何もかもが台無しになるまで、十秒と掛からなかった。あの矢の雨の中で生き延びられたのは、俺の部族の半数程度だったと思う。その生き残りにしても、瀕死の矢傷であったり、脚を縫い付けられて動けなくなった奴ばかりだった。
当の俺も、その一人だった。気が付くと右の太腿に矢が刺さっていた。ダリアも左肩をやられた。
無傷だったのは、サウルただ一人だ。
気が付くと俺たちは、ニヌアの都外巡察隊によって四方を取り囲まれていた。廃屋の屋根に隠れていた連中は、俺たちが動きを止めるのと同時に矢を放って仕留めに掛かったんだ。
そんなこと、最初から俺たちの襲撃を想定してなきゃ出来っこない。
「どういうことだ、サウル!」
俺は思わず怒鳴っていた。
奴は、いつも通りの不敵な笑みを浮かべて突っ立っていた。
俺たちを包囲している巡察隊士は、少なく見積もっても二十はいただろう。最初に斬った面子を含めたら、想定していた数の二倍だ。
「罠に掛かったな、野鼠共」
傲岸不遜って表現そのままの声が俺の鼓膜を叩いた。
見ると、廃屋の上に一人の男が立っていた。長身で、灰色の髪を短く刈っていたが、あまり年寄りには見えない。多分三十いくつかといったところだろう。
腰には、巡察隊としては不向きな長剣を吊るしていた。森の中ではかえって不利になりやすい得物だが、それを承知で持ち込んでいるということは、それだけ腕に自信があるってことだ。
何よりその眼光の威圧感ときたら、情けない話だが、動けなくなるほどおっかなかった。俺自身人殺しだが、奴の目は明らかに、惨たらしく人を斬り刻むことに慣れてる目だった。俺なんかとは比べものにならない。
奴は始終名乗らなかったが、俺は後になって奴の名前を知った。当時の煌都ニヌアの剣匠、名をバルクといったらしい。別名、
「近頃、この辺りを荒らしまわっている野盗は貴様らだな。全く、良くも好き勝手にしてくれたものだ」
驚いたよ。奴らは、俺たちが襲撃犯だと思い込んでいた……まあ、現に襲撃したから、言い訳は出来ないが……それ以前の犯行も、奴らは俺たちにおっ被せて同一視していた。
とんでもない話だ。こっちは襲うどころか、空きっ腹を抱えて必死になってるっていうのに、いつの間にか大悪党に仕立て上げられていたんだからな。濡れ衣で巡察隊を二十人もけしかけられたんじゃたまらない。
ましてや、その中には明らかに危険な奴も混ざっているんだ。慌てふためいて、頭がどうにかなりそうだったよ。
そんな湯がいたような脳味噌でも、一つだけ分かった。奴らは勘違いをしている。連中が本当に腹を立てるべきなのは、サウルただ一人なんだってな。
もちろん、そんな言い訳が通じるはずもない。分かっていたから、言わなかった。俺には他に言うべきことがあった。
「……逃げろッ!!」
我ながら酷い指示だ。
俺に言われるまでもなく、生き残った連中は三々五々に逃げ散っていた。
もちろん動けない奴はそのまま捨て置かれる。俺にしても、負傷者を助けるだけの余裕なぞ無かった。傷付いた脚を引き摺って逃げるので精一杯だ。
巡察隊士共は、仲間を殺された怒りを散々に叩きつけてきた。動けない者だろうと容赦無く斬り伏せ、逃げる背中に矢を射かける。それが任務とはいえ、流石に死体の腹を掻っ捌くのはやり過ぎだ。
奴らの目が俺に向けられるのも、すぐだった。三人の巡察隊士が剣を振りかざして襲い掛かってきた。
もしダリアが助けに入ってくれなかったら、今俺はここにはいない。
片腕が使えないにも関わらず、あいつの鞭捌きは神がかっていた。一人の顔面を叩いて怯ませたと思いきや、ほぼ同時にもう一人の利き腕を打ちすえ武器を手放させる。
そうして無力化した二人を伐剣で即座に刈り取り、最後の一人と斬り結んだところで、俺が背中に剣を突き立てた。
「ずらかろうアブネル! おれたちは騙されたんだ!」
気がつくと、サウルの姿はどこにも無かった。無傷にも関わらず、奴は真っ先に戦線を離脱していたんだ。
その時点で既に、生き残っている奴の方が少なかった。俺とダリアと、あと数人を数えるだけだ。
