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【第百八三節/「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生れようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」

「置いていって欲しい……!?」


 天幕を訪れた穢婆の言葉に、カナンは驚きを隠せなかった。


 穢婆の長老は静かに頷いた。


「一体どうして……これからだっていうのに……」


「だからこそ、さ」


 彼女の前には淹れたての香草茶が用意されているが、手をつけるそぶりは全く見せなかった。自らを穢れと認める者にとって、それこそが矜持であった。


「梅毒がね。どうやら頭の方にまで回ってきちまったらしい」


 カナンは息を呑んだ。その言葉が意味するものを、彼女は正確に理解していた。


「最初はただの物忘れかと思ったけど、そうじゃない。もういくつかの薬の調合方法を忘れちまったんだ。今はまだまともに喋っていられるけど、それも時間の問題だろうねぇ」


「そんな……」


「脳味噌だけじゃない。いくつか神経にも来てるみたいで、身体の左半分に力が入らない……まあ、そいつは運動不足のせいかもしれないけどね」


 そう言って、元娼婦はかすれた笑い声を漏らした。カナンもペトラも、顔の筋肉を動かすことさえできなかったが。


 そんな二人を見て、さすがに長老も「ごめんよ」と謝った。


「まあ、これが穢婆ってやつさ。お前さんの天火のおかげでずいぶん楽になっちゃいたけど、根っこの部分が良くなることはないからね。仕方が無いのさ」


 いかに強力な天火であろうと、その効力が最も強く表れるのは本人だけだ。カナンもそれを理解していたし、分かったうえで治療を続けてきた。


 だが、理性で理解することは出来ても、やるせなさはどうしても消えなかった。なまじ同性であるだけに、彼女たちの置かれた境遇や待ち受ける運命の過酷さは、カナンにとっても非常に辛いものだった。


「さて。こんな状態になっちまった奴は、あたしの他にも何人かいる。あんたは、そんなあたしたちに対して、エデンまで旅をしろって言えるのかい?」


「…………」


 置いていきます、という答え以外に無い。それはカナンも分かっている。しかしそれは、彼女たちに「死ね」と告げることと同義なのだ。


 そんなカナンの迷いを、穢婆も等しく感じ取っていた。


「気にするこたぁ無い。あんたがあたしらを殺すわけじゃない。あたしらは死ぬ以外に無いんだ。闇渡りの……穢婆の歴史はいつだってそうだった。あたしも、死んでいった連中の仲間入りをするだけなのさ」


「…………」


 慰めるべき相手に慰められるのは、恥以外の何物でもない。しかしカナンの喉と舌は、カラカラに乾いたままだった。穢婆たちはとうに達観しきっているかもしれないが、カナンはそれが出来るほど、大人になりきれてはいなかった。


「カナン。あんたが言えないなら、あたしが言おうか?」


 見かねたペトラが助け舟を出した。彼女にこの決断を下させるのは、あまりに酷だと思った。


 カナンは今まで、一度たりとも他人に対し「死ね」と命じたことが無いのだから。


 危険へと踏み入るような決断は何度かしたが、それはあくまで生存の可能性を見越してのものだ。だが、ここで穢婆たちを置いていくことは、死以外の何物をも意味しない。


 その点、ペトラはこうした命令に慣れていた。大坑窟でベイベルや不死隊アタナトイと戦ってきた彼女は、幾度となく非常な決断を下さざるを得なかった。無論、喜んで命令したことは一度たりともありはしないが。


 カナンも、そうしたかった。ペトラに任せてしまえればどれほど楽になれるだろう?


 だが、それは全てに対して不誠実であるように思えた。


 カナンという娘の、難儀な部分であった。



「ねえ、カナン。この前、あんたはあたしに教えてくれたね?


