「置いていって欲しい……!?」
天幕を訪れた穢婆の言葉に、カナンは驚きを隠せなかった。
穢婆の長老は静かに頷いた。
「一体どうして……これからだっていうのに……」
「だからこそ、さ」
彼女の前には淹れたての香草茶が用意されているが、手をつけるそぶりは全く見せなかった。自らを穢れと認める者にとって、それこそが矜持であった。
「梅毒がね。どうやら頭の方にまで回ってきちまったらしい」
カナンは息を呑んだ。その言葉が意味するものを、彼女は正確に理解していた。
「最初はただの物忘れかと思ったけど、そうじゃない。もういくつかの薬の調合方法を忘れちまったんだ。今はまだまともに喋っていられるけど、それも時間の問題だろうねぇ」
「そんな……」
「脳味噌だけじゃない。いくつか神経にも来てるみたいで、身体の左半分に力が入らない……まあ、そいつは運動不足のせいかもしれないけどね」
そう言って、元娼婦はかすれた笑い声を漏らした。カナンもペトラも、顔の筋肉を動かすことさえできなかったが。
そんな二人を見て、さすがに長老も「ごめんよ」と謝った。
「まあ、これが穢婆ってやつさ。お前さんの天火のおかげでずいぶん楽になっちゃいたけど、根っこの部分が良くなることはないからね。仕方が無いのさ」
いかに強力な天火であろうと、その効力が最も強く表れるのは本人だけだ。カナンもそれを理解していたし、分かったうえで治療を続けてきた。
だが、理性で理解することは出来ても、やるせなさはどうしても消えなかった。なまじ同性であるだけに、彼女たちの置かれた境遇や待ち受ける運命の過酷さは、カナンにとっても非常に辛いものだった。
「さて。こんな状態になっちまった奴は、あたしの他にも何人かいる。あんたは、そんなあたしたちに対して、エデンまで旅をしろって言えるのかい?」
「…………」
置いていきます、という答え以外に無い。それはカナンも分かっている。しかしそれは、彼女たちに「死ね」と告げることと同義なのだ。
そんなカナンの迷いを、穢婆も等しく感じ取っていた。
「気にするこたぁ無い。あんたがあたしらを殺すわけじゃない。あたしらは死ぬ以外に無いんだ。闇渡りの……穢婆の歴史はいつだってそうだった。あたしも、死んでいった連中の仲間入りをするだけなのさ」
「…………」
慰めるべき相手に慰められるのは、恥以外の何物でもない。しかしカナンの喉と舌は、カラカラに乾いたままだった。穢婆たちはとうに達観しきっているかもしれないが、カナンはそれが出来るほど、大人になりきれてはいなかった。
「カナン。あんたが言えないなら、あたしが言おうか?」
見かねたペトラが助け舟を出した。彼女にこの決断を下させるのは、あまりに酷だと思った。
カナンは今まで、一度たりとも他人に対し「死ね」と命じたことが無いのだから。
危険へと踏み入るような決断は何度かしたが、それはあくまで生存の可能性を見越してのものだ。だが、ここで穢婆たちを置いていくことは、死以外の何物をも意味しない。
その点、ペトラはこうした命令に慣れていた。大坑窟でベイベルや
カナンも、そうしたかった。ペトラに任せてしまえればどれほど楽になれるだろう?
だが、それは全てに対して不誠実であるように思えた。
カナンという娘の、難儀な部分であった。
「ねえ、カナン。この前、あんたはあたしに教えてくれたね?
