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【断章/梟華追憶―華は散り、梟は飛び立ち】

 俺は必死になってあいつの名前を叫んだ。何故そこまで声を張り上げたのか、その時は分からなかった。俺とあいつはただの仕事仲間で、お互いいつ死んでも当然だと思っていた。


 だが、いざあいつの身体から血が流れ、熱が抜けていくのを感じると、否応なしにあいつの死を意識させられた。


 俺だって相当酷い有様だったのに、痛みなぞまるで気にならなかった。それよりも、あいつの少しずつ冷たくなっていく身体を抱き寄せている方がよほど大事に思えた。俺の消えかけの命を少しでも分けてやれるなら、そうしたかった。


 あの時、初めて知ったんだ。俺にとってあいつがどれほど大事な存在であったか。惚れた腫れたの間柄じゃなかったが、俺はあいつに、人間としての綺麗な部分を全て預けていた。悪を成さねば生きていけない俺たちに、善悪の指標を与えてくれたのがあいつだ。



 正しさとは何か。戦士であるとはどういうことか。背筋を伸ばして生きるにはどうしたら良いか……。



 ダリアはいつも、あいつ自身の生き方を通して、それを俺たちに教えてくれていたんだ。たとえその生き方がどれほど己を責め苛んだとしても、あいつは決して逃げ出そうとしなかった。


「すまない、ダリア……俺が、俺が……!」


 何から謝ったら良いか分からなかった。何もかもを謝罪しなきゃいけないような気がした。そして何より、俺自身の無力さが腹立たしくて仕方なかった。


 そんな俺を、あいつは笑いながら赦してくれた。



「いいんだよ、アブネル。いいんだ……」



 色を失いつつある唇を動かして、あいつはそう言ってくれた。口元を伝った血を、俺の服の袖が吸い込んだ。もう俺の腕は、重みを感じるほどに血にまみれていた。



「いつか、こんな日が来るって、覚悟してた……おれは、戦士だから。戦って、死ねて、安心してるんだ……」



「嘘をつくんじゃねぇよ」



 返り血を浴びて真っ赤に染まったサウルが、俺たちの目の前に立っていた。嘲るでもなく、見下すでもなく、あいつの目は珍しく真剣に細められていた。


 サウルは伐剣を地面に突き立てて、片膝をついた。「最初からこうするつもりだったんだろ」とあいつは言った。



「やってくれたぜ、全く……てっきり、戦ってる最中に野郎ごと俺を刺しにくると踏んでたんだがな。こんな形で裏切られるとは思ってなかったぜ」



 ダリアは絞り出すように笑い声を漏らした。確かに、サウルの口から「裏切る」なんて言葉を聞いたら、笑わずにはいられないさ。


「最初から死ぬ気だったな、お前」


 ダリアは、静かに頷いた。



「お前みたいなやからがのさばってるのが、今の世界だ……いつまでも、おれがおれのままでいるのは無理だって……それくらい分かってるよ」



「そうかもな。俺が言うのも変だが、そりゃあそうだろうさ。お前は上手くやった方だ」



 けどな、と言いながら、あいつはダリアの頭を掴んだ。俺は止めようとしたが、むしろダリアの方から首を突き出して睨み返した。



「世の中、結局生きたもん勝ちだぜ。お前は俺を出し抜いたかもしれないが、それで競争から転がり落ちたんじゃ世話ねぇよ。


 お前の負けだ。死んでいく奴は皆負け犬だ」



 血混じりの唾が、サウルの頬を打った。




「お前の……物差しなんかで……偉そうなこと言うなよ。


 おれは生きた。生き切ったんだ……おれが、闇渡りのダリアでいられる、ギリギリのところまで。


 お前らみたいな、獣ばっかりの世界のなかで……!!」




 サウルは乱暴にあいつを突き飛ばした。その拍子に、ダリアの口からまたも息と血液が吐き出された。



「じゃあ死ねよ、死ね死ね。とっとと死んじまえブス女。お前なんざ犬も喰わねぇ」



 ダリアは舌を出して、最後の最後までサウルを拒絶した。あいつに……後に闇渡りの王となる男に、あそこまで渋面しぶづらを浮かべさせた女は、後にも先にもあいつ一人だけだろうな。


