煌都ラヴェンナの巨大な城門の前で、カナンとユディトは最後の抱擁を交わしていた。
「絶対にもう一度会うわよ。お前は私の……一番の好敵手なんだから」
「もちろんです。私は絶対に、生きてエデンまでたどり着きますよ」
口ではそう言ったものの、カナンはこの旅が、今までとは比べ物にならないほど過酷になるであろうことを予想していた。
それはユディトにしても同じことだ。提出された様々な書類に目を通すうちに、あの議論の場でカナンを打ち負かせなかったことがつくづく悔やまれた。
だが、過ぎてしまったことは変えようがない。こうなることはきっと、カナンがエルシャを飛び出すより、ずっと前に決まっていたのだろう。
だから今出来ることは、妹に対して最大限の発破をかけてやることくらいだ。
「お前のことだから、這ってでもたどり着くって信じてるけど……それがいつになるかは分からないわね。途中で泣き言を言っても、誰も助けてくれないわよ」
「まさか。……それより、私がエデンにたどり着くのと、姉様がギデオンに告白するのと、どっちが先になるかな」
「お前……! 馬鹿にするのも大概にしなさいっ」
こういう時でも人を茶化さずにいられないのがカナンだ。
ただ、彼女のこうした戯言が出るのは、よほど親密な相手以外に無いことは、ユディトも理解していた。
「大体、お前の方こそどうなのよ。どうせ口先で色々言うだけで、進展なんて何も……!」
そう言いかけた時、ユディトは妹の顔に浮かんだ非常に微妙な表情を目にした。バツの悪さと気恥ずかしさが入り混じった、微苦笑のような何か。それを見て何も察せないほど、ユディトは鈍くない。
「……まさか、お前……っ」
カナンはぷいと顔を背け、両手の人差し指をツンツンと突き合わせた。
「どっ、どこまで行ったの! どこまでっ!!」
妹の肩を掴んでガタガタと揺らすと、何やらごにょごにょと声が漏れた。
「ッ……! あんたの心配なんかするんじゃなかったッ!!」
「いや、だって……考えてみたら、付き合ってからもう数か月経ってますし……」
「あんた聖職者なのよ! 結婚してからじゃないと駄目でしょ!!」
「姉様こそ、そうやって難しく考えてばかりだから、何も前に進まないんですよ」
「お前にだけは言われたくないわっ」
はあぁ……と、ユディトの口から大きな溜息が漏れた。この事実を父親が知ったら、誇張でも何でもなく気絶してしまうかもしれない。
「全く。お前は本当に、どうしようもない不良娘ね」
「ええ、私は出来の悪い娘です。だから……お父様のことも、よろしくお願いします」
「そうやって、当然のように私の仕事を増やすわけね」
「ごめんなさい、姉様」
「良いわよ。もう、覚悟は出来ているわ。
お前だって……待っている人たちがいるでしょう? 早く行きなさい」
「……はいっ」
その返事を契機に、カナンは繋いでいた白馬に飛び乗った。
手綱を引く直前、彼女はもう一つ、姉に託していたことを再確認した。
「あの人たちのことですが……」
「分かっているわ。支援の一環ということで、ラヴェンナに掛け合ってみる。安心なさい」
「ありがとう、姉様」
「……行きなさい」
カナンは白馬の腹を軽く蹴った。嘶きとともに馬が走り出し、ラヴェンナと、見送るユディトの姿が少しずつ小さくなっていく。
カナンはふと、エルシャを飛び出す時のことを思い出した。あの時は、ユディトに何も言わずに出てきてしまった。旅の中で何度かそれを後悔したことがある。
だが、もしもそうしていたなら、きっと出ていくだけの踏ん切りをつけられなかっただろう。
今でさえ、涙が浮かぶのを止められないのだから。
◇◇◇
「行かれましたな」
風を受けながら立ち尽くすユディトの肩を、ギデオンは軽く叩いた。
「心配しておられますか?」
「あの子のことはいつだって心配です。でも……心配するだけ無駄、という気もしています」
「そうですね。危ういようでいて、案外そうではない。それに今は、隣に優れた戦士が控えています。奴ならば、最後までカナン様をお守りするでしょう」
ギデオンの言葉は、カナンの安全を保証するようなものではなかった。最後までという文言も、救征軍が崩壊する寸前まで、という意味合いが含まれている。
それは悲観的と言うより、むしろ誠実さの現れと言うべきだろう。