どうしてエデンに行きたいのか……あんたの持ってる欲望は何なのか」
「……ええ。確かにお伝えしました」
ユディトと決着をつける直前、カナンは彼女の前で己の内面を告白していた。ペトラは幾分驚いた表情をしているが、その分、興味もあるようだった。
「あんたは言ったね。自分が人じゃないみたいだ、って。
真っ白な羊の群れのなかに、ぽつんと生まれてしまった黒い羊のようだって」
カナンは「ええ」と相槌を打った。ペトラは静かに「そうなのかい?」と尋ねた。
「姉様は……継火手ユディトは、真っ当に誰かを愛せる人でした。煌都という限られた世界の中で、その世界の形に添って生きていける人だったんです。
でも、私はダメでした」
膝の上に置いた左腕の手首を、カナンは強く握りしめた。
「私はあの世界で生きていくことは出来ませんでした。私を……私の身体を、モノとしか見ない男たちの間で……それを知らないふりをして、受け流して生活することに耐えられなかったんです」
顧みると、エルシャから追いかけてきたあのレヴィンとかいう男は、自分の嫌だと思うことをほとんど実行に移したのだ。そういう意味では、驚異的な存在だったと言うべきだろう。
そして、カナンにとってエルシャに居残るということは、あのような
そんな世界で生きていくくらいなら、死んだ方がマシだ。
「まぁ、ぶっちゃけて言ってしまえば、姉様がどんどん幸せになっていくのを見てるのが辛かった。それだけの話ですよ」
そう言って、カナンは恥ずかしそうに笑った。
世のため、人のために己の力を使うという信念に、嘘は一片たりとも混ざっていない。
ただ、彼女の場合、エデンを目指す理由が
「私は所詮、その程度の人間です。聖女だとか、法王だなんて呼ばれて、持て囃されているけど……一皮むいてしまったら、ただのへそ曲がりの家出娘です」
穢婆に問われて気づいたこと。自分自身の中にある、我欲を見つめなおすということ。カナンにとって、これこそが偽らざる
穢婆の長老も、ペトラも、静かにカナンの告白を聞いていた。
穢婆がゆっくりと口を開いた。
「闇渡りの、ちょいと長い格言がある。詠み人知らずだけどね。
曰く、鳥はいつ飛ぶことを知るのか。高い巣の中から、ある日急に飛び立つ鳥たちは、いったいどうやって飛び方を知ったのか。
本当は、生まれてくる前に、卵の中で空を飛ぶ夢を見て知っていたからではないか。
……カナン、あんたは大きな大きな鳥だよ。鷲や鷹や、シムルグよりも大きな鳥さ。
だから、狭い卵の中じゃ、その翼を目いっぱい広げることが出来なかったんだ」
「私は、そんなに綺麗なものでは……」
「だから、さ。あんたは勝手に飛んでいく。その風が回りを滅茶苦茶にするかもしれない。けど、その背中には、いつの間にか町が出来ているかもしれない。そして皆を運んでいくんだ」
「…………」
「ようやく分かった気がするよ。あたしがどうして、この膿と腫瘍に覆われた身体を引きずって、今日まで生きてきたのか。
それはきっと、あんたに会うためだったのさ」
「私に……?」
「ああ、そうだよ。あたしたちはもう、人として終わっている。助かりようも無い。だからこれ以上生き延びようとも思わない。
けど、そんな人間は、あたしたちで最後にしてほしいのさ。
梅毒を無くすことも、娼婦を無くすことも出来ないかもしれない。それでもせめて、あんたが創る新しい煌都では、もう二度と穢婆なんてものが生まれないようにしてほしい。
それを約束して、エデンまで持っていっておくれ。今となっちゃ願いだけが、あたしたちの命なんだから」
動物は直接的な交配でしか子孫を残すことは出来ない。彼らには言葉が無く、従って文字も無いからだ。
だが、人間だけが交配以外の方法でその存在を、意思を残すことが出来る。
その分、言葉を託される側の人間は、命を背負うのと同等の重荷を負わされることになる。そして託す側の人間もまた、自身の言葉を憶えてくれる者を選りすぐるのだ。
「…………分かり、ました。貴女たちを置いていきます。ただし、病状の重い方は、ラヴェンナの施療院で受け入れてもらえるよう手配します」
その決断が、カナンにとって最大限の譲歩であった。
「別に、良いんだよ。あんたも忙しいだろ。あたしらなんかのために手を煩わせるなんて……」
「いえ。これくらいのことはさせてください。それに……純粋に、政治的な利点もあります。何の提案もしないまま貴女たちを捨ててしまったら、今後求心力を保てなくなりますから」
「そうかい。じゃ、そういうことにしておこうかねえ」
そう言って、穢婆の長老は肩を竦めた。