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【第百八二節/“法王”カナン】

 いつもよりもずっと遅く起きてきたカナンだったが、朝食を済ませた後はいつも以上の激務の中に飛び込まざるを得なかった。


 現在、カナンの元にはパルミラから連れてきた闇渡りの難民約六千名、大坑窟以来のウルク組が約百名、加えてウルバヌス領で合流した五百名の志願兵やクリシャの操蛇族三百名が混在している。


 いざエデン行きが決まった今、彼らを一斉に動かすためには、様々な準備をこなす必要があった。


 具体的には必要な物資の洗い出しと備蓄の確認、不足分の請求等があげられる。さらに、今現在手元にある戦力を確認して、部隊として編成しなおす仕事も残っていた。


 前者に関しては、必要な情報のほとんどは前もってヒルデが揃えていてくれたため、カナンは書類を確認して記名していくのみである。


 後者も、あらかじめオーディスが編制案を提出してくれていたため、それをもとに考えれば良い。


 だが、内政のことはいざ知らず、カナンは軍事についてはほぼ素人である。継火手の基礎教養の一環として、最低限のことは分かるものの、オーディスの分厚い提案書を消化するにはいささか時間が必要だった。


 結局、分かるところは先に片づけ、分からないところは後回しにした結果、夕食時になってようやく全て把握出来た。


 一人きりになった大天幕の中で、カナンは大きく伸びをした。


「お疲れさん」


 溜息をつきながら自分で自分の肩を叩いていると、夕食を買い付けてきたペトラが天幕の中に入ってきた。


「もう全部読み終わったのかい?」


「ええ……難しくて、ずいぶん時間が掛かっちゃいましたけど」


「よく言うよ。あたしなら一週間かかっても読み終わらないよ、これ」


 椅子に飛び乗ったペトラが、机の上に置かれた提案書をコツコツと叩いた。表や図を交えつつ書かれたそれは、製本すれば辞書一冊分にもなりそうな分厚さだ。


「人を動かすって、簡単なことじゃないですからね。これでもかなりすっきり纏めたそうですよ」


「……一体、いつ書いてたんだろうね」


「……寝る前、とか?」


「あいつの寝てる姿なんて、想像出来ないね」


 そう言ってペトラは「カカッ」と笑った。カナンは、彼女が買ってきてくれた揚げ魚にぱくりと噛り付いた。




「で。隣で見たイスラの寝顔は、どんなだったんだい?」




 カナンは盛大にむせた。慌てて香草茶を飲み、無理やり揚げ魚を流し込む。


「おぅおぅ、慌てちゃってぇ」


「っ、ペトラッ!!」


「何だい?」


「い、いつ知ったんですか……?」


「今」


「……へ?」


「いや、だからカマかけたのさ。面白いくらい引っかかったねぇ」


 大きな溜息をつきながら、カナンはがっくりと項垂うなだれた。そんな彼女の様子を見て、ペトラはニヤニヤと笑いつつ葡萄酒を注いだ。


「まあ、いつも早起きのあんたが、今日はどうしてか遅起きだったからね。疲れてるのかと思ったけど、その割に嬉しそうだったから、ピンと来たんだよ」


「まったく……敵わないなぁ」


「そりゃあ、あんたより長生きだからね」


 ペトラは嬉しげに葡萄酒を啜った。


「結ばれた、と言えば……サイモンのこと知ってるかい?」


「どうかしたんですか?」


「オルファに結婚を申し込んだんだよ」


「えっ!?」


「ようやく身を固める気になったんだとさ。張り切って純金の指輪まで買ったらしいよ」


「そんなお金、あったんですか?」


「あれだよ、イスラとギデオンの決闘の時に、あいつ大穴イスラの方に賭けてたのさ。まあ、日頃からコツコツ貯めてもいたようだけどね」


「知らなかった……」


 ユディトとの対決で頭がいっぱいになっていたせいか、存外自分も周りが見えていないな、とカナンは思った。


「結婚……結婚、かぁ……」


 今朝、イスラが言っていたことを思い出す。あれは遠回しに「結婚してほしい」という意味だったのではないだろうか。


(まさか、寝ないで考えてたのって……)


