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【第百八四節/「政治的身体、あるいは人造神」】

 両肩に凝りを覚えながら、オーディスは炊事場に向かっていた。今の今まで提案書の作成や見直しをしていたため、いつもより遅い夕食になりそうだった。


 すでに炊事係の女たちは引き上げてしまっているが、残り物の料理が鍋に掛けられたままになっている。すぐ近くには小銭を入れるための箱が置かれている。要は、入れた金の分だけ勝手に食え、ということだ。現在の難民団の治安状態がいかに良好であるかを示す好例であろう。


 最も、こんな風に放埓な食糧の使い方は、辺獄に入ってからは出来なくなるだろうが。


 人気はほとんど無く、明日のこともあるので辺りは静まり返っていた。だが、一人だけ長机に座って、蝋燭の火を頼りに読書をしている者がいた。


「こんな遅くまで読書とは、感心なことだ。イスラ」


 イスラが顔を上げる。ほとんど俯くような形だったため寝ているのかと勘繰ったが、どうやら本当に真剣に読んでいたらしい。


 オーディスは自分の夕食を載せた盆を、イスラの対面に置いた。


「あんたこそ、遅い夕食だな」


「やるべきことは山積みだ。時間を惜しんではいられないよ。……ところで、何を読んでいるんだ?」


 イスラは本の背表紙を上向きに立てた。それは、カナンから借りた歴史書だった。主に世界が暗闇に包まれる以前のことが書かれている。


 しばらく前まで文盲だった彼が読むには、やや難解な本だ。事実、まだあまり読み進められていない。


 それでも、大きな変化には違いない。


「何故、歴史書を?」


「これから俺たちの行く場所が、どういうところか知っておきたいんだ。あいつの言葉だけじゃなく、俺自身が調べないと意味が無い」


 ほう、とオーディスは内心で感嘆の声を呟いた。


 だが、イスラという青年には確かにそういうところがある。他人に従いはするが、自分自身の思考は決して放棄しない。全ての行動に、彼自らが定めた意味がある。


 そういう強固な自立心こそ、彼を孤独な闇の中で生き延びさせた原動力なのだろう。あるいは、絶対的な孤独が、彼に年齢不相応の胆力を備えさせたのかもしれない。


 いずれにせよ、イスラの前向きな姿勢は、オーディスも非常に好ましく思えた。


「……初めて会った時とは、まるで別人のようだ。確かあの時の君は、自らの役割を見失って途方に暮れていたな」


「あったな、そんなことも」


「君の表情を見るに、あの時とは随分心境に変化があったらしい。良いことだ。やはり、ギデオン卿と白黒つけられたのは良かったかな?」


「それもあるし、他にも色々。考え出したらキリが無いよ。誰だって、毎日大勢の人間に会ってるんだからさ。会って話した分だけ、自分の中身も変わるってもんだ」


 オーディスは微笑した。そんな意見こそ、以前のイスラでは決して持ちえなかったものだろう。


 孤独が力に変わることもある。だが、それとは異なる成長の方法も、確かに世の中にはあるのだ。


 誰も『一人前の人間』の定義など出来ないかもしれないが、広く世の中に認められる人間というのは、大抵孤独の経験も、社会経験も、どちらも積んでいるものだ。


 一人きりで鍛えられる強さもあるし、人々の中にいないと学べない知恵もある。そのどちらかを極端に欠いてしまったら、不安定な人間に仕上がってしまう。


(私は、どうなのだろうな)


