「ダリアぁ!!」
ぼろぼろの身体のどこからあんな声が出たのか、今でも分からない。だが、怒鳴らずにはいられなかった。サウルに騙されたことについては、怒りの感情は無い。しかしダリアに対しては、俺は確かに怒っていた。
そして誰よりも、不甲斐ない自分自身に対して。
あいつは顔を逸らして「すまない」と呟いた。
「いつまでも半端者でいることに意味なぞ無ぇよ。腹括るには丁度良い機会だ。そうは思わないか?」
顔が見えなくても分かった。あいつが悔しそうに歯を食いしばったことくらい。
俺は知っている。あいつがどれほどの覚悟と忍耐で
あいつは、己が望む己であるために、全てを賭して生きてきた。そういう女で、かつ戦士だった。どちらか片方が欠けてしまっては意味が無い。そのどちらかを捨て去ってしまったら、それはもう『ダリア』じゃない。
「お前はそれで……!」
それで良いのか、と言おうとした。だが言い切る前に、俺の言葉はバルクによって遮られた。
「私の頭ごなしに、ずいぶん破廉恥な話をしてくれる。やはり貴様らは獣と同程度よな」
サウルとダリアの二人に挟まれてなお、バルクは焦燥を現さなかった。ただ、憤怒の念だけは、ほとんど熱気のように強く発せられていた。俺もダリアも、そのあまりの激しさに固まってしまったほどだ。
だが、あいつは微塵も緊張を見せなかった。いつもと同じ口調と表情で、バルクを嘲笑った。
「黙れよ、
先にキレたのはバルクの方だった。力強い踏み込みと共に、一瞬でサウルの立っている場所まで接近する。
怒りに身を任せた突進は、だがあっさりと回避された。あいつにとって、頭に血の昇った人間の攻撃を見切ることなど、造作も無いことだった。バルクを煽ったことも、相手の動きを単調にするための狙いがあったのだろう。
最小限の動きで刀身を避けると同時に、サウルは斬り返した。だが、さすがにそれで仕留められるほど
あの時、恐らく奴も、俺と同じ違和感を覚えたはずだ。
先に種明かしをしておくと、バルクの剣には特別強く光を反射する鉱物が埋め込まれていた。そいつが反射する光は、俺たち闇渡りの鋭敏な目を強く刺激し、幻惑する。サウルが後退したのは、そんな剣と打ち合うことの危険性を意識したからだろう。
そして考えたことだろう。いかに、あの奇剣の特性を無効化するか。それだけ繊細な扱いを要する剣であれば、当然操作にも細心の注意を払う必要がある。
だから、サウルは煽った。
「剣匠が聞いて呆れるぜ。そんな玩具で人を斬ろうなんざ、いかに
あいつの強み……悪意とは、視野の広さの差からきている。あいつは常に敵より多くを見て、多くのことを考えている。敵を嵌めるための策謀を。怒りや恐慌によって視野を狭めた人間ではサウルに勝てない。
そして、言葉を使って揺さぶりをかければ、相手をより一層の視野狭窄へ誘うことが出来る。一対一の限られた状況でしか使えない技術だが、相手にすればあれほど嫌らしい敵もいないだろうな。
その上、今は曲りなりにもダリアと共闘している形だ。考える時間はいくらでもある。サウルが挑発している後ろから、ダリアはナイフを投擲した。
「小癪な」
だが、ニヌアの剣匠は、そう簡単に意識を途切れさせてはいなかった。
バルクの目が、俺とダリアをとらえた。あいつが身体を強張らせたのが分かった。
それでもダリアは戦いから逃げようとしない。得物の柄に手を掛ける。
まさに目にも止まらない速さで鞭が飛び、剣匠の剣に絡みついた。そのまま引っこ抜けるかと思ったが、逆に鞭が巻き取られ、捩じ切られる。それでも一瞬動きが止まった。その隙を見逃さず、サウルとダリアはほぼ同時に突っ込んだ。
二人とも練達の戦士だ。並みの男では決して切り抜けられない。
しかし問題は、バルクが並み以上の剣士だったということだ。少なくともあの時点では、確実に二人よりも格上の存在だったろう。
二人の剣が届くより先に、バルクはダリアに向かって斬り返していた。サウルに背中を向けるという危険極まりない行為。しかし、剣が合わさった次の瞬間、奴は刃と刃を絡ませてダリアを振り回した。ちょうど、突進してくるサウルの進路と重なるように。