 もし、イスラが不眠であった理由が自分の想像通りであるなら……そう考えただけで、気恥ずかしさやら可愛さやらで、胸が締め付けられるようだった。


 今朝はまともに頭が回っていなかったせいで、言葉の裏の意図まで読めていなかった。だが、今後あらためて聞くのは、それはそれで気後れする。


(キュンとなるって、こういう感じなんだ)


「顔、にやけてるよ」


 あえて返事はせず、耳を赤くしたままカナンは香草茶を啜った。


「まあ、あいつらがガキの頃から面倒見てきた身としては、ようやくって感じさね」


「そんなに長いんですか?」


「サイモンは十歳にもならない頃に家族ごと送り込まれてきた。オルファは生まれも育ちも大坑窟さ。本当なら、二人とも広い世界を知らずに死んでいくはずだった……」


「本番はこれからです。絶対に皆でエデンにたどり着いて、そこに私たちの居場所を作る。そう……皆のために」


 イスラと心を一つに出来たことは嬉しい。だが、最初からエデンに行くという目的は、自分たちだけのものではないのだ。


 背負わなければならないものはいくつもある。その肩代わりを誰かに頼むことは出来ない。全て自分自身で選んだことだからだ。


 自分には継火手として、祭司としての力と知識があった。そして何より、それらを正しく使わなければならないという義務感があった。時にその覚悟が己を苦しめ、全て投げ出したいと思わしめたこともある。


 だが、今ならこう思える。



「ここまで来て、本当に良かった」



 無駄なことなど、何一つ存在しない。この手に収めたものは、どんなに小さいものでもその全てが尊い。カナンは手を強く握りしめた。


 そんな様子を見ていたペトラは、いつもと変わらない彼女の生真面目さについ微笑を浮かべた。


「そうだね。ここから本番なんだ。しっかりやっていこうよ、法王・・サマ」


「ええ……って、はい?」


「ん? どうかしたかい?」


「いえ、何です? その、法王、って呼び方」


 ペトラはきょとんとしたまま、首を傾げた。


「知らなかったのかい? 皆……特に闇渡り連中は、あんたをそう呼んでるよ?」


「し、知りませんよ! 初めて聞きました!!」


「ああ……そりゃあ、確かに表立って言ったりはしないか」


 一人合点するペトラをよそに、カナンは頭を抱えた。よりにもよって女王を戴くラヴェンナの地で、その呼び方はあまりに不味い。最悪、反乱を企てていると取られても反論出来ない。


「よ、よりにもよって、王だなんて……」


「あいつらにとっちゃ、それだけ思い入れがあるんだろうね。法王の法の方は……大方、法術を使う王様だからか、法律を作る王様だから、ってとこかね?」


「どちらにせよ、その呼び方はマズいです、かなり」


「じゃあ、一人ひとりの口にかんぬきをかけて回るかい?」


「出来るわけないじゃないですか……ともかく、私を法王と呼ぶことは禁止します。明日になったら、そう布告を出しましょう」


「そうだね。まあ、一度広まったあだ名・・・が、そう簡単に消えるとは思えないけど」


「……」


 これは、可能な限り早くラヴェンナを去らなければならないな、とカナンは思った。この時期に厄介事を増やしてごたつくなど冗談ではない。


 旅に出てからつくづく痛感させられるが、自分にはどうやら、目の前に立ち現れる状況に対して強気に出られない癖があるようだ。だから割り当てられた状況下で最善を尽くしはするものの、基本的には常に後手後手である。


 最も、能動的に主導権を取りに行こうとしたら、必然的に他者との奪い合いになってしまう。つまるところ、そうした競争や闘争が苦手だから、なされるがままになっているのかもしれない。


 カナンは残っていた食事を片付けると、オーディスの提案書を束ねて帰り支度を始めた。遅起きとは言え、色々あったため疲れていた。


 だが、ペトラに就寝の挨拶をして帰ろうとした時、意外な人物が彼女を訪ねてきた。

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