確かにあの闇渡りであれば、どのような結果が待つにせよ、その最後の瞬間までカナンの味方でいてくれるに違いない。ユディトはそう思った。
「……しまった。御礼を言いそびれてしまいました」
「礼を言われるようなことではない、と返されるだけです。気に病むことはありますまい。
それに……奴の方こそ、カナン様の隣にいることで得られたものは、多々あったのではないでしょうか」
「……」
ユディトは無言で頷いた。口に出しこそしなかったが、そんな関係性を築けたカナンとイスラのことが、とても羨ましく思えた。
自分はこれからどうしていくのだろう? どうなっていくのだろう? そんな不安混じりの期待が、妹への心配と相まって、胸の中でぐるぐると渦を巻く。
(違う……そうじゃない。私や、あの子だけのことじゃないんだ)
ラヴェンナのだだっ広い平原には、遮るものがほとんど無い。月の運行に従って、空を覆っている星々も地平線に呑み込まれてしまう。
カナンは闇渡りたちを引き連れて、その道を行く。
(私たちの世界の在り方も、この旅の結果で変わるのかもしれない)
昔、フィロラオスが講義の中で語っていた言葉を思い出す。川の中の巨岩も、長い年月を経ることで削られ、水に浸されている部分は丸く滑らかになっていくものだと。ましてや人間の世界など、水に削られる岩に比べれば、砂山のように脆いものだ。
新しい葡萄酒は、古い革袋に注ぐことなかれ。使い古された格言だ。
カナンが成功すれば、彼女の新しい思想が煌都という古い革袋に流れ込むことになる。そうなった時、自分や、自分の周囲の環境はどう変わるのだろう?
「ギデオン。もし、世界の形が変わったら……」
ユディトはハッと我に返った。思ったままに言葉が出てしまっていた。彼は「何でしょう?」と聞き返してくるが、ユディトは咄嗟に「何でもありません」と答えてしまっていた。
(私は、今……)
危ない所だった。つい口について出そうになったのだ。
世界の形が変わったら、貴方はどこかに行ってしまうのですか? と。
◇◇◇
第二次救征軍出発の光景は、ラヴェンナの大多数の人間によって見送られていた。城門の上は群衆であふれかえり、身内を送り出した者は涙を堪え、野次馬根性を満たすための来た者はしたり顔で軍勢の様子を論評している。
見物に来ることが出来たかどうかは別として、この事件に関心を持たなかった者はほとんどいないと言って良いだろう。
そしてある意味、最も強く心乱されていたのは、ラヴェンナ女王その人だった。無論、悪い方の意味合いではあったが。
疲れを訴えた彼女はその日の政務を一切取りやめ、私室の寝台に横たわっていた。身体の状態が状態だけに、誰も彼女を咎めようとはしなかった。
それに、完全にずる休みというわけでもない。実際にマリオンは強い心労を覚えていた。カナンに対する嫌がらせが悉く失敗したこともそうだし、挙句の果てにラヴェンナ市街で暴動が起きたことも彼女の神経を弱らせていた。
しかしそれだけではない。胸がずしりと重たくなるこの感覚は、前にも一度味わったことがある。姉が救征軍を率いて出発した時も、同様の胸騒ぎを覚えたものだ。
事がどう進むにせよ、絶対にろくなことにはならないという直感があった。最悪の結果を想像するだけでも身が細る思いだったが、実際、その通りになってしまった。
大きく溜息をつきながら、マリオンは寝返りをうった。だが、膨らみ始めた腹を圧迫してしまうため、思うように動けない。
マリオンは自嘲した。王冠、臣下、群衆、その他多くのものに束縛されているというのに、この上自分の身体さえ自由に出来ない。
(羨ましい)
自分の嫉妬を認めるのは辛かったが、心の中でそう呟くと、自分を
羨まずにはいられない。己の力と意思に従って、望みを叶える者を。
カナンはまるで、エマヌエルそのもののようだった。
彼女たちのように自由に生きられたら、どれだけ幸せだっただろう。マリオンはいつもそう自問せずにはいられない。その自由に付きまとう孤独や労苦にまでは目がいかなかった。ただただ、自由に伸び伸びと生きている彼女たちが妬ましかったのである。
自分で決めた道を進み、自分の選んだ男を愛する彼女たちが、マリオンには満月よりも眩しく映り、だからこそ引きずり下ろしたいと思った。
実際には、追いすがることさえ出来ず、惨めに
「マリオン、開けても良いかい?」
カーテンに人影が写っている。マリオンはぴたりと嗚咽を止めた。しばし沈黙が寝室を満たした。
