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【第百八十節/小雨の夜が明けるまで】

 イスラとカナンを乗せた馬車は、ゴトゴトと音を立てながらラヴェンナの坂を下っていた。車輪の音に混ざって、二頭の馬の蹄鉄の音や、まだしとしとと降り続けている雨の滴りが、二人の聴覚を満たしている。


 だが、イスラにはどの音も、今ひとつ遠く感じていた。それこそ身体に直接伝わってくる振動でさえ、どこか現実味の無いものとして受け止めている。


 向かい側の席に座っているカナンは、窓越しに外の街並みを見つめている。膝の上に大仰な封印がなされた書簡筒を乗せていて、時折その細い指で表面を撫でていた。


 書簡筒の中には、エデンへの遠征を許可し、そのための適切な援助を保証する署名入りの議決書が入っている。


 しかし、長年求め続けてきたものが手中にあるにも関わらず、彼女の表情は明るくない。むしろ、憂鬱の方がより深そうに見えた。


 イスラには、彼女の考えていることが手に取るように分かる。混乱と暴力の痕跡が残った街並みは、彼女に憂いを抱かせるには十分だろう。ましてや、その引き金となったのが自分自身の言葉とあっては、なおさら悔悟の念があるに違いない。


 ユディトと別れた時、カナンは確かに晴れやかな表情をしていた。長年患っていた病が癒えたかのように見えた。しかし一方で、実の姉を間接的にとはいえ傷つけてしまったことに対して、申し訳なさのようなものも確かに見て取れた。


 喜ばしいことばかりではない。エデンに行くということは、必然的に様々なものと戦うということだ。


 その事実を、旅に出る前のカナンは理解していたことだろう。しかし実感することは不可能だったはずだ。


 結局のところ、どれほど賢い人間であろうと、実際に体験してみるまでは分からないこと、見通せないことがあるのだとイスラは思う。実体験に知識を追走させている自分とはまるで正反対だ。他人よりも遥かに多く痛い目・・・を見てきた自分は、痛覚に対して非常に強くなっている……と自負している。


 もちろん、どれほど経験を積み重ねていようと、それを意味づける知性が無ければ、結局は硬直する以外に無いのだが。


(何でこんなこと、考えてるんだか……)


 男なら、こういう時には何か気の利いた事を言ってやるべきなのかもしれない。仮にも恋人同士なのだから、当然のことだろう。


 だが、イスラは喉の辺りに、何かひりつくようなしこり・・・を覚えていた。それが気道を塞いでいて、言葉も一緒に詰まってしまっている。


「どうか、しましたか?」


 じっと見つめられていたことに気づいたカナンが、少し首を傾げながらたずねた。イスラは苦笑する。何か言おう、言おうとしているうちに、彼女の方に先に口火を切られてしまった。


「いや……」


 我ながら口下手だな、と思わずにはいられない。


 気まずさと自嘲を含んだ苦笑を浮かべつつ、イスラは改めて目の前にいる継火手の姿を爪先から頭の先まで眺めてみた。


(……うん?)


 カナンの姿が、妙に小さく見えた。


 最初は気のせいかと思った。馬車の中が暗いせいかもしれない。大燈台の遮光壁はとっくに降りてしまっているし、光と言えば街路沿いの頼りない街灯と月明かりだけだ。しかし、じきに明暗など何の関係も無いと分かった。


 純白の布地に金糸の刺繍を織り交ぜて仕立てられた法衣は、華奢なカナンの身体を一層小さく見せている。ほっそりとした手が添えられた豪奢な書簡筒も、まるで大木を切り出して作った丸太のような重みがある。



 それらは全て、今のカナンに課せられた様々な使命を象徴しているかのようだった。



 彼女は望んでそれを得ようとしてきた。望み、引き受けることこそ、今まで自分が恵まれたことへの対価なのだと信じ続けて生きてきた。だから、その使命を負うことは、カナンにとって当然の帰結なのだろう。


 だが、たった一人の少女が背負うにしては、あまりに重過ぎる仕事だ。


(今更……)


