ラヴェンナの鐘の音と、瞼を貫いて目を刺激した光が、カナンを眠りの中から引き上げた。
(私に、こんな朝が来るなんて)
微睡みの中で、カナンはぼんやりとそんなことを思った。
まだ燈台の光が十分に届いていないのか、天幕の中には闇が満ちている。カナンは上体を起こし、身体に毛布を巻き付けた。隣に手を伸ばすが、敷物の上に微かに体温が残っているだけでイスラの姿は無かった。
いつかこうなるであろうことは分かっていた。彼女自身、イスラへの愛情を自覚したその時から、ずっと望んでいたことでもあった。
だが、今の感情を一言で言い表すことは、いかに豊富な語彙を持っているカナンでも出来そうにない。
身体に残った痛みや汗のべたつきが、否応なしに昨夜のことを思い出させた。生々しい感覚が、全て現実にあったことなのだと告げている。「そういうものだ」と知識として知ってはいたが、実際に体験してみると衝撃は大きい。
カナンは両膝を曲げて、両手で毛布ごと身体を抱きしめた。
劇的に何かが変わったとは思えない。しかし、昨日までの自分との間に、見えない一本の線が引かれていることだけは確かだ。それを飛び越えたことに罪悪感や後ろめたさを覚えている。誰に対して、何に対しての後ろめたさかは分からない。
(どんな……どんなだったっけ……)
片手で髪をかき上げながら考える。
一つ確実なのは、決して愉快な時間ではなかったということだ。ひょっとしたら少しくらいは快楽があったのかもしれないが、痛みと、それ以上に緊張や気恥ずかしさから、まともに目を開けていることすら出来なかった。事が済むと、疲労のためかほとんど気絶するように眠り込んでしまったため、ほとんど言葉も交わせていない。
「……気を遣わせちゃった」
深く大きな溜息が漏れた。少し記憶が戻ってくると、あそこはああして、ここはこうして、という悔恨の念しか湧いてこない。その後悔はだんだんと大きな不安へ変わっていき、頭の中に住んでいる名人たちがしたり顔で駄目だしをつけてくる。
「ああっ、もう……っ!」
両手で髪の毛をわしゃわしゃと搔き乱す。油なのか汗なのか、少しべたついていた。千々に乱れた感情が胸の中でのたうち回る。このまま暗闇と一体化して、融けて消えてしまいたかった。
だから、天幕の外から「起きてるか?」と声が聞こえた時、カナンは水をかけられたように身を竦めた。何とか返事を絞り出したものの、蚊の鳴くような小さな声だった。
イスラは運んできた水桶だけを天幕の中に突っ込んだ。温めたのか、湯気が漂ってくるのが分かる。
「飯、作ってるぞ」
「ん……うん」
薪に火をつける音や、食器を鳴らす音が聞こえてくる。天幕の向こう側が仄かに明るくなった。ここだけでなく、あちこちから朝の仕事の音が響いてくる。
いつまでも、毛布にくるまっていることは出来そうにない。
◇◇◇
何度も念入りに身体を
本当は化粧もしたかったが、改めて自分が最低限の技術しか持っていないことを思い出し、結局口紅を塗るくらいしか出来なかった。もし過去に戻ることが可能なら、姉に頼んで叩き込んでもらうのに……と、埒も無いことを考えてしまう。
天幕の外では、もう居留地の難民たちが仕事のために動き始めていた。いつもよりずっと遅くに起きたカナンにとって、人々がばたばたと駆け足で仕事場に向かう姿は、どこか新鮮に思えた。一方で、誰かが自分とイスラの間にあったことを察しはしないだろうかと、びくついてもいる。
イスラはとうの昔に朝食の準備を終えていた。パンは丁寧に切り分けてあるし、香草茶は色素を出し過ぎてやや黒くなっている。鍋の中のスープも、蒸発してしまったのか少し
イスラは普段通りの質素なシャツとズホンに身を包んでいる。象徴である黒い外套は、
(噛み痕……分からなかったなぁ)
暗かったためなのか、それとも無我夢中だったためか、例の噛み痕を見つけることは出来なかった。
彼がカナンに気づくまでに、一拍の間があった。どうやらうたた寝をしていたようで、はっと顔を上げる。
「ああ……おはよう、カナン」
イスラは笑ったようだった。しかし、カナンは真っすぐ彼の顔を見ることが出来なかった。顔を赤らめたまま「おはよう、ございます……」と尻すぼみになりながら返事をする。イスラも、彼女の気まずさを読み取ったのか、静かに「遅くなったな、早く食べよう」と促した。
朝食を摂っている間は、気が楽だった。スープは豚の脂身で出汁をとって、野菜をいくらか放り込んだだけの簡単なものだった。パンも、いつも通りの黒パンだ。酸味があって、食べると口の中でもろもろに崩れる。食感も味も大したものではない。だが、カナンはいつしか、そんな粗末な料理でも十分満足出来るようになっていた。
いつもと同じ食事。だが、口数はお互いにほとんど無かった。必然的に、鍋の中身が減るのも早くなった。それが無くなった時どうしよう、とカナンは案じた。
顔の前でスープの入った器を傾けながら、恐る恐るイスラの顔を覗き見る。早々に朝食を平らげたイスラは、香草茶に蜂蜜を垂らし、匙でかき混ぜている。ズッ……と茶を啜る音がした。彼は顔を
ちびちびと香草茶を啜りながら、イスラはじっと目の前の焚火を眺めている。
(何を考えてるのかな……?)