「開けるよ……?」
グィドはそう断ったが、そもそもカーテンを開けたこと自体が間違いだった。
彼が姿を見せた瞬間、マリオンは野生動物の如き俊敏さで彼の胸倉を掴み、ベッドの上に押し倒していた。本気になった継火手の膂力は成人男性であっても抗えない。ましてや彼女の天火は、ラヴェンナ王家に伝わる白炎である。
彼女からの虐待に慣れているグィドだが、さすがに反応出来なかった。呆気なく寝台に押し付けられる。マリオンは彼の上に馬乗りになり、両手で彼の首を絞めつけた。
「死ね! あんたなんか、死んでいなくなれッ!!」
長い爪がグィドの華奢な首に食い込む。驚愕に見開かれた彼の眼球がぶるぶると震え、舌が空気を舐めようとするかのように蠢いた。殺されかけている人間の顔が、マリオンの殺意をなお一層掻き立てた。
もし彼女の絶叫に気付いた侍女たちが駆け付けなければ、グィドは絞殺されるよりも先に首の骨を折られていたかもしれない。
マリオンの腕を引き剥がすのは並大抵の仕事ではなかった。狂ったように腕を振り回す彼女は、侍女や警護の兵士も構わずに薙ぎ倒した。よもや身重の女王に飛び掛かることも出来ないため、彼らの対応も必然的に及び腰となったのだ。
だが、マリオンが他に気を取られている隙に、なんとかグィドは彼女の下から抜け出ていた。寝台から転がり落ち、床の上で大いに咽た。目は涙と酸欠で曇ったままだが、何とか振り返ると、そこには五人がかりで動きを止められたマリオンの姿があった。
目は血走り、汗だくの服や髪が肌に張り付いている。狂気を湛えた視線は、いまだにグィドに向けられていた。
そんな女性が、あの日ブランコにぽつねんと掛けていた可憐な少女と同一人物だと認めるのは、さすがのグィドも辛かった。
「僕が……」
急いで駆け付けてきたギヌエット大臣が、衛兵たちとともに彼を担いで部屋の外へと連れ出した。それでもなお、罵声は彼の背中を容赦なく叩き続けていた。
「僕が、悪いのか……」
荒い吐息に混ぜて吐き出された独白は、誰の耳にも届かなかった。
◇◇◇
イスラは、進発した救征軍の先頭集団に混ざって歩いていた。アブネルを将とし、闇渡りの戦士を中心として編制されたこの部隊は、遠征軍全体の先鋒を任されている。最も激しい戦場が待ち受けていることは想像に難くない。
彼はくるりと振り返ると、後ろ歩きをしながら遠ざかっていくラヴェンナの大燈台を眺めた。
その方向から、白馬に乗った少女が駆けてくるのが見えた。
闇渡りたちの歓声や挨拶に杖を掲げて応えていたカナンは、後ろ歩きをしているイスラを見つけると駒を進めてきた。
「何をやってるんですか?」
馬の歩調をイスラの歩調に合わせながら、カナンが問いかける。イスラは口元を緩めて言った。
「三度目だな、って思ってさ。こうやって大燈台から離れていくのって」
言われてみればそうだな、とカナンも振り返って見ながら思った。転移門を使ったウルクはともかく、エルシャとパルミラの時も、こうして大燈台に見送られながら旅に出たのだった。
「寂しいですか?」
「馬鹿言うなよ。あそこは俺の故郷でも何でもない」
「言うと思いました」
カナンはひらりと白馬から飛び降りた。片手に手綱を持ったまま、イスラと同じように後ろ歩きでラヴェンナを眺める。
「……これが最後になると良いな」
「ええ」
たどり着くべき場所まで行けたなら、もう二度と燈台に見送られて旅立つこともなくなるだろう。
このごつごつとした地面を踏みしめることも、夜露にぬらされながら目覚めることもなくなる。即席料理で腹を満たすことも、川の水を沸かしてから飲むこともなくなる。旅が終わるとはそういうことだ。
ただ、それを少し寂しく感じるのも、贅沢な話だな、とカナンは思った。
「ここからが本番か」
「そうですよ。苦労をかけます」
「良いって」
二人は揃って前を向いた。
人々は川を下る魚のように、辺獄という河口を目指して歩いていく。そこから先が試練の海であることは、誰もが覚悟していた。
イスラとカナンもまた、その人々の群れの中にあって、全く同じ覚悟を抱いていた。だが、二人の胸中にあるのは覚悟だけではない。天火や星よりも明々と道筋を照らす希望が、何よりも強い原動力となって彼らを突き動かしている。
エデンへ。
永遠の居場所を求める二人は今、最後の旅の路程を辿り始めた。