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第五部/辺獄編

【第百八七節/予兆】

 砂漠の街道を、馬車の一団が砂ぼこりを巻き上げて猛進していた。家財道具もそこそこに、人を詰めるだけ詰め込んだそれらは、今にも崩壊しそうな有様だ。それらを牽引する馬たちも、泡を噛み汗を垂れ流している。


 だが、御者たちに「止まる」という選択肢は無かった。


 彼らの真後ろから、馬車などよりも遥かに大きな砂ぼこりを巻きたてて、巨大な虫のようなものが追いすがっていた。一見すると甲虫のように見えるが、頭部は熊のそれに差し替えられている。眼窩の中には赤い粒上の目が無数に詰め込まれていた。


 真っ黒な身体に白い紋様を走らせたそれは、不愉快極まりない金切り声をあげて馬車を押し潰そうとしていた。


「糞っ、どこまで追ってきやがるんだ!!」


 先頭の馬車で手綱を取っていた男が、忌々し気に叫んだ。


 後方を走っていた馬車の一つが自壊する。投げ出された人や物が、夜魔の巨体によってすり潰された。悲鳴に後ろ髪をひかれながらも、男は手綱を握る力を強める。


(だが、このままではいずれ……)


 この状況は、かれこれ五時間も続いている。ここまで持ちこたえられたこと自体が奇跡的だ。


「村長! パルミラの街道警備隊ってのは、本当に来るんですか!?」


 隣の馬車の御者台から声が飛んできた。男は反射的に「知らん!」と言いそうになったが、すんでのところでそれを呑み込む。


「……何としても生き延びろ! こんな所で無駄死にするな!」


 まともな答えにすらなっていないが、それでも無暗に希望的観測を言うわけにはいかない。彼自身、逃げ切れるという楽観論を捨てつつあった。


「村長!」


 切羽詰まった声に顔を上げると、前方に黒い影が浮かんでいるのが見えた。それは、大きな翼をはためかせながら、低空を這うように高速で突進してくる。


(ここまでか……!)


 だが、そうはならなかった。


 翼の影は砂ぼこりを巻き上げながら、馬車の屋根をかすめるように飛び越し、そのまま驀進する夜魔へと向かう。男はその背の上に、年端もいかない少年と少女が乗っているのを確かに目撃した。



「空に躍る者たち、風の眷属よ! 契約に従い、我が元に集え!!」



 騎上の少年の右腕に、緑色の光を放つ風がまとわりついた。彼が腕を突き出すと同時に、圧縮された空気の砲弾が夜魔へと飛び、その巨体を一撃のもとに吹き飛ばしてしまった。


「村長、今のは!」


「……私にも分からん」


 大きく旋回して戻ってきたユランが、馬車の上空でゆらゆらと両翼を揺らした。その仕草からは敵意は見受けられない。


「だが、少なくとも命拾いはしたようだな」




◇◇◇




 夜魔の追跡を完全に振り切ったと判断してから、村長は休息のために馬車を止めた。先導するように飛んでいた竜も、それに合わせて地上へと降りてきた。


 その巨体もさることながら、乗っていたのが本当に少年少女であったことに、村長は驚きを隠せなかった。他の村人も、興味半分怖さ半分といった様子で彼らを眺めている。


「先ほどはありがとう。君たちの助力が無かったら、どうなっていたことか……」


 竜から降りた少年は、人好きのする笑顔で「お役に立てて良かったです」と言った。およそ悪意や邪念といった言葉と結びつかない、天性の人懐っこさがある。これだけで村長は、彼を信じる気になってしまった。


 一方、竜の上に座ったままの少女は、その浮世離れした美貌も相まって、まるで御伽噺に出てくる妖精のようだった。話しかけられたくないのか、誰とも目線を合わせず、ただ少年の背中をじっと見つめている。


「見返り、というわけではないんですけど、良ければ少し食料を分けていただけますか? それと、水もいただけると嬉しいです」


「ああ、是非とも持って行ってくれ……と言いたいところだが、私たちも備蓄は少なくてね。大した量は分けてあげられないんだ」


「……一体、何があったんですか?」


 村長は顔を顰めた。思い出すのも苦痛だが、どうせパルミラに行けば洗いざらい説明しなければならない。今はそれの予行演習と思うことにした。


「……夜魔の大群に襲われたんだ。私の村にも曲りなりに天火はあったんだが、お構いなしだった。こんなこと、今まで一度も無かったのに……」


「天火があるのに、襲われたんですか?」


「ああ。普通の夜魔から、見たことのない奴まで、目についただけでも色んな種類がいたよ。私も、生き残りをまとめて、何とか逃げ出してくるので精一杯だったんだ。

 むしろ、これだけの人と物を運び出せたのは、上々の出来だろうなぁ」


 そう言って村長は苦笑した。上々の出来とは言うが、失った物の数は到底数えきれない。それこそ、自分たちが元々営んでいた暮らしを再び掴める可能性は、ほとんど零と言って良いだろう。


「……ところで、君たちはこれからどうするつもりなんだ?」


 少年は鳶色の髪を掻きながら、困ったように騎上の少女を振り返った。それまでずっと無表情のままだった彼女が、少しだけ口元を緩めた。


「トビアの好きなようにしたら、いいよ」


 少年……トビアは、それでもなお逡巡しているようだった。だが、次に顔を上げた時には、そこにはしっかりとした決意の色が宿っていた。


「先導させてください。パルミラの位置なら知ってますから、僕の竜を目印にしてもらったら、安全に進めると思います」


「すまない、助かるよ。村はおろか、街道でまで襲われたんだ。我々だけでは心細くてね。食料と水も、出来る限り準備しよう」


「ありがとうございます」




◇◇◇




「本当に良かったのかい?」


 離陸してしばらく経ってから、トビアは後ろに座っているサラに尋ねていた。彼女はもそもそと黒パンをみながら、こくりと頷いた。


「だってトビア、ずっとソワソワしてたでしょ? ほんとうはパルミラが気がかりだったんじゃないの?」


「……それはそうだけど」


 トビアの言わんとしていることが、サラには簡単に理解出来た。何もかも、自分をおもんぱかっているからだ。夜魔憑きである自分が煌都に近づくなど、いくら力が抑えられているとは言っても危険過ぎる。


 だが、パルミラにはトビアの知人が大勢いる。その人たちに危機が迫っているというのに、知らないふりを出来るほど、トビアは冷酷にはなれない。


「わかってるよ、トビア。だって、わかりやすいもん」


「参ったなぁ」


 聡い彼女の前では、いくら取り繕っても無駄だろう。


 村長には言わなかったが、トビアもサラも、ここしばらくの間に方々で起きた異変を目の当たりにしていた。燈台のある村や町が襲われ、街道が寸断されるところも幾度も見てきた。ここまで逃げ延びれた眼下の一団は、かなり幸運な部類だろう。


 竜の脚に吊るしたランタンが、他の避難民にも見えることを祈りながら、トビアは手綱を強く握りしめた。


 パルミラのことも心配だが、それ以上に気がかりなのは、辺獄の中へ入っていったイスラたちだ。風の噂ではもう二か月前にラヴェンナを発ったと聞いているが、今どのあたりにいるのか、知る由は無い。


(イスラさん、カナンさん……どうか、無事でいてください)


 今の自分には祈ることしか出来ない。


 そして何より、守らなければならない存在があるのだから。


「リドワン、もう少し高く飛んでくれるかい?」


 トビアが首筋に触れると、竜は「任せろ」と言いたげな鳴き声を上げ、翼を大きくはためかせた。

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