焚火が躍るたびに、イスラの顔の陰影も揺らいだ。口を開けば粗野な言葉遣いが出てくるが、黙考している時のイスラは、整った顔立ちも相まってまるで哲学者のように見える……というのは、いささか贔屓目が過ぎるかもしれない。
しかし、綺麗な顔、というカナンの感想は変わらなかった。たとえ顔の片側に三本の醜い傷が刻まれていようと、それも含めてイスラなのだ。顧みると、最初の頃の荒み切った表情は、彼の本質とかけ離れた顔つきだったのかもしれない。今、こうして穏やかに炎を見つめている時の方が、本当の彼の姿により近いのかもしれない。
(私、この人に抱かれたんだ)
それを自覚した時、もちろん気恥ずかしさや後ろめたさも覚えたが、それ以上に嬉しさが優っていた。この一連の出来事を通して、初めてそう思うことが出来た。
自分を受けいれてくれる男性などいないと思っていた。求められるものや、見られるものは、いつも本当に見てほしいものとは異なっていた。イスラにしても、その条件を完全に満たしているわけではない。意見の相違は常に存在している。
それでも、イスラは自分を受け入れてくれた。何かの型にはめようとせず、操ったり利用しようとしたことなど、ただの一度も無かった。その事実に比べれば、考え方の違いや、その他諸々の不満点など、あってないようなものだ。
(そう……たとえ彼が、エデンを必要としていないとしても)
自分はその場所に行ってみたい。しかしイスラは、必ずしもエデンに行きたいわけではない。
この目的の不一致は、彼に初めて旅の理由を打ち明けた時から解決していないのだ。
イスラが自分と行動を共にするのは、あくまで「お前の側にいる」という動機故だ。だからこそ真っすぐに自分を見てくれているともとれる。
(だから、これ以上望むことなんて……)
「なんか、良いな」
カナンが一人合点をしようとした時、香草茶に口をつけていたイスラがぼそりと呟いた。カナンは「え?」と聞き返す。昨日のことを蒸し返されたのかと思ったが、彼は頭を掻きながら視線を泳がせている。
イスラは杯を地面に置いた。
「こんな風に……好きな女を抱いて、一緒に起きて、飯食って……」
彼はカナンと視線を合わせようとしなかった。カナンは初めて、彼の金色の目がうっすらと充血していることに気づいた。
「イスラ、眠れなかったの?」
「…………」
イスラは何も言わずに立ち上がると、どすんとカナンの隣に腰を下ろして、片手を彼女の肩に回して抱き寄せた。彼が深く息を吸い込む音が聞こえた。カナンは、香水をきつく振りすぎたことを後悔した。
「朝になるまでって言ったけど、やっぱ嫌だな。全然足りない……」
衣越しに伝わってくる体温は、ふわふわと曖昧な昨夜の記憶よりも、明確な熱を彼女に伝えた。
「言いたいことはいっぱいあったんだけど、お前はさっさと寝ちまうしなぁ」
くくっ、とイスラが喉を鳴らした。
「そっ、それは! 昨日は色々あって、私も疲れてて……!」
「嫌だったか?」
「そうじゃない、ですけど……!」
「ま、おかげでじっくり考えられたよ」
「……考えた、って。何を?」
「エデンに行く
肩に回された手に込められた力が、少しだけ強くなった気がした。カナンは息を殺したまま、彼の言葉の続きを待った。
「一緒にいるってだけじゃ、もう足りないんだよ。だから全部終わらせてやる。お前も、他の連中も、一人残らずエデンに連れていく。お前が背負ってる荷物を全部片づけて……そうしたら、エデンに俺たちだけの居場所を作りたい」
最後の辺りは、少し照れ臭さが混じっていた。だが、カナンの身体を抱き寄せたままの腕は、少しも力を緩めていない。
以前は、触れることさえおこがましいと思っていた。闇渡りとして生きてきた自分に、そんな資格など少しもありはしないのだと信じ込んでいた。
だが、カナンとの旅の中で学んだこと、出会った人々、その全ての記憶が、今のイスラを支えている。
「カナン、エデンに行こう」
そしてカナンもまた、胸の中で熱い何かが溶け出すのを感じていた。嬉しいという感情が、時として溶けた鉄のように燃えるのだということを、初めて知ったように思う。
ユディトから聴かされた言葉の意味が、今ならより深い場所で理解出来る。この想いはもう、好きと嫌いだけでは語り切れない。
もう難しい言葉は要らなかった。
「……うんっ!」
イスラの身体に寄り添いながら、カナンは弾けるような笑顔でそう答えた。