 そんなこと、とうの昔に分かっていたことではないか。


 カナンは、誰かを救わずにはいられない人間だ。そうでなければ、自分自身を保つことが出来ない。


 それは、ある種の狂気とさえ言えるだろう。一人の人間が救済出来る数などたかが知れている。救うことさえ難しいし、救えなかったからといって非難される道理も無い。


 誰かを救うとは、並大抵の決意では出来ない行為なのだから。


 しかしカナンは、そんな並大抵ではない行為を己の生き方の指針にしている。苦しくないわけがない。重圧のあまり小さく見えたとしても、何の不思議も無い。


「……カナン」


「はい」


「お前さ、今日、言ってたよな。何かを選ぶことが幸せなんだって。何かを選ぶための自由が、何よりも大切なんだって」


「ええ」


「今のお前は、どうなんだよ。苦しくないのか?」


 その時カナンの顔に現れた小さな兆候を、イスラは見逃さなかった。彼女は少し驚いたように目を見開き、軽く息を詰まらせた。注視していなければ気づかない程度の微細な反応だった。


 彼女はすぐにそれを押し隠し、手元の書簡筒に視線を向けつつ微笑する。


「大事なのは、何かを選ぶってことです。結果がどうであれ、一歩も前に進まなかったら、身の回りの風景は何一つ変わらないから」


「……逃げる、って選択肢だってあったはずだ。いや、今もまだある。俺はお前が命じさえしてくれたら、いつだってこの馬車を乗っ取るつもりだ」


 イスラは大真面目にそう言った。心のどこかでは、彼女がそれを望んでくれることを期待していた節さえある。


 冷静に考えれば、どちらの道が良いのかは自ずと分かろうものだ。トビアじゃあるまいし、とイスラは自嘲気味に思う。しかし今日、大衆の前で語った時のカナンの姿が、彼の心をざわつかせていた。


 危機感を覚えるのは、単に動物的な勘が働いたからに過ぎない。上手く言葉にしようとしても、イスラの語彙ではあの時の彼女をどう表現すれば良いのか分からない。


 そんなイスラの危機感は、カナンからすると冗談に聞こえたようだ。彼女はクスクスと忍び笑いを漏らした。


「そんな選択はしません。エデンに行くのは、私が長年抱いてきた夢です。それに……あの人たちを放っておくことは、もう私には出来ません。

 イスラも言ってたよね。人間にとって一番辛いことは、一人ぼっちで真っ暗闇の中にいることだって。私が彼らを……少しでも照らしてあげられるなら、そうしたいんです」


「それって結局、自由じゃないってことだろ」


 カナンは何も言わず、にこりと微笑んだ。




◇◇◇




 居留地で馬車から降り立つと、柔らかくなった地面に靴の底が浅く沈んだ。御者は二人に一礼すると、再びラヴェンナ市街へと戻っていった。


 まだ小雨は降り続けている。ほとんど霧のようなものだったが、流石にもう起きている者は誰もおらず、居留地は墓場の如く静まり返っていた。灯火や蝋燭、焚火の燃え残りが点々と光を放っているが、それらが全て消えてしまうのも時間の問題だろう。


 イスラは大きく息を吸い込んだ。水気を含んだ土の匂いと、冷え冷えとした空気が肺を満たした。


「じゃあ、イスラ……また明日」


 両腕で書簡筒を抱えたカナンが言う。イスラは「ああ」といつものぶっきらぼうな口調で返した。カナンはくるりと踵を返して歩き始めた。


 その背中が、暗闇に飲み込まれそうになるのを見た時、イスラは彼女の身体を真後ろから強く抱きしめていた。


 カナンが、今度こそはっきりと息を呑んだ。



「分かってるつもりだ、お前がどういう奴かなんて……誰かのために働かずにはいられないってことくらい」



 全ては、彼女がその望みを叶えるために起こしたことだ。救征軍も、エデンの探求も、難民たちの救済も、何もかも。


 それを知っているからこそ、自分はカナンの行動に対して何の文句もつけてこなかった。彼自身、興味があったからだ。カナンがどこに向かい、何を成していくのか。


 だが、そんなことを続けているうちに、いつか翼を生やして飛んで行ってしまいそうな気がした。その埒も無い想像が、イスラを衝動的に突き動かしていた。



「明日になったら、またお前は皆のために仕事をするんだろ?」



「……うん」



「だったら……せめて燈台の壁が上がるまでの間、俺のものになってくれるか?」



 しばらくの間をおいてから返された二度目の返事は、言葉ではなかった。


 カナンは書簡筒から片手を離して、身体を締め付けるイスラの腕を撫ぜた。そして、指を潜り込ませて、自分の指とイスラの指を強く絡ませた。

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