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【第百八六節/深淵に秘されしもの】

『彼 よもすがら痛く泣きかなしみて 涙、頬にながる


 その戀人の中にはこれを慰むる者ひとりだに無く


 そのともこれに背きてその仇となれり


 花嫁 はなはだしく罪を犯したれば 汚穢おえたる者のごとくになれり


 前にこれを尊とびたる者も その裸體を見しによりて皆これをいやしむ


 是もまたみづから嘆き 身をそむけて退ぞけり』



 地の底の底。誰にも顧みられることのない暗黒の中、女の脳裏に憂鬱な歌が木霊こだました。



『すべて行路人よ 汝ら何とも思はざるか 


 神、その烈しき震怒しんどの日に


 我をなやましてわれに降したまえるこの憂苦にひとしき憂苦


 また世にあるべきや考がへ見よ』



 眠りは眠りにあらず、休息もまた休息とはならなかった。


 彼女は常に目覚めていたし、また、常に悪夢の中にいた。


 飢えと渇きがひたすら身を焦がすというのに、それらは痛苦に満ちた生を終わらせてくれない。終末の日に現れるという、ただ苦しみだけを与えるいなごの怪物のように、ただただ己が身を責め苛む。



『神、いと高きところより 我が骨の中に火をくだし


 悔悟の灰に投げ入れたり


 わが嗟歎は多く わが心はうれひかなしむなり』



 さ迷い歩く彼女の裸身を覆うのは、彼女自身の内側から噴き出す黒い炎と、伸びるままになった髪だけだ。


 全身の皮膚に裂け目が走り、その赤黒い亀裂からは黒炎がとめどなく流れている。まるで、彼女の体内に血液など一滴も流れていないというかのように。


 あまりに痛ましい姿になりながらも、女の肉体は少しも痩せ衰えてはいなかった。もし彼女の姿を見る者があれば、そのあまりの不均衡にある種の皮肉を覚えたことだろう。



「カナン」



 女は、全く無意識のうちに、己を今の状況へと追いやった少女の名を呼んでいた。


 あの戦いで敗北した後、彼女は全てを失った。臣下や奴隷、富や権力……しかし、それらは全てどうでも良いものだ。その気になれば取り戻すなど造作もない。



 だが、彼女――ベイベルは、致命的な毒を盛られていた。




 すなわち、「自分ベイベルとは、自分自身の力に恐怖する人間である」という自己同一性である。




 以前の彼女は、「自分を人間とは認めない」ことに全てを費やして生きてきた。そうして自分自身の認識を歪めていないと、精神の均衡を保てなかったのである。


 異常な力を持って生まれた自分は、誰からも愛情を向けられずに育った。幼い頃から常に命を狙われ続け、実際に様々な方法で害されたが、すぐに黒い天火が何もかもを無かったことにしてしまう。死のうと思っても死ぬことも出来ず、受け入れてくれる誰かを求めても、皆恐れて近寄ってこない。


「……カナン」


 物質的には完全に満たされていたが、それらは全て、ベイベルを閉じ込めるための檻の代用品に過ぎなかった。そして、それが理解出来ないほど、ベイベルは愚かではなかった。


 いっそ世界一の愚者であったならば、どれほど楽に生きられたことだろう。怪物になれないのであれば、せめて愚者になりたかった。暴飲暴食に溺れ、宴会に供される豚のように醜く肥え太り、痴愚女神モリアエよろしく涎と鼻水を垂れ流すような存在でいられたなら、このような煩悶とも無縁だっただろう。


「カナン……カナン……カナン……」


 人生の早い段階で人間への求愛を諦めたベイベルは、その知性を己の内側へと向けた。すなわち、自己の弱い部分を欺瞞で覆い隠し、魔女という仮面を被る道を選んだのだ。



 自分が人間であるならば、他の人間はあまりにも眩しい。



 しかし、自分が怪物であるのなら、人の輪の中に入っていけないことにも説明がつく。



 この苦悩を分かってくれる者など、サラ以外にはいないと思っていた。



 このような有様になった後も、サラだけは自分の側に居ようとしてくれた。同じ異能を宿す者同士、言葉を超えた共感が自分と彼女を繋げている。



 ――わたしは、ベイベルといっしょにいるよ。



 その言葉を聞いた時、ベイベルは生まれて初めて、胸の中に穏やかな熱が宿るのを感じた。自分と同じように散々に歪められたにも関わらず、人として大切なものを抱いたままの彼女に対して、敬意すら覚えたほどだ。