 それから、ダリアは俺の顔を覗き込んだ。もう黒い瞳からは光が消えかかっていた。



「……そういう、わけだからさ。アブネル。おれは満足してる。


 この世界で……神様も天使もいない、この世界で、おれは…………」



 忘れてしまっていたよ。貴女に助けられるまで。どこかで忘れたがっていたからかもしれない。あの時の無力感と喪失感を。今もまだ溶け切らない、憎悪のなかにうずもれさせてしまっていた。


 あいつの姿と、最期の言葉を。




 ――――おれは、華を守ったよ。




◇◇◇




 しばらくの間、俺は気を失っていた。目覚めるきっかけになったのは、傷口を刺激する熱と、瞼を貫く光のせいだった。


 森ごと焼いてしまいそうな篝火の前に、あの男が腰を下ろしていた。鼻を突く臭いが、何を焼いているかを俺に教えた。だが、バルクや巡察隊士の死体はそのままになっている。あいつが焼いたのはダリアの身体だけだった。


 俺の手元には、ダリアの折れた伐剣が転がっていた。俺はそれに手を伸ばして、息を殺したまま起き上がろうとした。


 サウルを殺そうと思った。それが八つ当たりに過ぎないことは分かっている。奴は何度も言っていた、知恵比べだと。それに負けて、何もかもご破算にした俺が復讐しようとするなぞ、到底お門違いだ。


 だが、俺は自分の胸にぽっかりと空いた喪失感を埋めるために、ただただ絶望や怒りをそこに詰め込む必要があった。


 傷は俺の方が遥かに深い。不意打ちが効く相手でもない。それでも俺は、衝動のままに刃を振り上げた。


「やめとけ」


 振り返らず、奴は言った。そして、火酒の入った革袋を揺らして「飲めよ」と言った。


「……ふざけるな」


「ふざけてなんかいねぇよ。こんなに……こんなにマジなのは、そうそう無いんだぜ?」


「貴様のせいで何人死んだと思っている!!」


「死んだ奴が悪い」


 にべもなく言い返された。


「他人のための復讐に意味なんて無ぇよ。死んだ奴はそこで終わってる。終わってる奴は、もう何も考えない。感じることも無い。結局は、生き残った奴の自己満足だ」


 そこでサウルは、初めて俺に向き直った。


「俺とやりあうっていうなら、付き合ってやるぜ。ただしどの道手前は死ぬ。どうせ、万が一俺に勝てたとしても、手前はもう生きる気は無いんだろ?」


「……貴様には関係の無いことだ」


「あるね。大有りだ。俺は生きる気の無い奴にだけは殺されたくない。はなっから死ぬ気の奴には、ろくな戦いは出来ねぇよ。

 ……そこのブス女と同じでな」


 サウルは燃え盛る炎の方に向かって首を振った。


「……心底分からねぇ。自分のための命だろ。自分が生きているから、何もかも意味があるんだろ。何が満足だよ、ブス女め。詰まらねぇ意地張りやがって。

 おいハゲ、手前もあいつと同じ手合いか?」


 その言葉を……と言うよりも、表情か。それまで俺の抱いていた印象とは全く異なるものを、その時のサウルは浮かべていた。思わず刃に込めた力が緩むくらいに、意外だった。


 あいつは心底深く考え込んでいるようだった。眉根を寄せ、首を丸めながら、何度か握りこぶしで自分の頭を叩く。


 ブス、ブス、と罵る割に、あいつはさほど嫌そうな顔をしていなかった。むしろ……どこか親しみさえ感じさせるほどだった。


 俺には、ちゃんとした答えが思い浮かばなかった。ただ、夜空の一部を焦がすような炎と、天に昇っていく灰を眺めているうちに、ダリアの死という事実がただただ深く、俺の胸を抉った。


「あいつは……俺なんかとは、違う」


「どう違うんだ。同じ闇渡りだろ」


「違うんだ。あいつは、自分が汚れた生まれだと理解して……それでも、せめて生き方だけは正そうとしていたんだ。

 俺には、命を賭けられるものなんて、何も無い」


 俺は空っぽだった。ダリアのような信念も無ければ、サウルのように徹底した闘争心も無かった。それまでも、そう考えなかったわけじゃない。だが、自分の口から言葉にしてみて初めて、己という人間の空虚さを思い知らされた。


