトは腰を折って頭を下げるが、ラヴェンナ王配は緩い仕草で「いいよいいよ」と手を振った。さすがに立たせたままにしておくことは出来ないので、ギデオンに目配せしてさりげなく席を譲ってもらった。


「こちらこそ、急に出向いて申し訳ない。ギヌエット大臣が来てくれる手筈だったんだけど、ちょっと別件でね……」


「ああ……」


 グィドの濁したような言い方で、大体の裏事情をユディトは察した。


「それに、お見舞いもしておかなきゃいけないと思ったんだ。ラヴェンナで起きたことは、その統治者であるマリオンと僕の責任だ。彼女に代わって、謝罪させていただきたい」


 そう言うなり、グィドは深く頭を下げた。ユディトはそれを素直に受け取った。これは、相手の面子めんつを守るためにも大切なことだ。少し経ってから、「私は継火手ですので、大事ありません」と言って頭を上げさせる。


「血も止まり、傷口もとうに塞がりました。どうかお気遣いをなさらないでください。女王陛下には、御心配頂き感謝しております、とお伝えください」


「……そのようにさせていただこう」


「それより、殿下が来られたもう一件のことについて、お聞かせ頂けますか?」


「そうだね、そうさせてもらおう。

 会議の結果、大多数の賛成を受けて、第二次救征軍の派遣が決定した。以後、全ての煌都はこの派兵を全面的に支援することになる……ってな感じかな。君にとっては不本意だろうけど」


「いえ、当然の帰結ですね。あんなことがあった以上、ラヴェンナにせよ他の煌都にせよ、難民たちを……もっと言えば、継火手カナンを抱えておくわけにはいかない。

 ようやく彼らも、あの子が闇渡りの難民なんかより遥かに厄介な存在だと気づいたわけですね」


 ペンは剣よりも強し、という使い古された箴言しんげんがある。聞き飽きるほどにこの言葉が繰り返されるのは、実際これが真実であるからだ。剣は人間に外傷を与えることがあれど、その内面までも変えることは出来ないのである。


 ペンと剣が並べられるのは、どちらも強力な武器として統治者に理解されているからだ。ペン……すなわち言葉は、時として単純な暴力以上の力を持つことがある。


 なぜなら、人間の意識=心は言葉で作られるからだ。だからこそ、人民を統治するにあたって武力のみを見せびらかすのは効果的ではない。表面的な威圧や征服は、真の統治には決して繋がらない。心まで制圧すること能わないからだ。


 だからこそ、歴史上の統治者たちは武力とともに言葉を用いて権力を保持してきた。旧時代が終わり、永劫の夜が始まった時からは、継火手の天火アトルが暴力を、宗教が言葉を司ってきた。


 しかし、その歴史の果てに、カナンという異端児が現れた。


 既存権力の真っただ中に生を受け、特別な蒼い天火を持ちながら、従来の思想とは全く正反対のことを語る継火手。彼女は民衆から姿を隠そうとする権力者を後目に、堂々と民衆の中へと入っていき、そこに自らの居場所を見出した。


 煌都の統治者たちにとっては脅威そのものであろう。カナンの言葉は人々の認識を変化させる。今回の暴動は一例に過ぎず、その言葉が拡散する限りいくらでも再現可能なのだ。


(……そこしか、居場所が無かったのね)


 ユディトは、他人よりも少しだけ深くカナンについて知っている。妹の持つ願いや劣等感についても。まだ知らないことばかりかもしれないが。


「……やると決まった以上、煌都としても最大限の援助はするはずだよ。もしかしたら、今度こそ成功するかもしれない」


 グィドはユディトを慮ってそう言った。彼はユディトが論戦を仕掛けた本意を知らない。ただ、姉が妹を心配するのは当然だ、という単純な意識で言ったに過ぎなかった。


(そう、単純なことだったのよ)


 馬鹿だとか暗愚だとか評されるグィド・ゴートであるが、彼のこういう素朴さは、浮世離れした貴人の中にあってはかえって貴重な資質なのかもしれない。ユディトはそう思った。


「……成功するにせよ、失敗するにせよ、カナンは既存世界から遠ざけられることになります。発言や影響力が意味を出さない場所まで。エデンぐらいの距離は、ちょうど良いのかもしれませんね」


「…………」


 ユディトは外の暗闇に視線を向けつつ、そう言った。グィドはしばし沈黙するしかなかった。壁際に直立不動の姿勢で待機しているギデオンも、何も言わない。雨の滴る音だけがしとしとと鳴り続ける。


「……少し、勿体ない気もするなぁ」


 沈黙に耐え切れなくなったのか、グィドがぽつりとそう漏らした。


「勿体ない、ですか?」


 グィドは俯き気味に自分の手元を見つめている。長く華奢な指の一つには、純金で出来た指輪がはめられている。彼はそれをじっと見つめていた。


「何かを選ぶことと、そのための自由……それが幸福のもとになるんだって、彼女は言ったね。正直、僕もそうだなって思うんだよ」


 恐らくこの時のユディトは、非常に辛辣な表情を浮かべていたのだろう。「貴方がそんなことを言っててどうするんですか?」と顔に書いてあったかもしれない。無論、即座に取り繕いはしたものの、グィドはユディトの呆れるような視線に気づいていた。


「あっはは……僕がこんなことを言うのは変かもしれないけど、でも、何となく分かるんだよ。僕がって言うよりは、僕の近しい人のことでね。その人に、もっと彼女の言葉を聞かせてあげたかったんだ」


「……マリオン陛下が、妹の話を素直に聞くとは思えませんが」


「それもそうなんだけどね」


 グィドはマリオンの名前を出されても取り繕おうとはしなかったし、ユディトの反論も素直に聞き入れた。右手の指で左手の指輪をつまみ、そこにあることを確かめるように表面を撫でた。