 だからこそ、ベイベルは彼女を遠ざけた。それが友人であり妹であり同類である彼女への、最大の返礼だと思ったからだ。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………………」


 後にはただ、孤独だけが残った。


 どこにいても癒されず、ただ自分自身への惨めさだけが募っていく。


 それならばいっそ、人間など一人として存在しない夜魔の世界へ降りていく方が、気が楽だった。


「カナン!!」


 石の壁に両手を押し当てる。触れられた部分が灼熱する。ベイベルはあの少女の名を叫びながら、何度も壁に額を打ち付けた。


 額の骨を割ってもなお、天火は彼女の死を阻む。残るのは虚ろな痛みだけだ。


 それでも、そうせずにはいられなかった。どこまでも自分というものを痛めつけ、徹底的に破壊し尽くしたかった。


 そんな彼女を取り囲むようにゆらりと影が立ち上がる。


 広大な洞窟を埋め尽くすように、夜魔の軍勢がベイベルを包囲した。


 夜魔は人の絶望を嗅ぎ付けるという。己惚れるわけではないが、この世の自分ほど絶望というものを知っている人間・・はいないだろう、とベイベルは思った。


(人間……人間、か)


 夜魔の軍勢が一斉に襲い来る。海を見たことはないので分からないが、津波のような、という形容はこういう時に使うのだろう。押し寄せる夜魔の軍勢の有様は、まさに怒濤の如くといったところだ。


「五月蠅い」


 ベイベルは無造作に手を振った。


 彼女の手から流れ出た黒炎は、夜魔の波以上の高さをもって、有象無象を瞬時に消し炭へと変えてしまった。


 夜魔の大群に襲われるのは、初めてのことではない。いっそ彼らが自分の身体を引き裂いてくれることを期待したが、すぐに無駄だと分かった。彼らでは自分を殺すどころか、近づくことさえままならない。天火は夜魔に対し圧倒的に優位な力だ。ましてや、無尽蔵の黒い天火は、湧きだし続ける夜魔を焼き払ってなお衰えない。


 黒炎が通り過ぎた後には、ただ灰の山だけが残った。


 ベイベルの素足がそれを踏みつける。


 火を特別視する世界にあって、灰もまた特別な意味を持つ。火が神の力の具現であるとするなら、灰とは神の力が通り過ぎた証拠であるからだ。祭司の中には、灰を重視して儀式の中に取り入れる者もいるという。


 神官という肩書を持っているベイベルも、無論職業に付随する知識は備えていた。


「悪事を成せば灰を被り、以て神への改悛となせ、か。ふふ……」


 ベイベルは踵で足元の灰を踏み躙った。


 そんな彼女に向かって、夜魔の群れは一心不乱に襲い掛かる。錆びた歯車のような、あるいは女の悲鳴にも聞こえる耳障りな音を立てて。洞窟の中で一斉に反響すると、それだけで鼓膜を痛めつけるほどの大音響となる。


 それも、彼女の黒い炎が通り過ぎると、一瞬だけ嘘のように消えてなくなる。しかし残響がまだ続いているうちに、あたらしい夜魔たちが湧き出てきて、雑音の合奏を引き継ぐのだ。


 何度も夜魔を薙ぎ払っているうちに、彼女は両目にうずきを覚えた。


(また、か)


 初めてのことではない。天火の制御が利かなくなった頃から、たびたび生じていた症状だ。


 いくら瞬きをしても収まらず、天火によって癒されることも無い。最初のうちは全身の激痛の方が悩ましかった。それに慣れてしまった今となっては、両目を包むちょっとした不快感の方が、かえって明確に感じられた。