 まあ、あいつらみたいに強烈な個性を持った奴の方が、遥かに少数派なのは確かだろうさ。だが、だからこそあの時の……あるいは今の俺も、羨望や嫉妬を抱かずにはいられないんだ。


 そうでなければ、自分はただの空の器だと認めることになる。



「……お前は、闇渡りでいるのは、嫌か?」



 サウルは俺に、そう尋ねた。俺は正直に「分からない」と答えた。


「……闇渡り以外の人生を生きたことなんて、無いからな」


「っはは、そりゃそうか。

 けどな。俺は満足してるんだぜ」


「貴様は力があるからだろ」


 あのニヌアの剣匠を屠ったほどの男ならば、夜の世界を生きていくのは大層楽だろうと、そう思っていた。


 だが、そんな俺の考えは、あいつと行動を共にするうちに完全に消え去った。あの時でさえ、奴は「違う」と断言したんだ。



「俺だってお前らと大して変わらねぇよ。生まれた時から喋れたわけでもなし、走れたわけでもない。だが生きていれば、いくらでも巻き返しはきくってもんだ」



 ……そうだ。奴は特別恵まれた体格を持っていたわけでも、貴女のようにシオンの血を持っていたわけでもない。危機的状況下における理性、すなわち悪意以外には、特筆すべきものなど何も持っていなかった。全部、他のどの闇渡りでも手に入れられるものばかりだ。


 あいつは、技術や力を貪欲に取り込んだ。そして、取り込めば取り込んだだけ自分を強くしてくれる環境を、この真っ暗な世界を愛していた。


 ダリアとはまた違った、闇渡りの極北にいる男。それがサウルという奴だった。


 俺たちが王と呼んだ男だった。


 あいつは空に向かって手を伸ばした。




「……仮に。この世界のどこかに、俺たちを被害者だと言ってくれる審判者がいるとしても、俺はそんな判決は受け入れられない。


 もし誰かが救い手メシアを送ってくれたとしても、俺はそいつの首を叩っ斬って送り返してやりたい。


 俺は自分を害された者だと思いたくない。庇護され、権利を保証されるべき者だと思いたくない。


 俺はこの世界にあって、死ぬまで加害者のままでいたい。


 極悪人のままでいたい」




 あいつにとって、悪とは強さそのものだった。悪が何にも勝る武器であると、そう定義したのはほかならぬ世界、あるいは神そのものだからだ。


 もしもあいつが、神の再臨の日まで生き延びていたなら……あるいは、今頃地獄の底で、同じ極悪人共を募って天国に押し入ろうとしているかもしれない。


 そんな黒い情念が、あの時空っぽだった俺を生かし、そして今に繋がっている。


「結論は出たかよ、ハゲ。負け犬になっておっ死ぬか、泥水啜ってでも生き延びるか」


「……俺は……」




◇◇◇




「まあ、後は知っての通りだ」


 長話で乾いた喉に、火酒の強い酒気は覿面に効いた。アブネルは顔を顰めながら、最後の締めくくりに入った。


「俺は生き延びる道を選んだ。サウルの黒い覇気に惹かれてな。生き切ったと満足していったダリアに比べて、サウルはどこまで行っても満足しなかった。まだ生き足りない、まだ生き足りないと突っ走って、最後は戦争だ。


 俺は誰よりも近くであいつを見てきた。その内に、あいつの怒りや闘争心が、俺の空虚を埋めてくれるように感じていた。他の連中も、きっとそうなのだろう。あいつの覇気ってのは、そういう性質たちのものだ」


 肩をすくめる。ゴキゴキと関節が鳴るたびに、自分の歳を嫌でも思い知らされる。もう決して、昔のように勢いだけで突っ走ることは出来ない。


「結局のところ、俺は他人の言葉や存在が無ければ、自分の舵取りすら出来ない男だ。それに部族を潰し、名無しヶ丘では軍隊すらも潰した。三度目が起きない方が不思議ってもんだ」


 自分には人を率いる器が無い、とアブネルは思う。純粋な能力だけで見れば、このラヴェンナで合流した継火手や貴族の方がよほど優れている。所詮、サウルの腰巾着に過ぎない自分などでは、到底務まり切らないだろう。


