目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

【断章/梟華追憶―闇渡りのダリア】

 煌都ラヴェンナを出発してから早三週間。救征軍は、辺獄に踏み入る前の最後の補給を行なっていた。


 小さな燈台を戴く小村の側には、村の規模には不釣り合いな広大な葡萄園が広がっている。近くに大きな湖があり、そこから水を引いているのだ。彼らはその湖のほとり、ちょうど葡萄園の対岸に逗留していた。


 救征軍は大きく五つに分かれている。カナンのいる本隊を中心に、斬り込み役の前衛、補給と殿軍の後衛、及び側面防御の左右両翼である。



 闇渡りのアブネルは、その前衛部隊の指揮官という大役を与えられていた。



 当初、彼はその任を断った。


 確かに自分は闇渡りの軍勢を率いて戦い、部下から「将軍」と呼称されたこともある。統治そのものには全く無頓着だったサウルに代わり、つたないながらも全体の統括を行っていたのも彼だ。


 だが、所詮は煌都の猿真似に過ぎない。それは彼自身が一番良く理解している。ましてや一度は剣を向けた相手に軍を任せるなど、闇渡りの常識からは考えられない。


 最も、そんな古い常識が通用しないのがカナンという娘だ。断ったら断ったで、しつこく食い下がってくることも経験済みである。


 だから一旦は受けると答えたが、こうして全軍が足を止めるたびに、アブネルもしつこく「解任してくれ」と嘆願していた。



「駄目です」



 と、カナンはにっこり笑って言う。切り株に腰かけたアブネルは呻きつつ肩をそびやかした。


 補給地から補給地への間に起きたことや、必要な物資等々を聞くためにも、カナンはたびたび馬を走らせて各部隊を回っていた。これはその一環である。


 アブネルは毎度毎度「これが最後」と釘を刺してから報告するのだが、最終的にはやはりカナンの「駄目です」の一声で申し出を却下されてしまう。


「いい加減に聞き入れてもらいたいな。俺は到底、貴女の期待に応えられるほどの器じゃない」


「そんなことはないですよ。前衛を任せるにあたって、貴方以上に適した人を私は思いつきませんでした」


「過大評価だ」


「貴方こそ、過小評価です」


 ふぅ、とアブネルは溜息をつく。口喧嘩ではどれだけやっても勝ち目が無さそうだ。


 やれやれと首を振った時、ふと、対岸に植わっている葡萄の木々が目に入った。燈台の光に照らされた葡萄園はどこか幻想的で、まるで彼岸の光景を覗いているような気分になる。湖面を風が走ると、さざ波と一緒に果実の甘い匂いが吹き寄せ、嗅覚をくすぐっていった。




 ――葡萄にだって花は咲くんだよ。知ってたかい?




 記憶のどこかに沈んでいた言葉が、ふと浮かび上がってきた。


(あいつも、頑固な奴だった……)


 目の前に立っているカナンを見ていると、昔の知人の姿がどうしても思い起こされた。長らく……そう、長らく忘れていた彼女の姿が、カナンと重なって見えた。


「どうか、されましたか?」


 カナンが少し身をかがめて尋ねる。アブネルは何でもないと言いかけ、途中で「いや」と訂正した。


「少し、昔の知り合いのことを思い出してな。貴女に似て、頑固な女だった」


「……娼婦の方、ですか?」


「いや、戦士だった。女だてらにな。全くいないってわけではないが、まあ、珍しい方だ」


 瞼を揉みしだくと、その裏側に、かつて自分の隣にいた女の姿が浮かび上がった。言葉を積み重ねるごとに、その輪郭は次第に明確になっていく。


 アブネルは頭を撫でた。今や完全に禿頭になってしまったが、その一部には生涯消えることのない生々しい傷跡が残っている。どうしてこんな大事なことを忘れていたのだろうと、自分に腹が立ったほどだ。


「……俺は昔、一つの部族を率いていたことがある。俺自身の無知無能のためにそれを潰し、何人も死なせてしまった。

 せっかくだ。その経緯も含めて、いかに俺が指揮官に向いていないか説明してやろう」


 聞かせてください、と促しながら、カナンは側にあった木の下に座り込んだ。完全に長居する構えだった。


 アブネルは、彼岸の葡萄を眺めながら、ぽつぽつと語り始めた。




◇◇◇




 まず、闇渡りのダリアについて話しておこう。


 さっきも言ったが、闇渡りの女の中にも、ごく一握りだが戦士の道を選ぶ者がいる。並大抵の道ではない。俺たち男が味わうよりも、よほど過酷な経験を積むことになる。武芸にせよ技術にせよ、一流以上のものを求められるからだ。そうでないと生き残れない。