 しかし、実際に両目の疼きが強まっているのは確かだ。


 いつからだったか、目が疼いている時に限って、視界が奇妙に歪んで見えるようになっていた。


 最初はチカチカと明滅する程度だった。しかし今は、現実の風景の上に、何か幻影のようなものが重なって映るようになっていた。


 視界を覆う洞窟の石壁の中に、きらきらと光の粒のようなものが瞬いている。壁だけではない、天井も、足元も、あるいは自分の身体にさえも、光の粒子は宿っている。


 その粒はとても小さなものであるはずなのに、ベイベルはそこに文字が刻まれていることを知覚・・し得た。何が書かれているのかは分からない。しかし、現象を繰り返すごとに、ベイベルはより明瞭に感じ取れるようになっていった。


 そして今日は、今ままでよりも遥かに強く感じられる。まるで満点の星空のように、巌窟の中が輝いていた。


 その光輝を構成する粒の一つ一つは翼で覆われていて、表面には文章が記されている。粒を光らせているのは、その金色に輝く文字そのものだ。


 人間には理解出来ないその文字は、何か神聖な意味を持っているであろうことは、ベイベルにも把握出来た。恐らく誰であっても、その輝く文字を見れば畏怖の念を抱かずにはいられないだろう。


 そして、それら光の文字からは、水が滲み出るかの如く歌声が溢れていた。小さな声も、無数に寄り集まれば大きな合唱となる。耳障りな夜魔の交響曲を打ち消すほどの。


(何だ、これは……)


 ようやく自分の脳髄に狂気が訪れてくれたのかと思ったが、どうやらそうではない。自分の感覚器は、確かに目の前にある光景を現実のものとして捉えている。目も、耳も、それらを含む己の身体そのものも、歌う金文字の刻まれた翼によって織りなされている。醜い赤黒い亀裂に侵された腕でさえも。


 しかし、夜魔たちだけは異なっていた。


 世界が星空のように輝いているというのに、押し寄せる夜魔たちだけは、光の粒子を宿していない。全身を覆う白い紋様と、爛々とぎらつく赤い複眼だけが、闇の中に不気味に浮かび上がっていた。


(……?)


 困惑する彼女のことなど構わずに、夜魔たちは次々と湧き出しては襲い掛かってくる。何度天火で焼却しようとも、全く終わる気配が無い。


 それは良い。夜魔たちが無限に現れるとしても、彼女の天火とて尽きることはないのだ。いくら願っても願っても、衰える気配さえ無い。


 夜魔には自分を終わらせる・・・・・力など無い。そんなものが耳元でがやがやと騒ぎ立てるなど、煩わしいことこの上ない。ベイベルにとって、夜魔に対する認識などその程度のものだった。


 しかし今は違う。彼女の鋭敏な知性は、自分自身に起きている異常現象と夜魔の存在そのものを、直感的に結び付けていた。




 不意に夜魔の攻勢が止んだ。




 爪や槍を振りかざして猛っていた夜魔たちが、衛兵のように直立不動の姿勢のまま動かなくなる。


 そして、立ったままの夜魔たちを無造作に踏みつぶしながら、洞窟の奥より一際大きな個体が姿を現した。


 大きさもさることながら、その夜魔は多くの点で他の個体と異なっていた。


 まず、鰐のような六本の脚と獅子のような胴体、大蛇のような尾を持っていること。頭部は無く、切り株のようなものが首の根本に七つ生えている。代わりに、胸部には真一文字に開かれた口があり、汚泥の絡みついた乱杭歯が飛び出ていた。