 オーディスは白葡萄酒を口に含みつつ、そう自問した。


「……前から一つ、あんたに聞きたいことがあったんだ」


 イスラは栞紐を挟んで本を閉じた。「何かね」とパンを裂きつつオーディスは言う。



「あんたはどうして、ここまで救征軍に拘るんだ? あいつに……カナンに、何をさせたいんだ?」



 無理からぬことだが、トマト煮は少し冷えていた。


「死んだ継火手の無念を晴らしたいから、か?」


「突き詰めれば、そういうことになるかもしれないな。だが、少し違う」


「どういうことだよ」


 イスラは両肘を机の上に置いた。オーディスは落ち着き払った態度のまま食事を続けている。「飲むか?」「白は嫌いだ」「勿体ない。ところで、私の欲しいものだが」




「永遠の命だ」




 耳を疑うとか、ハトが豆鉄砲を食らったようなとか、驚愕に関する形容表現は色々ある。その突拍子もない言葉を聞いた時のイスラの表情は、最早驚きを通り越して呆れ顔にさえなっていた。


「そんな顔をすることは無いだろう」


 オーディスは苦笑しつつ抗議した。だが、返ってきたのは「ふざけてんのか」という冷やかな言葉だった。



「いや、大真面目さ。まあ、伝わりにくい言い方ではあったかな。


 別に、私が長生きしたいわけではないよ。私はエマに生き返ってほしいのさ」



「……何言ってるんだ、あんたの継火手はとっくに」



「死んだよ、辺獄の奥で。もう彼女の身体も塵に帰っただろう。それはそうだ。人間の肉体は、いずれ死滅して無くなっていく」



 たとえ結末がそうであるとしても、食っていかなければならないのが人間だ。だからオーディスはトマト煮を掻き込んで白葡萄酒で口を漱いだ。




「王の二つの身体、という言葉がある」




 なんだそりゃ、とイスラが聞き返す。「まあ聞きたまえ」




「王という存在は、二つの身体によって出来ている。一つは王自身の持つ肉体。我々と同じ、いずれ滅ぶべき定めを背負った脆い器だ。


 そして二つ目は、政治的身体」




「政治的、身体?」




「その王の提唱した政策や、整備した政治機構のことさ。王政国家において、王の権威は決して欠くべからざるものだ。何故なら、その社会を成り立たせている根底には、王に対する畏敬があるからだ。


 経済、教育、文化、軍事……あらゆる領域において、王の権威はその基盤となる。国家が存続する限りにおいて、王は不滅の存在となるのだ。


 ここまで言えば分かるだろう? 私の言った、永遠の命ということの意味が」



「……つまりあんたは、救征軍そのものをエマヌエルの器にしようって腹なんだな?」



「そういうことだ……まあ、はっきり言ってしまえば、カナン様を利用しているというのは一面において事実だろう」



 彼は怒るかな、とオーディスは思った。だが、イスラは平静そのものだった。



「いや、まあ、あんたが自分の目的のためにあいつを動かしてるのは、分かり切ってたからな。それにあいつだって、あんたの力を利用してここまで来たんだ。条件としちゃぁトントンだろう。ただ……」