サウルもサウルで、ダリアごと刺し貫くことに躊躇いは無かっただろう。だが、押し飛ばされたダリアとぶつかったら、その狙いもご破算だ。
逆に、二人揃って串刺しにされる危機に陥った。
あいつらは、さすがに判断が早かった。どちらが先にやったかは分からないが、互いに互いの身体を突き飛ばして硬直を解く。しかし、攻め手のはずが受け手に回らされている。
「チッ」
サウルの舌打ちが聞こえた。
だが……使い始めたばかりで、恐らく奴もそこまで気が回っていなかったのだろう。あの時まだ、
あいつは一旦後退して仕切りなおそうとした。再び
「ぬぅッ!!」
ニヌアの剣匠は、信じられないような怪力でサウルを地面へ叩きつけた。まるで熊か何かが乗り移ったかのようだった。
咄嗟に鋼線を巻き取っていなかったら、右肩を脱臼させられていただろう。
それでも、さしもの奴も堪えたようだ。地面には木の根がいくつも走っている。そこに当たるよう狙われたのだろう。あいつの口から息の逃げ出す音が聞こえた。
「死ね」
逆手に持ち替えた剣がギラリと光った。だが、それがサウルに届く直前、真後ろからダリアが斬り掛かった。もちろんまともに剣を合わせることも出来ず弾き飛ばされたが、サウルが剣匠の下から逃れる余裕は作れた。
あいつも悟ったことだろう。ことこの相手に対しては、
何より、自分の煽りに対して、バルクが全く馬脚を乱していないこと。サウルにとってはそれが何よりの懸案事項だったはずだ。何せ普通にやったところで勝ち目なぞ無いからな。戦いというものをとことん割り切って考えていたあいつは、逃げることだって勘定に入れていたはずだ。
現に、その瞬間こそ……ダリアが必死で食らいついていたその瞬間こそ、姿をくらますには最適な時間と考えたことだろう。
だが、サウルはその時点ですでに、ある疑問を解こうとしていた。それを教えてくれたのは、戦いが終わったあとのことだ。
「…………おい」
ダリアの攻勢をいなした剣匠が振り返る。その顔面に、あいつの蹴っ飛ばした生首が当たった。別段痛くもなければ、命の危機にもなりえない、つまらない嫌がらせだ。
だが、防げなかった。防がなかったんじゃない、確かにバルクは気付いていなかった。
「下らん真似を……!」
その行為は、余計に剣匠の怒りを燃え上がらせた。だが、俺はあの瞬間、確かにサウルが唇を釣り上げたのを見た。
「……そうか。手前、そういう奴だったんだな」
バルクが斬り掛かる。サウルはそれをあっさりと回避した。もう一撃とくれば、またひらりと身を避ける。受け流す。
状況を見ていることしか出来なかった俺でも分かった。バルクの攻め手は、はっきりそうと分かるほどに単調だった。
考えてみれば、今までの経過でサウルとダリアがやり込められたのは、いずれも攻めた時だけだ。逆に、向こうから仕掛けた攻撃は、ほとんど二人を補足出来ていない。
「お前、虫ケラ決定だわ。脳味噌ついてねぇもん」
剣匠バルクは、確かにキレていたんだ。サウルの煽りは奴から冷静さを奪い、攻め方は単調で粗雑になった。それが、二人が何とかやりあえていた理由だ。大ぶりで力任せな攻撃なら、どれほど速く鋭くとも見切ることが出来る。
だが、防御となると話は違う。奴は頭に血を登らせていたが、命の危機に対しては直感でやり過ごしていた。到底馬鹿に出来たもんじゃない、何せニヌアの剣匠殿だからな。潜ってきた修羅場や積んできた鍛錬も並大抵の物ではなかっただろう。それらが生み出す経験則は、守護霊みたいにぴったりと寄り添って、バルクを護っていた。
「何だってこんなところで闇渡りを苛めてたのか分かったぜ。
手前、煌都で相手にされなかったんだろ? いくら腕が良くたって……うぉっと……はは、そりゃあ継火手の女の子からしたら、あんたみたいなキレるオッサンは嫌だわなァ!」
それにしても、あいつは本当に嬉々として人を馬鹿にしてたなぁ……。
「だから守火手にもなれねぇで、弱い者苛めに精を出してたんだろ!?」