 いかなる文献にも、このような夜魔の存在は記されていない。当然、ベイベルも知らない。


 最強の継火手である彼女が、夜魔に対して恐れを抱く道理は無い。しかし、彼女は法術を使おうと決めた。


 眼前に立つ存在に対して、生理的嫌悪感を禁じえなかったからだ。ベイベルは右手を高く掲げた。


「我が黒炎よ、憤怒の息吹を浴びせ灰を散らせよ。火神の鞴ネルガルズ・ベロウズ


 手の平に黒い天火が集中し、圧縮される。無尽蔵の黒い炎を詰め込めるだけ詰め込み、極限まで集中したところで一気に開放させる。


 洞窟の前方、首無しの夜魔めがけて、黒炎と衝撃波が同時に襲い掛かった。巻き込まれた通常個体は、最初の熱波を受けた時点で溶け崩れている。残った個体も、増幅された衝撃波によって幾度も嬲り抜かれ、ばらばらに吹き飛ばされた。


 ベイベルの法術は、全て彼女自身が考案したものである。通常の法術は術者の消耗を抑えるように構成されているが、無尽蔵の天火を持っているベイベルには関係の無い話だ。むしろ、少しでも余分に天火を消費することが求められる。


 故に、彼女の法術は全て過剰な威力を持っている。その圧倒的な暴力は、相手が夜魔であろうが人間であろうが等しく灰燼に帰す。それこそカナンの蒼炎でも持ってこなければ、正面から打ち破ることは不可能だ。


 だが、黒炎と波動が通り過ぎた後も、首無しの夜魔だけは依然としてその場所に鎮座していた。攻めるでもなく守るでもなく、ただ、じっとベイベルの正面に立ち続けている。


「……目障りな」


 彼女の苛立ちに反応するかのように、全身に走った亀裂が赤黒い光を発する。溢れだした天火が溶岩のように周囲を嘗め、熱波が彼女の黒い髪を躍らせる。


「黒炎よ、汝は不帰の国の人食い河也。穢れたる流れを此処に齎せ。冥王の濁流エレシュキガルス・フラウド!」


 ベイベルの身体から直に流れ出て天火が、激流のように一本道の洞窟を下る。炎の大河の川面からは、同じく炎によって形作られた悪鬼や鰐がのた打ち回っている。


 果たして、天火の鉄砲水が首無し夜魔に直撃すると同時に、川面の怪物たちがその巨体に纏わりついた。黒炎の濁流が六本の脚や胴体を溶解させ、とりついた怪物たちは思うさまに齧り、毟り取ろうとする。


 一時的ではあるが、身体を覆っていた天火を引き剥がすほどの攻撃だ。久しぶりに感じる素肌の感覚は、だが、瘴土特有の不快な生暖かさだった。それでさえもすぐに火傷の痛みによって上書きされる。


 叩きつけた天火の量は膨大だ。カナンと対峙したあの時に見せた術など、彼女の力のほんの一片に過ぎない。挑発に乗ることが無ければ、敗北を喫するなどあり得なかっただろう。


 現に、首無し夜魔は炎の河の中で溺れている。胴体に開いた口からは際限なく天火が流れ込み、その内側を炙っていることだろう。


 だが、ベイベルは眉を顰めた。何かがおかしい。


 並みの夜魔であれば、とうの昔に消滅している。よしんばあれが特殊な個体であるとしても、夜魔が天火に弱いという不文律は変えられないはずだ。


 しかし、あれはまだ消え去っていない。天火の大河に溺れ、燃え盛る悪鬼死霊に取りつかれてもなお原形を保っている。


(何だ、この違和感は……?)


 両目に強い痛みを覚えた。それだけでなく、今度は耳の奥にも鈍痛が響いている。あの歌声を長く聞き過ぎたためだろうか。


 光の粒の輝きがより鮮明になり、歌声もますますはっきりと聞こえるようになっている。それが彼女の不快感を否応無しに掻き立てる。


 そして、さらに煽り立てるかの如く、首無し夜魔は炎の河の中でも依然健在のままだった。


「っ、ふざけるな……! どこまでも余を愚弄して……何もかもがッ!!」 


 怒りのままにベイベルは天火を叩きつける。そのたびに首無し夜魔は脚を折られ、胴体を抉られて歩みを止めるが、またすぐに回復して歩き出す。


 激怒しながらも、ベイベルの中の理性的な部分は目の前の現象を解釈すべく最大限に稼働していた。加えて、一層激しく、五月蠅く叩きつけられる光と歌声とが、彼女にある気付きをもたらした。