「何かね」



「いや……王の二つの身体、だっけ? その考え方自体は分かる。ただ、その政治的なんちゃらってのは、結局虚像に過ぎないんじゃないのか?」



「ふっ、それは理解が不十分だな。


 政治的身体は現にあるのだよ。例えば、この炊事場とてそうだ。エマが提唱し、カナン様が形にしたのが、この難民団であり救征軍だ。


 王は政治的共同体のそこかしこに偏在している。まるで神の如くね」



「……神をたとえる者は、神を信じていない者だ。そんな格言がある。あんたは神を信じてないのか?」



 オーディスは笑った。そして言った。




「ああ、信じていない。神などこの世のどこにもいない。


 あるとすれば、それは人工の神デウス・エクス・マキナ、すなわち政治的身体のみだ」




 それほど力を込めたつもりは無かったが、杯を置いた際にタンと音が鳴った。


「オーディス。あんたの継火手だって、神様を信じてただろ? ンなこと言ってたら、死んだ彼女が悲しむとか思わないのか?」


 イスラは冷静に反論する。今、この場にあってはどちらの方が感情的になっているか、明らかだった。



「……初めてエマと出会った時、私は確かに神の存在を信じたよ。こんな私であっても、見出してくれる人がいるのだと。


 だが、彼女が死んだ時に目が覚めた。あれほど真剣に神を奉じた者にさえ、神は何の奇跡ももたらさなかった。


 エマは、神に裏切られたんだ」



「神を信じていないあんたが、神を創る……それって矛盾してないか?」



 揺れる蝋燭の火の向こうで、オーディスが皮肉な微笑を浮かべるのが見えた。




「何も矛盾などしていないさ。


 もとより神など人間の被造物だ。神は己に似せた最高の存在として人を創った、と言われるが、それは本来真逆の言説なんだ。


 人が、想像し得る最高の存在として神を創った。それが事実だろう」




「この世界が夜に包まれているのも、神のせいじゃないってことか?」




「さあ、どうだろうな。案外、下らない理由でこうなっているのかもしれないが……」




 二人は揃って天を見上げた。オーディス・シャティオンという男の目には、この世界の多くの人間が見ているものとは違うものが見えているのだろうな、とイスラは思った。


(神のことなんて、考えたこともなかったな)


 今の世界の形を作った犯人・・、くらいにしかイスラは思っていない。彼はカナンほど信心深くないが、神の存在そのものを否定するほど強く憎んではいない。


 空には欠けた月が浮かび、他の無数の星々の中にあって一際眩い輝きを放っている。


 神が存在しないとすれば、あの天空の世界は、どうやって生まれたのだろう?



(神様がいないっていうなら、俺たちは死んだ後、どこに行くんだろうな……?)



 そういう問いは、四歳か五歳くらいの時に一度した記憶がある。それ以降も時折頭の中をよぎったが、深く考えはしなかった。


 分かるはずもない。死後の世界に行って帰ってきた者は、誰一人としていないのだから。


(今度、カナンに聞こう)


 結局、それが一番良いな、と思った。話のネタとしては、いささか堅苦しいが。


「さて……」


 オーディスも食器を持って立ち上がった。


「そろそろ出発だ。君も、準備は出来ているな?」


「ああ。いつでも行ける」


「頼りにしているよ。今や君は、我々にとって単純な戦力以上の意味を持った存在だ。誰よりも過酷な戦いをしてもらうことになる」


「いいよ、慣れてる」


 そうか、とオーディスは相槌を打った。それで会話は終わるはずだった。


 だが、イスラはふと気づいたことを口走っていた。


「なあ、オーディス」


「何かね?」


「ああ、いや……さっきの話なんだけどさ」


「何か引っ掛かったかかね? カナン様の守火手としては、受け入れ難い話だったかもしれないが……」


「そうじゃない。ただ、あんたはそれで良いのか、って思ってさ」


「……それで良い、とは?」


「政治的身体とか、神とか言っても、そんなのただの言葉だろ。あんたは、そんな曖昧なものを目標にして満足出来るのか……?」


 カナンを抱いたのはつい昨晩のことだ。まだその記憶と感触は、イスラの中に強く残っていた。


 イスラは、自分が単純な人間だと自認している。だからこそ、自分の素直な欲望や欲求を自覚出来るし、それを原動力に変えることも出来る。


 それが自然なことではないか、と思うのだ。


 オーディスの語る理論・・は、あまりに回りくどいように思えた。


「何かと思えば、そんなことか」


 だが、彼はイスラの疑問を一笑に付してしまった。


「済んでしまった物事に上手く折り合いをつけるのが、大人というものさ。これが、私の折り合いのつけ方というだけのことだよ」


「……そういう、ものか?」


「ああ。そういうものだ」


 それだけ言うと、オーディスはさっさと行ってしまった。


 残されたイスラは、それでもまだ納得出来ない。そして、納得出来ないのは自分がまだ未熟だからなのか……と思ったが、やっぱり違うんじゃないかという思いの方が強かった。

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