 どうしてエデンに行きたいのか……あんたの持ってる欲望は何なのか」



「……ええ。確かにお伝えしました」



 ユディトと決着をつける直前、カナンは彼女の前で己の内面を告白していた。ペトラは幾分驚いた表情をしているが、その分、興味もあるようだった。



「あんたは言ったね。自分が人じゃないみたいだ、って。


 真っ白な羊の群れのなかに、ぽつんと生まれてしまった黒い羊のようだって」



 カナンは「ええ」と相槌を打った。ペトラは静かに「そうなのかい?」と尋ねた。



「姉様は……継火手ユディトは、真っ当に誰かを愛せる人でした。煌都という限られた世界の中で、その世界の形に添って生きていける人だったんです。


 でも、私はダメでした」



 膝の上に置いた左腕の手首を、カナンは強く握りしめた。



「私はあの世界で生きていくことは出来ませんでした。私を……私の身体を、モノとしか見ない男たちの間で……それを知らないふりをして、受け流して生活することに耐えられなかったんです」



 顧みると、エルシャから追いかけてきたあのレヴィンとかいう男は、自分の嫌だと思うことをほとんど実行に移したのだ。そういう意味では、驚異的な存在だったと言うべきだろう。


 そして、カナンにとってエルシャに居残るということは、あのようなたぐいの人間と共生する未来を意味する。


 そんな世界で生きていくくらいなら、死んだ方がマシだ。




「まぁ、ぶっちゃけて言ってしまえば、姉様がどんどん幸せになっていくのを見てるのが辛かった。それだけの話ですよ」




 そう言って、カナンは恥ずかしそうに笑った。


 世のため、人のために己の力を使うという信念に、嘘は一片たりとも混ざっていない。


 ただ、彼女の場合、エデンを目指す理由がそれだけではない・・・・・・・・ということなのだ。



「私は所詮、その程度の人間です。聖女だとか、法王だなんて呼ばれて、持て囃されているけど……一皮むいてしまったら、ただのへそ曲がりの家出娘です」



 穢婆に問われて気づいたこと。自分自身の中にある、我欲を見つめなおすということ。カナンにとって、これこそが偽らざる我欲エゴそのものだった。


 穢婆の長老も、ペトラも、静かにカナンの告白を聞いていた。


 穢婆がゆっくりと口を開いた。



「闇渡りの、ちょいと長い格言がある。詠み人知らずだけどね。


 曰く、鳥はいつ飛ぶことを知るのか。高い巣の中から、ある日急に飛び立つ鳥たちは、いったいどうやって飛び方を知ったのか。


 本当は、生まれてくる前に、卵の中で空を飛ぶ夢を見て知っていたからではないか。


 ……カナン、あんたは大きな大きな鳥だよ。鷲や鷹や、シムルグよりも大きな鳥さ。


 だから、狭い卵の中じゃ、その翼を目いっぱい広げることが出来なかったんだ」



「私は、そんなに綺麗なものでは……」



「だから、さ。あんたは勝手に飛んでいく。その風が回りを滅茶苦茶にするかもしれない。けど、その背中には、いつの間にか町が出来ているかもしれない。そして皆を運んでいくんだ」



「…………」



「ようやく分かった気がするよ。あたしがどうして、この膿と腫瘍に覆われた身体を引きずって、今日まで生きてきたのか。


 それはきっと、あんたに会うためだったのさ」



「私に……?」



「ああ、そうだよ。あたしたちはもう、人として終わっている。助かりようも無い。だからこれ以上生き延びようとも思わない。


 けど、そんな人間は、あたしたちで最後にしてほしいのさ。


 梅毒を無くすことも、娼婦を無くすことも出来ないかもしれない。それでもせめて、あんたが創る新しい煌都では、もう二度と穢婆なんてものが生まれないようにしてほしい。


 それを約束して、エデンまで持っていっておくれ。今となっちゃ願いだけが、あたしたちの命なんだから」



 動物は直接的な交配でしか子孫を残すことは出来ない。彼らには言葉が無く、従って文字も無いからだ。


 だが、人間だけが交配以外の方法でその存在を、意思を残すことが出来る。


 その分、言葉を託される側の人間は、命を背負うのと同等の重荷を負わされることになる。そして託す側の人間もまた、自身の言葉を憶えてくれる者を選りすぐるのだ。



「…………分かり、ました。貴女たちを置いていきます。ただし、病状の重い方は、ラヴェンナの施療院で受け入れてもらえるよう手配します」



 その決断が、カナンにとって最大限の譲歩であった。


「別に、良いんだよ。あんたも忙しいだろ。あたしらなんかのために手を煩わせるなんて……」


「いえ。これくらいのことはさせてください。それに……純粋に、政治的な利点もあります。何の提案もしないまま貴女たちを捨ててしまったら、今後求心力を保てなくなりますから」


「そうかい。じゃ、そういうことにしておこうかねえ」


 そう言って、穢婆の長老は肩を竦めた。

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