 ベイベルの黒炎は、確かに首無し夜魔に効いている。最初はあの金色の剣のように天火が吸収されているのかと思ったが、それならば一旦傷を負うことの説明がつかない。


 つまり、あの夜魔には天火による攻撃が効いている。しかしそれ以上の回復力を以て、失った箇所を補っているのだ。まるで自分と同じように。


 否、回復するだけではない。最初は分からなかったが、天火による攻撃を続けるうちに、ベイベルは眼前の夜魔が少しずつ肥大化しつつあることに気付いていた。


(何だ……? こいつは、一体……!?)


 苛立ちは徐々に焦燥感に近づいていた。身の危険を案じてではない。自分の肉体はいくら傷ついても構わない。しかし、それとは別に、何か非常に危ういところに自分は接近しているのではないか……そんな気がした。




 触れてはならない何かに、開けてはならない箱に手をかけているのではないか?




 そんな危惧を証明するかの如く、現実と幻覚を一体化させた視覚が、首無し夜魔の中にあるものを見出した。


 夜魔の身体は闇を固めた汚泥のようなもので出来ている。その汚泥の中に、ベイベルはあの文字の刻まれた翼を見つけた。だが、それらはすでに光を失い沈黙している。死んでいる、と表現するのが正しいように思われた。いつの間にか湧き出してきた他の夜魔たちにしても同じだ。




 彼らの身体は、無数の、極めて小さな、文字の刻まれた翼の死骸によって構成されている。




 ベイベルの中に、一つの予想が浮かんだ。


「……まさか」


 首無し夜魔が一歩ずつ、着実に歩を進める。最初に比べ二回りほど巨大化した体躯は、歩くだけで小さな地響きを起こした。


 その夜魔に向けて、ベイベルはひび割れた右腕を突き出した。




「我が黒炎よ、創世の光となりて万象を照らせ。神の門を潜りて現出せよ! 無限光アイン・ソフ・オウル!!」




◇◇◇




 その日、その時。煌都ウルクの大燈台は遮光壁を下ろし、仕事を終えて家路につく人々が通りを満たしていた。


 歓楽街は労働者で溢れ、口々に日ごとの苦労や楽しみを語り合う声で満ちていた。泡の溢れた麦酒を持てるだけ持った看板娘が、躍るようにテーブルの間を歩き回り、顔を赤らめた男たちがその娘の尻にさっと手を伸ばす。


「ったく、しょうがねぇなあ」


 店の親父は酔客たちを苦笑交じりに眺めながら、ふと残飯が溜まり過ぎていることに気付いた。お世辞にも衛生に気を使っているとは言えないが、今日はどうしてか、厨房で鼠やゴキブリの姿を見ない。


 見習いと一緒に店の裏手から残飯を捨てに出ると、いつもは群がってくるはずの野良猫たちの姿が、少しも見えない。


「っかしいな。あいつらどこに行ったんだ?」


「きっと役人が退治してくれたんですよ。最近増えすぎてましたから」


 下水に残飯を投げ込みながら、見習いが言う。店主はその頭を軽く小突いた。


「バカやろっ。ウルクの役人が、そんなマメな仕事をするわけねぇだろ」


「じゃあ、良い餌場でも見つけたんじゃないですか?」


 それが、店主が最後に聞いた言葉となった。



 不意に地面がぼこりと隆起した。転びかけた店主は、そのまま地盤の亀裂に飲まれ、同時に噴き出してきた黒い炎によって一瞬で消し炭と化した。



 亀裂は瞬く間にウルクの市街区の一角に走り、その上にあったもの全てが黒炎に飲まれ、奈落の底へと落ちていった。家に帰り我が子を抱き上げたばかりの父親も、店仕舞いをしていた商人も、酒乱の娼婦も、そこで営まれていた全ての日常が、文字通り一瞬にして崩れ去った。