「陛下のご出産、もうすぐではありませんか?」



 これにはさすがにグィドも驚いたようだった。思わず「知っていたのかい?」と尋ねる。


「今、知りました」


「あっ……」


「まあ、そうではないかと思っていました。陛下が人嫌いだとしても、あまりに公の場を避けすぎておられる。そして継火手は病気にならない、となると、おのずと答えは見えてきますよ」


 思えば謁見の際に妙に刺々しかったのも、妊娠時特有の兆候だったのかもしれない。ユディトはそう思ったが、即座に「違うだろうな」と打ち消した。しかし、マリオンの苛立ちが普段よりも強まっていたのは間違いないだろう。


「……身体を、見られたくないんだって、そう言ってたよ」


 父親になる予定のラヴェンナ王配は、塩をかけられた蛞蝓なめくじのように小さく縮こまっていた。ユディトは危うく「そんな有様で大丈夫なんですか?」と言いかけた。


「マリオンはいつも怒ってる……そうさせたのは僕だ。いや、僕だけじゃないな……周りにいるすべてのものが、自分を縛っているとマリオンは思ってるんだ。エマが亡くなったあの日からね。そして、今は自分の身体さえ好きに扱えなくなっている……」


 喋るごとに、グィドは霧のごとく薄く散っていきそうにさえ見えた。ユディトは全身の筋肉を硬直させている。さもなければ、右脚がガタガタと貧乏揺すりを始めそうだった。「貴方は私を見舞いに来たのではなかったのですか? どうして私に愚痴を言っているんですか?」等々、立場が無ければ言い放っていたかもしれない。


 成程、こういう時に好き勝手怒鳴り散らせないあたり、確かに自分も地位というものに拘束されている。


「君は凄いよ」


 唐突に、グィドはユディトのことを褒めた。しかしそのあまりにへりくだり過ぎた態度を見ていると、逆に卑屈にさえ見える。否、実際卑屈であった。


「継火手カナンにせよ、闇渡りのイスラにせよ、君にせよ……みんな、本当に凄い力を持っている。それに比べたら、僕なんて」


 彼の言葉は、途中でユディトが机を叩いたことによって遮られた。別段強く打ったわけではなかったが、静かな雨音の中ではひときわ大きく響いた。


「力の在る無しなど、何の関係もありません。成し遂げたいことがあるから力を求めるのです。違いますか?」


 流石に、ラヴェンナ王配に向けるにしては、いささか出過ぎた発言であっただろう。しかしユディトとしては、これでも最大限に譲歩したつもりだ。


 それまで黙っていたギデオンも、静かに苦笑していた。


「同じようなことを例の闇渡りにも言われておられましたな、殿下」


 グィドは真っ赤になって、しどろもどろで「あの」とか「いや」と口ごもっていたが、やがて大きく溜息をついて「その通りだね」と認めた。


「殿下。ああだこうだと言い並べていても、何の意味もありません。ただ出来ることをする。それが全てではありませんか?」


 現に自分は、己の無知無才を承知の上でカナンに挑んだ。それが自分の出来る最上のことだと思っていたからだ。そして恐らく、ギデオンに挑んだあの闇渡りも、同じような心境であったに違いない。


「凡人が意地まで捨ててしまったら、あとはもうひたすら卑屈に生きるしかありませんよ。そんな生き方がどう受け取られるか、一度お考えになってみてはいかがですか?」


「そう……そうだね、君の言うとおりだ。全く、僕は学ばない男だな……」




◇◇◇




 結局、グィドとの面会は、ほとんど愚痴を聞くだけの内容となってしまった。


 彼を玄関まで見送った後、ユディトはテラスに戻りテーブルに突っ伏した。


「はぁー……何で私がこんなに気を使わないといけないんですか……」


 他人の家の事情など犬も食わない。簡単に弱みをさらしてへこたれてしまうのが、グィド・ゴートが駄目人間と言われる所以なのだとつくづく理解させられた。


 だが、一つだけ気にかかったこともあった。彼がカナンの意見に賛意を示したことだ。


「何かを選ぶこと……そのための自由……」


(私に、それを自覚する日は来るのかな?)


 自分のことを不自由だとは思わない。様々な責任や義務を背負い、それらに追われる日々ではあるが、常に相応の対価を得て満足している。


(ああ……そうか、私は充実してるんだ。カナンはそうじゃなかった)


 カナンの価値観に照らし合わせるなら、確かに自分は幸福なのかもしれない。


 ふと空を見上げると、雲間から月がのぞいていた。だが、まだ満月ではない。


(私だって、まだまだ欲しいものはあるわ)


「お疲れですか?」


 ギデオンがそう声をかけてきた。「ええ、少し……いえ、かなり疲れたわ」そう答えながらも、ユディトはギデオンの姿を横目に見ていた。意識も、そちらに引き寄せられていた。


(欲しいもの、欲しいもの……)


「ギデオンが欲しい……」


 はっ、とユディトは我に返った。ギデオンが「何かおっしゃいましたか?」と聞き返してくる。


「い、いえっ! 何でもないわ!」


「は。そうですか?」


「そうっ」


 と言うなり、ギデオンの手から葡萄酒の瓶をひったくって一気に飲み干した。「あっ」と剣匠が心底残念そうな呻き声を漏らす。


「っ……はぁっ!! 酔った! 寝ますっ!!」


 ドンッ、と空瓶をテーブルに叩きつけ、淑やかさなどかなぐり捨てた大股でずんずんとテラスを後にした。


 残されたギデオンは、切なそうな表情で瓶を逆さまにするが、一滴も滴らなかった。

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