ダリアは俺の肩を支えようとした。馬鹿な奴だ、そんな有様で逃げられる訳がない。共倒れするのは目に見えている。
何より、ニヌアの剣匠がすぐそこまで迫っていた。
覚悟を決めるしか無かった。
「……俺は、いい。お前は生き残った奴らを守ってやってくれ」
格好をつけ過ぎだったと思う。それに、別段格好良くもない。女に助けられた身が言うような台詞じゃないな。
あいつは躊躇ったが、まだ生き残りがいるのも確かだ。それにあいつだって、もう俺が助からないものだと覚悟していたのだろう。当の俺自身が、死以外の結末を想像出来なかったんだからな。
「行けッ!!」
ダリアは俺の言葉を聞き入れてくれた。背後から「一人も逃すな」と酷薄な声が聞こえた。森の中に消えたダリアたちを追って、巡察隊士が何人も駆け込んでいった。
剣匠バルクが、動けなくなった俺のすぐ近くにまで来た。俺は自分でも訳の分からない怒号を上げながら、奴に斬り掛かった。
死に物狂いだったせいもあるだろうが、あの当時の俺としては、良くもあれだけ喰らい付けたものだ。バルクは力量に対する自信からか、他の隊士に手出しをさせなかった。
打ち合えたと言っても、せいぜい十合足らずだ。奴の剣には妙な細工が施されていて、一手重ねる毎に剣線が読み辛くなっていった。
ちょうど十一合目で肩をばっさり斬られ、動けなくなった。
「愚か者が。私一人を足止めしたところで、貴様の郎党は既に討たれておるわ」
奴の言葉の通り、背後の森の中からは一定の間隔で悲鳴が聞こえてきた。
全身から力が抜けた。大量に血を流したせいだろうが、それ以上に傷口から魂が抜けていくような感じがした。俺の持っていたもの、見ていた世界の全てが、ガラガラと音を立てて崩れていった。
そして多分、俺自身の存在もすぐに消えて無くなると、そう思った。
だが、バルクはそれを許さなかった。
「何やら死にそうな顔をしているな。貴様らの肌はまるで屍蝋のように醜い。
一枚剥いだら、どんない
◇◇◇
「アブネルさん……?」
カナンの心配そうな声が聞こえたが、アブネルはしばらく、頭に手を当てたまま動けなかった。
身体の中で、二種類の血液が暴れ回っているのを感じた。一つは憎悪によって加熱された溶岩のような血潮。もう一つは
その二つがぶつかり、のたうち、一度裂かれた傷口を突き破らんばかりだった。
「…………いかんな、どうも。ずいぶん昔の話なのに、まだこんな有様だ」
「……それだけ、受けた傷が深かったということです。ごめんなさい、辛いお話をさせてしまいました」
カナンは立ち上がろうとしたが、アブネルは「待ってくれ」と言った。懐から革の水筒を取り出して、中に詰めてあった火酒を一口含んだ。酒気が血管を伝わり、怒りと恐怖からくる動悸を鎮めた。
「ここまで話したんだ。最後まで語らなければ、あいつらに怒られる。それに、貴女には……ダリアのことを知っておいてもらいたい。あいつはきっと……」
◇◇◇
バルクは俺を殺さず、ずたずたにこそしたが、筋は切らなかった。森の中まで引きずっていくためだ。
供の巡察隊士は四人だけで、他の連中は全員、俺の仲間を狩りに行っていた。そいつらが帰ってこなかった。だからあいつらは、族長だった俺を見せしめにすることで、生き残りをおびき寄せようとしたんだ。
最も、それは理由の半分に過ぎない。もう半分の理由は、単に俺を痛めつけたかっただけだろう。バルクは俺の傷口に粗塩を擦り込んだ。「清めの塩だ」とか何とか言いながら……いや、すまん。詳しく話すのはよしておこう。
奴らもまさか、一度逃げた連中が戻ってくるとは思っていなかったはずだ。巡察隊なぞをやっていたら、嫌でも闇渡りの習性というやつが理解出来るようになる。そして時として、自分でも気付かない内に、闇渡りと同じようなものになってしまうことがある。
暗がりの虎を見つめてはならない、という言葉がある。誰が言ったかは忘れたが、良い警句だ。じっとその虎と向き合っているうちに、いつしか自分も虎と同じもののように思えてくる。
しかし、人はどこまで行っても人だ。虎そのものになることは出来ない。