 崩れ落ちたのは一区画のみであったが、そこから溢れ出した炎は、さながら間欠泉の如く高く吹き上がった。それこそ、大燈台の高さすらも凌ぐほどに伸びて、天を焦がし、それからウルクの半分に降り掛かった。崩壊した区画で起きた惨劇が、規模を拡大して再現された。




◇◇◇




 昇りかけの月が、大地にぽっかりと開いた大穴を覗き込んでいる。


 地の底に横たわったベイベルもまた、同じように月を見上げていた。


(月……月の光、か……あれも、そういうことか)


 思ったことは口に出なかった。喉が焼けている。両手両足が爆発の衝撃によって捥ぎ取られ、身体中に火傷が広がっている。黒い炎がちろちろと舐めるように傷口を癒していくが、いつもに比べると少しばかり回復が遅い。


 しかし、いずれ治る。これでも死ねない。自身でも制御しきれない最強の法術を以てしても、死の河を越えること能わなかった。


 そして、前よりも一層巨大化した首無し夜魔もまた、身動きの取れなくなった彼女を見下ろしていた。




「………………ふ。ふふ……っはははははは……!」




 治りかけの喉から笑い声が漏れた。


 両目、両耳から血が流れる。流れた血は、肌の上で焼かれてすぐに蒸発する。


 彼女の目には、全てが見えていた。それによって全てが分かった。


 己のことも、天火のことも、夜魔のことも、永劫の夜のことも、そして世界そのもののことも。




「っはははははははははははは!! あははははははははっはははっはあああははははははッ!!!!!」




 ベイベルは嗤った。ただひたすらに嗤った。これが嗤わずにいられるか、と思った。




「カナァァァァァァァァァァァアアアン!!!!


 お前は間違っているぞォォォォォォォォォォ!!!!」




 天火は神からの贈り物という。それを自分自身も信じてきた。疑いなく信じたからこそ、神を呪ったものだ。




 しかし、火は何かを燃やすことによって成り立っている。燃える時、そこには何かが燃料・・になっている。




 そして、燃えればそこに灰が出来るではないか。




 そしてもし、燃やされた何かが怨嗟の念を抱いたとすれば?




『それでも、その力を人のために使っていれば!』




 彼女は確かにそう言った。今思い返すと、なんと皮肉なことだろう。あの時も、正しいのは自分で、間違っているのは彼女の方だったのだ。


 胸がすくような気持ちだった。ようやく自分が何者か知ることが出来た。


 今でも、人への憧憬、人への疎外感、サラへの愛情、カナンへの嫉妬……それら全てがないまぜになって、胸の中で猛り狂っている。


 しかしそれも、もう終わるのだ。ベイベルは修復された右手を首無しの夜魔へと差し出した。意中の男性を踊りへ誘うように。いや、実際、それは彼女がずっと待ち望んでいたものだったのだ。




「ようやく来てくれた……待ちわびたぞ、我が想い人、運命よ。


 さあ、わたしを抱き締めてくれ」




 少女のように陶然とした表情のまま、黒炎の魔女は首無しの夜魔の、真一文字に裂かれた口の中に取り込まれた。


 身体に闇が絡みつく。全身の亀裂から漏れる天火が内壁を焦がすが、その内壁もすぐに再生する。全身を覆った繭は、夜魔らしからぬ、生身の肉のような手触りだった。ぞっとするような感触、怖気の立つような温度であるはずなのに、彼女は少しも苦には思わなかった。


 これで、長い長い苦しみから解放されるのだから。


 人である、という苦しみから。




(これでようやく……本当の“怪物”になれる……)




 意識を手放す直前、彼女の耳は最後の歌声をとらえていた。正確には、歌声の中に混ぜられた異言。それは確かに、人の言葉を使っていた。




◇◇◇




『来たれ、来たれ、熟したる果実よ。


 我ら汝を想ひて 昼に夜に焦がれんばかりなり。


 来たれ、来たれ、エデンへ来たれ。


 我らの愛しき 天使たちよ』

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