「貴様ァ!!」
……サウルだって完全に避け切れてるわけじゃない。細かい傷や、中にはそこそこ痛そうな一撃も食らっていた。だが、あいつは張り付けたような笑顔でバルクを罵倒し続ける。
「がら空きだ!」
剣匠の意識がサウルに集中したのを見計らって、懐に潜り込んでいたダリアが剣を振るった。背中に一閃を浴びせるが、恐らく見た目ほどの傷ではない。直前で回避したのか、あるいは骨にでも当たって弾かれたか、ともかく致命傷とはならなかった。
だが、その一瞬、サウルから視線が外れる。奴の投擲した剣を、今度もバルクは直感で避けて見せた。
「馬鹿がッ!!」
得物を捨てたサウルに、目を血走らせた剣匠が斬り掛かる。
「馬鹿は手前だ」
真上から振り下ろされたそれを、サウルは素手で受け止めた。正しくは、両手に巻き付けた
「殺れッ!!」
得物は抑え込んだ。あとは背後からダリアが剣を突き立てれば、それで終わる……はずだった。
だが、サウルは一つ誤算をしていた。バルクを怒らせて視野狭窄に陥らせるために、あいつは散々に剣匠を罵った。
普通の人間であれば、あの状況から逆転するなど不可能だろう。だがバルクはまともではなかった。何より、サウルは奴を
「舐めるなああああああああああああッ!!」
バルクの憤怒は、サウルの想定を上回る力で吹き荒れ、奴を無理やり剣から引き剥がした。身を避けようとするが、先に前蹴りがあいつの腹を穿っていた。
サウルが吹き飛ばされる。バルクが自由になった剣をかざしてダリアに向き直った。
あの時の剣匠は、まるで怪物みたいだった。最強の夜魔、ネフィリムにすら見えたよ。
闇渡りに虚仮にされたのが、それほどまでに気に入らなかったのだろう。奴の倨傲を深く傷つけ、その恨みを晴らさないままでは到底いられなかったのだろう。
そんな傲慢の化身を前に、それでもダリアは剣を打ち付け……それが折られ、あいつの身体を深く斬り裂いた。
華が咲くみたいに血が噴き出し、怪物の顔を赤く染め上げた。
それでもあいつは倒れなかった。ただ一瞬、俺の方に顔を向けた。黒真珠みたいな目が、最後の光を俺に投げかけた。そう、確かに、俺に向かって……。
――――無駄にするなよ、と。
残った力を振り絞って、あいつはバルクの腕に噛みついた。訳の分からない怒声をあげた怪物が、二度、三度とダリアの身体を斬り付けた。俺の目の前であいつの身体が震え、影人形のように踊った。
その身体に、最後の一刀を突き立てたのは、俺だ。折れた伐剣の切っ先であいつの背中越しに、あいつもろとも化け物を串刺しにした。
だが、所詮は死にぞこない二人の最後の悪あがきだ。折れた剣はわずかにバルクの腹の皮を裂くにとどまった。
物凄い顔だったよ。鬼の形相ってのは、ああいうのを言うんだろうな。もう何もかも出し切って倒れる俺たちを見下ろしながら、罵声と剣を同時に振り下ろそうとしていた。
その首筋を、梟の鉤爪が捉えた。
「捕まえたぜ……」
バルクは化け物のような人間だった。奴の怪力にせよ、痛みを痛みとも思わない倨傲にせよ。だが、肉体は人間のものだ。そして人間の首は、どんな練達の戦士であろうと鍛えられない。
サウルは熟練した屠殺人のような手捌きでバルクを振り回した。首に鋼線を巻き付けられているんだ、どんなに頑張ったって踏ん張れない。空気だって吸えない。熟して落ちる寸前の果実みたく、奴の顔が真っ赤に染まった。
そんな有様でも、なおもバルクは暴れようとしたが、サウルがそれを許さなかった。右に左に揺さぶり、無茶苦茶に振り回される剣を躱しながら、次々に剣撃を叩き込んでいく。その間、奴は一言も喋らなかった。
遂に、バルクが引き倒された。まだ剣から手を離そうとしなかったが、サウルは手の甲の骨を踏み砕き、百足を殺すように何度も何度も伐剣を叩きつけた。一体いつ、バルクが息絶えたのかは分からない。奴の最後の姿は、それが人だったと言われても分からないような惨状だった。
ニヌアの剣匠は死んだ。
そしてダリアもまた、死の暗い淵に沈みゆこうとしていた。