 だが、カナンは彼が思っているのとは真逆の評価を下した。



「やっぱりアブネルさんしかいないですね」



 俺の話を聞いてたのか、とアブネルはカナンを睨んだ。彼女はそれをさらりと受け流した。


「ええ、聞いていましたよ。それで、思ったんです。アブネルさんは……闇渡りのサウルが持っていないものを持ってるから」


「サウルが持っていないもの、だと?」


 思わずアブネルは聞き返していた。あの万能の闇渡りに勝っているものが、一つでもあるとは思えない。



「アブネルさんは、誰かに対して共感出来る人です。だから、ダリアさんも貴方といることを選んだんじゃないでしょうか」



 そんなに大層なことか? と、正直なところアブネルは思ってしまった。


 だが、些細なことであるが故に意識出来なかったのかもしれない。


「私は、闇渡りのサウルが蜂起を起こせたのは、貴方がいたからだと思っています。いくら彼に覇気があるとしても、それは一時的に火を燃え上がらせる油のようなものです。

 ティヴォリでアブネルさんたちが脱走した時、つくづくそう感じました。貴方は自覚していないだけで、深く相手を理解している……だから私のことも、貴女・・って呼んでくれるんですよね?」


「……貴女には世話になったからだ」


 カナンは彼の照れ隠しを笑わなかった。重々しく、常に威圧的な雰囲気を纏っている男だが、その懐は存外に深い。恐らく、その懐の深さこそが、彼が本来持っていた特質なのだろう。


 かつてイスラが心の痛覚を失っていた時のように、アブネルもまた心の井戸に石を詰め込んできたのかもしれない。長い闘争の日々の中で、あるいはダリアが死んだその時に。


「……共感。共感、か。俺とは縁遠い言葉だな」


「いいえ。忘れていただけです。そうでなかったら……ダリアさんは、貴方を生かさなかったと思いますよ」




◇◇◇




 結局、カナンのごり押しをはねのけることは出来なかった。


 アブネルは重々しい溜息をつきながら、湖畔沿いに葡萄畑を眺めていた。もうじき出発することになるので、最後に見納めておきたかった。


 もう少しで立ち入り禁止区というところで、アブネルは踵を返そうとした。その時、水音と同時に、何かが空を切る音が聞こえた。


「よしっ! ……って、何だよ。枝だけか」


 頭上を見上げると、木の枝に登ったイスラが、悔しそうに葡萄の木の枝を回転させていた。


「何をしている、貴様」


「あんたか。見ての通り、湖に落ちた葡萄を狙ってるんだよ。落っこちたやつまで食うななんて、言われてないからな」


 そう言って、再び梟の爪ヤンシュフを投擲する。まるで子供の水遊びだ。


 だが、アブネルはそんなイスラの姿に、妙な感慨を抱いた。


 全盛期のサウルを彷彿とさせる器用な扱い方だった。まだ数か月しか触っていないにも関わらず、これほどの上達を見せるのは大抵のことではない。


 黒く塗られた鋼鉄の爪は、水面に浮かんでいた枝を綺麗に掬い、イスラの手元に戻ってきた。


「今度こそ……また外れだ。何だよ、この白い粒々は」


「そいつは……」


 見覚えのある花だった。つい先ほどまで語っていた、ある女性と縁のある花。彼女は自身の繊細な生き方を、その花にたとえていた。


「葡萄の花だ」


「これが? 地味な花だな。ってか、本当に花かよ」


 寄越せ、とアブネルは手を突き出した。もし果実がついていたら取り合いになっただろうが、幸いその枝には一房どころか一粒も生っていなかった。


 成程、確かに地味な花だった。だが、改めてそれを見てみると、ダリアの言わんとしていたことが深く理解出来るような気がした。


 そして、そんな風に誰かを思い起こし、その心を探るということこそ、自分にあってサウルに無い力なのだと思った。


「若造には、まだ葡萄の花の良さは分からんだろうな」


「何だよ、あんたは知ってるってのか?」


 アブネルは軽く唇を釣り上げた。「ああ、分かるさ」そう呟いて、イスラに背を向けた。背後で鼻を鳴らした彼が、三度梟の爪ヤンシュフを飛ばす音が聞こえた。梟の風切り音が。

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