 孤独で、過酷で、なおかつ残酷な道だ。


 闇渡りのダリアは、そんな試練を潜り抜けた、数少ない一人だった。


 初めて会ったのは、俺もあいつも二十歳くらいの頃だった。その歳まで生き延びたということは、それだけで一流の戦士という証になる。当時、俺の部族は若衆ばかりで、威勢ばかりのひよっこだらけだった。もちろん俺も含めてな。


 俺たちはダリアを傭兵として雇った。報酬の他に、あいつに一定の裁量を預けること、決して寝首を掻かないこと……俺たちにとっては破格の条件だった。


 あいつを加入させることには、それくらいの価値があると思っていた。実際、戦力が大きく増したことは間違いなかった。何度かあった部族同士の抗争でも、あいつが一人で暴れまわって勝ちをぎ取ってくることがしょっちゅうだった。


 名は体を現すというが、あいつは黒い……そう、葡萄ダリアの房のように綺麗な髪をしていた。本当は短く切った方が良いんだが、そこはあいつの裁量次第だった。髪が木に引っ掛かって、その瞬間に矢で射られたとしても、それはあいつ自身の責任だ。


 髪の毛くらいなら、俺たちだって平気で受け入れられたんだ。ところがあいつときたら、闇渡り同士の抗争は躊躇わない癖に、盗賊稼業となると途端にやる気を無くした。都軍に護衛された商隊を襲おうって時も、あいつは頑として首を振らなかった。


 基本的に、襲うなら商隊の方が旨味が大きい。俺たちが勝てる程度の部族など、ほとんど出汁を取られた鶏みたいなものだ。搾り取ったところで大して得るものは無い。食料にせよ金にせよ、煌都の人間の方が多く持っているのは当然のことだ。



 そういうわけで、俺たちは勝ってる割に飢えていた。



 部族の多くの者は、そのことに常に不満を抱いていた。中には十代の小僧も混ざっていたからな。食い盛りの餓鬼には、ダリアの哲学は良く分からなかったらしい。


 自己弁護するわけじゃないが、俺はあまり気にしていなかった。それどころか、ダリアの姿勢を好いてさえいた。


 面白い奴だと思ったよ。食う、殺す、犯すくらいしか能の無い闇渡りの中で、信念ってやつを持ってる人間は珍しい。ましてや、ダリアは女戦士だからな。


 女だてらに戦士になる奴は、腕が伴っている分、並みの闇渡りよりも凶暴で粗野になる。何度かそういう手合いと戦ったことがあるが、夜魔なんぞより何倍も恐ろしかったよ。


 ダリアには、そういうところが無かった。口は悪いしすぐに手も出たが、キレたところはほとんど見たことが無い。何事にも加減ってやつを心得ていた。闇渡りの格言に忠実で、曲がったことには手を出さない。年下の餓鬼に、狩りや戦い方を教えてやることもあった。最も、はねっかえり共はまともに聞こうとしなかったがな。


 俺は自分が悪さをする分、あいつには綺麗なままでいてほしかった。泥沼に頭まで浸かっていても、左手にはめた金の指輪だけは汚したくなかった。それで俺自身が溺れることになってもな。



 だが……それはどこまでも甘ったれた考えだった。俺も、ダリアも、な。



 どれだけ綺麗に見せかけたところで、俺たちは所詮闇渡りだ。あいつはそのことを、他の誰よりも強く感じていたことだろう。


 それに、結局は食っていかないと話にならない。いつまでも泥沼から腕を突き出していることは、俺もあいつも出来なかった。


 赤字と空きっ腹が限界に達した頃、俺たちはどいつもこいつも幽霊みたいになって森を彷徨っていた。ダリアも例外じゃない。それでも、あいつは自分の在り様を変えようとはしなかった。




 そんな時だ。俺たちの前に、あの男が現れたのは。




 森の中に、火事みたく燃え盛っている一帯があった。戦闘があった証拠だ。おこぼれでも何でも良いから、俺たちは食い物なり戦利品なりを得る必要があった。


 ひっくり返った荷馬車や人間の死骸が無秩序に転がり、燃えていた。その火の中心で、俺はあの男と……闇渡りのサウルと出会った。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?