第二次救征軍が辺獄に進入して、二か月が経過していた。
広大無辺な瘴土の中にあっては、常に大量の夜魔との戦いを強いられる……わけではない。
流石に四六時中夜魔の大群と戦わなければならないような環境であれば、遠征など成立しようはずもない。実際の所、小規模な襲撃が繰り返されたり、稀に中規模の群体と衝突するくらいだ。
だが、それがいつ、どの方向から来るのかは誰にも分からない。まずその恐怖が士気を減衰させる。そして、気勢が弱まれば弱まるほど、繰り返される夜魔の襲撃は集団全体を衰えさせていく。前回の救征軍が失敗した原因の一つがそれだ。
むしろ、そのような状況に晒されながらも軍団としての体裁を保ち、深部にあたるディルムンまで到達出来たことが奇跡に等しい。エマヌエル・ゴートの特殊なカリスマが無ければ、もっと早い段階で崩壊していたことだろう。
そして今回の第二次救征軍においては、継火手カナンがその役割を担っていた。全体の士気の要であると同時に、夜魔に対する最高戦力でもある。
だが、彼女一人が全てを負うような状況になれば、結局は前回の二の舞だ。エマヌエルは一人で救征軍を監督しようと試み、それに失敗した結果敗死した。
だからこそ、第二次救征軍においては、第二の要が不可欠だったのである。すなわちカナンの分身として働き、全軍の先頭に立って戦う者が。
◇◇◇
「ネフィリムだ! ネフィリムが出たッ!!」
報告を聞いたアブネルは小さく舌打ちすると同時に、地面に突き立てていた伐剣を引き抜いた。彼が立っている場所からでも、重々しく歩を進める巨大な影が見えていた。
ネフィリム。人間の前に姿を現す夜魔の中で、最大最強を誇る巨人である。身の丈は十ミトラ近くに達し、まるで攻城櫓が歩いているかのような威圧感がある。特別な能力や武器を使うことは無いが、単純故に対処の難しい相手でもあった。
もし出会うようなことがあれば、下手に戦わず逃げろというのが、闇渡りたちの共通認識である。
「しかし、そうもいかん」
自分たちは遠征軍だ。真正面から来る敵を避けて通ることなど出来ない。
「数は」
「全部で五でさぁ。東南から三、北北東から二!」
「……俺たちは東南の方に向かうぞ」
背後に控えた精鋭に声をかける。「応!」と威勢の良い返事が返ってくるが、中には疑問を呈する者もいた。
「残りの二体は良いのか? あっちには、確かひよっこサロムの隊しか残ってねぇぜ?」
サイモンが茶色の髪をくしゃくしゃと掻きながら言う。大坑窟以来カナンと行動を共にしてきた彼は、アブネルの副官格として前衛部隊の一翼を任されていた。
「サロムでは無理だ。だが、そっちにはもう、あいつを向かわせている」
それだけでサイモンにも伝わった。「じゃあ大丈夫だな」と頷き、配下の戦士たちに号令をかける。
アブネルは人知れず鼻を鳴らした。
だが、それはそれとして、今現在最も有効に使わなければならない駒であることも理解していた。
◇◇◇
前衛部隊のさらに先鋒を任されていたサロム隊は、押し寄せる夜魔の群れに対して、何とか戦線を維持していた。元々偵察目的で派遣された部隊のため、数はわずか二十。小勢の割に善く戦っている。
だが、それもネフィリムが姿を現すまでの間だけだった。いくらか経験を積んだとは言え、若衆だけで構成された部隊では到底巨人と戦えない。
それでも崩壊せずに、全員を岩陰へと退避させられたのは、確かに成長と言えるだろう。
「ほらぁ、だから言ったじゃん。最初っから無理なんかしないで、下がった方が良いって」
負傷兵の腕に包帯を巻きながら、プフェルがぼやいた。物臭で通っている彼も、こんな状況ではさすがに手を動かすしかない。もともと戦闘が得意ではないため、出来ることと言えば参謀役に徹したり、救護兵の真似事をするくらいだ。
そんな彼に対して、岩の上に立って矢を射かけていたサロムが怒鳴り返した。
「言ってる場合かプフェル! ……お前らも、もうちょい持ちこたえろ! そのうち援軍が来る!」
そのうちっていつだよ、とは、さすがにプフェルも言わなかった。
サロムは頑張っている。以前の彼を知るプフェルとしては、よくもここまで伸びたものだな、と感心せずにはいられない。それこそカナンに夜這いを掛けようとした頃に比べれば雲泥の差だ。
だが、その程度の「伸び幅」が、サロム自身の自意識を満たしていないのは傍目にも明らかだった。それが焦りを生み、前のめりな姿勢に繋がってしまう。闇渡りとして、一戦士として危険な兆候だ。
「ったく、熱くなっちゃって……」
呟いたその瞬間、目の前の地面が爆ぜた。巨大な岩石が土砂を巻き上げ、プフェルや、他の戦士たちに降り掛かる。
「プフェル!!」
サロムは思わず振り返っていた。すぐ近くに、岩を掴んだネフィリムがいるにも関わらず。「っ!」武器を手放して飛び降りる。投げつけられた岩が、一瞬前まで立っていた足場を砕き、その破片が辺り一面に飛び散った。
泥や砂を被りながら顔を上げると、二体の巨人が彼を見下ろしていた。聳え立つ巨大な体躯には、夜魔特有の白い紋様が張り巡らされている。顔面全体を覆う無数の赤い眼球が、ちっぽけな闇渡りを無感動に眺めていた。
潰される……そう感じたその時、宙を斬り裂く金色の刃が見えた。
ネフィリムの巨躯を易々と貫いたそれは、生きた鳥のように虚空を舞い、崩れ落ちる巨人を後目に持ち主の手元へ戻っていく。
闇渡りのイスラは、手元に
「無事か?」
振り返ることなく、イスラが言う。サロムは何とか声を絞り出したが、その視線はイスラの背中にじっと固定されている。
闇渡りを象徴する黒い外套……だが、今のイスラが纏っている物には、暗闇でも分かるよう眩い金糸による刺繍が施されている。すなわち、炎と杖と翼の意匠を組み合わせた、救征軍の旗印だ。
それは彼が救征軍の象徴の一つであると同時に、カナンの半身、守火手であることをも意味する。
辺獄に入った当初は新品だったそれも、幾度もの激戦を経た今となっては、いくらかほつれが目立つようになっていた。
「サロム、後退するよ!!」
砂を吐きながら立ち上がったプフェルが、固まって動かないサロムを叱咤する。襟首を引っ張られて、ようやく我に返った。
「イスラ、任せても良いんだよね!?」
「ああ。こいつは俺が片づけておく。お前らは負傷兵を連れて、アブネルの所まで下がれ」
「……頼むよ!」
自失したサロムを引っ張り、プフェルは残った傘下の兵に号令をかける。怪我人が怪我人を背負って後退する様は、まさに惨敗と言えるだろう。
そして残されたイスラの前には、巨大なネフィリムと、十数体の夜魔が立ちはだかった。
「さて……」
イスラは明星の刀身を軽く撫でた。金色の刃の中には、蒼い炎がゆらゆらと揺れている。最後にカナンの天火を分けられてから、すでに二日経っていた。
「なるべく、抑えて戦わないとな……!」