煌都の奴らがいくら闇渡りに近い存在になったとしても、所詮まがい物に過ぎないんだ。
ましてや闇渡りの中の闇渡り、血塗れの人喰い梟の前では、ただのごっこ遊びだ。
「ずいぶん二枚目になったじゃねぇか」
頭上から、滴り落ちる血潮と共に、あいつの
全員が一斉に真上を見上げた。ひときわ高い木の枝に、サウルが傲然と立っていた。黒い外套は赤く染まり、幹にはたらふく血を吸った伐剣を食い込ませている。
そして両手からは、合計で九つの首をぶら下げていた。
「なぁ煌都の旦那、捕虜交換といこうぜ」
ぼろぼろと放り投げられた九つの首が、バルクの肩や頭を叩きつつ地面に落ちた。後ろにいた俺からは奴の表情は見えなかったが、恐らく額いっぱいに血管を浮き上がらせていたことだろう。
「そいつを殺せ」
だが、バルクの命令が実行されるより先に、飛んできた鞭が巡察隊士の首を締めあげていた。次いでダリア本人が叢の中から飛び出し、まだ体勢の整っていない敵を一人斬り倒した。
その混乱を逃すサウルじゃない。あいつは枝の上から一歩踏み出し、そして……飛んだ。
梟ってやつは、他のどんな鳥よりも森の中で飛ぶことを得意とする。その大きな目で遥か彼方から獲物を見つけ、物凄い速さで滑空しながら木々をすり抜けるんだ。
人が鳥のように飛んでくるなんざ、巡察隊の連中は思いもよらなかっただろう。一度目の滑空で一人斬られた。バルクが反撃したが、それが届くより先にサウルは再び飛翔して木の陰の中に隠れていた。
「ちょろちょろちょろちょろと嗅ぎまわられて、俺もいい加減にうんざりしてたんだ」
サウルは確かに俺たちを嵌めたが、実は嘘は一つも言っていない。あの廃棄工業区に旧時代の遺産があることは確かだし、現に巡察隊の連中もそれらを掘り出していた。
だが、何よりも一番価値のある物は、巡察隊や俺たちが到着する遥か昔に、サウルの手によって回収されていたんだ。
「援軍を期待したって無駄だぜ。嵩張るから置いて来ちまった」
ダリアに襲われていた四人目の背後に、サウルが降り立ち剣を突き立てた。
「あとは、旦那一人だぜ」
梟雄、という言葉があるそうだな。だとしたら、サウルはさしずめ梟王といったところか。パルミラで軍を起こす以前から、奴には梟という印象が付きまとっていた。他の連中にも聞いてみるといい。
その印象を決定づけたのは、間違いなくあの武器……
「……最初から、我々を全滅させることが目的だったのか」
サウルは嗤いながら「御明察」と言い、手をパンパンと叩いた。
「手前らはネズミを罠に引き込んだつもりだろうが、そんな見え見えの悪意じゃ俺の裏を取ることは出来ない。この茶番劇が俺の手の平から出たことは、一度たりともありゃしねぇんだよ」
あいつは唾を吐いた。そしていくらか苦々しげに「いっそ退屈なくらいにな」と言い添えた。
この時俺は全てを悟った。サウルが俺たちに接近したのは、囮を作るためだったのだと。
いくらあいつでも、合計で四十人の巡察隊士を一度に皆殺しにするのは不可能だ。だが、群れの中に紛れ込んでしまえば、巡察隊側は誰が真の敵なのか分からなくなる。弱小部族を蹴散らして、意気揚々と落ち武者狩りに興じている連中を各個撃破するなど、あいつにとっては朝飯前だ。
腹は立たなかったのかって? 正直、あまり立たなかったな。あいつの言う通り、あいつは俺たちを上手く使った。俺たちは下手を打った。それだけのことだ。
何より、その時の俺は激痛やら混乱やらで、まともに頭を働かせることが出来なかった。
ただ、一つ不可解なことがあった。俺の部族を追いかけていた連中を全滅させた時点で、ニヌアの巡察隊は崩壊したも同然だ。わざわざ残りの五人まで殺しに来る意味は薄い。もちろん、サウルだからどうとも言えないが……だが、余計な労力であることに違いは無い。
「な、何故……」
思わず、そんな言葉が口から出ていた。
それに対して返ってきた答えで、俺はもう一度ひっくり返される破目になった。
「別にお前なんぞ見捨てても良かったんだがな。その半端女にどうしても助けてやってくれって縋り付かれてよ。
だから、この仕事が終わったら、そいつには俺の女になってもらう」