ネフィリムが巨大な腕を振り上げた。それが地面を抉るよりも先に、イスラは駆け出している。
背後で地面が爆ぜたのを感じた。構わず突進し、目の前にいた夜魔の首を次々に刎ねていく。明星の刃に薄く天火を纏わせれば、文字通り夜魔の身体を焼き切ることが出来る。熱したバターにナイフを入れるかのような手ごたえだった。
巨人が苛立たし気に地面を蹴りつける。巻き込まれた夜魔数体が生き埋めになるのを後目に、イスラはネフィリムの足元へと接近していた。
(このまま、脚を……!)
斬り裂こうとしたその時、ネフィリムの影から人型の影が飛び出してきた。通常の夜魔に比べて細身で、四肢が長い個体。アルマロスと呼ばれる、夜魔の上位種にあたる存在だ。
それが三体、イスラの前に立ちはだかり、ネフィリムを護衛している。
「……逃がしておいて正解だったな」
一旦距離を取りつつ、イスラは呟いた。ネフィリムとアルマロス、両方を相手にしつつ味方にまで気を配ることは、さすがに難しい。
アブネルは自分の使い方をよく心得ているな、と思う。イスラも他人と連携して戦うのは不得手だった。
三体のアルマロスが飛び込んでくる。片手に影で作った剣を携えている彼らは、練達の剣士さながらにそれを操る。その上、背景の暗闇と同化するかのように気配を消すため、太刀筋はおろか動作を読むことさえ難しい。以前のイスラであればなす術無く斬り刻まれていただろう。
だが、イスラは動じなかった。
左腕に装着した
その速度は、闇討ちに長けたアルマロスよりも、さらに速い。瞬発力に物を言わせて、敵が態勢を立て直す前に斬り伏せる。
残り二体。だが、真上からネフィリムが拳を振り下ろす。
それを最小限の動きで回避すると、イスラは逆に、その腕を伝って一気にネフィリムの首筋へと駆け上がった。
「伸びろ……!」
しかし、それを振り切ろうとした直前、追いすがってきたアルマロスの刃がイスラに向かって伸ばされる。
「チッ!」
さすがにその殺気を予知出来ないほど、鈍くはない。振り返り、影の剣を切り払う。しかし一体目を踏み台にするように二体目が襲い掛かる。イスラはその一撃を、腕に巻き付けた鋼線でしのいだ。
危機は続く。ネフィリムが鬱陶し気に腕を振るい、アルマロス諸共イスラを叩き落そうとする。
以前も、こういうことがあった。ティヴォリ遺跡で暴走した夜魔憑と戦った時だ。あの時は、
今度は、そうはいかない。
ネフィリムの剛力に捕まる前に、イスラは自ら足場を捨て去っていた。宙へと飛び出し、次いで
ネフィリムが振り返ろうとするが、明星の切っ先が首筋に埋め込まれる方が早かった。
「消えろ……!」
全身の体重を刀身に乗せて、ネフィリムの巨躯を斬り下ろしていく。腰の辺りまで一気に斬り裂いたところで、巨人の巨躯が灰の塊に化けた。それまで感じていた手ごたえが消え、イスラは受け身を取りながら地面を転がった。
灰の雨が降り注ぐなか、彼は即座に態勢を立て直す。呼応するように二体のアルマロスが斬り掛かってきた。切っ先が届くまでに時間差は無いだろう。イスラは腰に差した二本目の剣を抜いた。
明星よりも短くナイフよりもやや長いそれは、刃は聖銀、峰は鉄で出来ている。柄以外がオレイカルコスで造られている明星よりも重いが、イスラはその重みを気に入っていた。銘を
その混血児が、明星と共にアルマロスの黒い刃を受け止めた。
攻撃を予期していた分、反撃も早い。そこが、人間と夜魔の明確な差だ。
黒刃の下に潜り込み、片方の夜魔の脚を明星で薙ぎ払う。崩れ落ちる敵の頭部に、イスラは混血児をめり込ませた。背後からもう一体が再度攻撃を仕掛けてくるが、イスラはその長い腕に回し蹴りを見舞って退けた。
がら空きになった胴体に、二刀による交差斬りを叩き込む。最後のアルマロスが灰に変わった。
◇◇◇
アブネルはあまり大声を出す男ではない。そのことは、付き合いの長い闇渡りたちも十分理解している。しかし、そんな彼の声が、戦場ではどうしてか明瞭に聞こえてくることは、いつも不思議でならなかった。
「弓隊、構えぃ…………放て」
アブネルの号令一下、密集した弓兵たちが一斉に矢を射掛ける。目標は、ネフィリムの顔を覆う無数の赤い目玉だ。
それらは、進攻する巨人を止めること
熟練の闇渡りである彼らは、ネフィリムの進行方向を的確に読み取り、太縄を結び付けて罠を作る。巨人はさほど頭が良くないため容易な作業……ではない。
まず、巨人を転ばせるだけの強度を持った縄となると、相当な重さになる。それを迅速に運搬し、頑丈な土台を見つけてしっかりと結わえるなど、素人には到底出来ない。基礎的な体力や腕力、度胸はあって当然。加えて、経験や勘が求められる。
しかし、アブネル以下三十人の熟練兵たちは、それを苦も無くやってのける。伊達に名無しヶ丘の戦いを生き延びてはいない。間違いなく、現在の救征軍における最精鋭部隊だ。
アブネル側の受け持ったネフィリムの一柱が、縄に脚をとられて前のめりに倒れた。
「聖銀持ち、仕留めろ」
転倒させたとはいえ、そう長くはもたない。迅速にとどめを刺す必要がある。
だが、倒れた巨人を守るかのように、背後から夜魔の一隊が突出した。
「邪魔をさせるな、蹴散らせ」
そう命令しつつ、彼自身も伐剣をかざして突撃する。短いが激しい接近戦が演じられ、その間隙を縫うように、聖銀製の剣を携えた闇渡りが巨人の首を掻き切った。蓄えられていた天火が傷口から浸食し、巨躯の内側より破壊していく。
「次ッ」
すかさずアブネルは、部隊の矛先をもう一体の巨人に向けた。同様の手口で弓隊に注意を向けさせ、巨人の進行方向に回り込む。それを阻むかのように、通常型の個体が立ちふさがるが、熟練兵たちは苦も無くそれらを薙ぎ倒した。
だが、先行して岩に縄を掛けていた戦士が、忍び寄った夜魔に背中を斬られた。悪いことに、相手はアルマロスだ。恐らく気が付かなかったのだろう。アブネルは舌打ちする。早く縄を結わえなければ、間に合わない。
「負傷者を下がらせろ。貴様らは援護だ、アルマロスは三人掛かりでやれッ」
伐剣を投げ捨てて縄に飛びつき、他の兵よりも手早くそれを結わえる。当然アルマロスが刃を向けるが、それが届くよりも先に、熟練兵に絡まれ処理された。
ネフィリムが転倒する。聖銀持ちの剣士が全速力で駆け付ける。アブネルは巨人に背を向けて立った。剣士が跳躍する。アブネルは彼の靴の裏を全力で押し上げた。
立ち上がろうとするネフィリムの首筋に、高跳びした闇渡りが取りついて、剣を突き立てた。二つの巨躯が灰の山に変わるのを後目に、アブネルは残った一体に目を向ける。そちらにはサイモンの部隊をあてがっていたが、まだ巨人は健在だった。
「ったく、いまだに巨人退治も出来ねぇのかよ!」
熟練兵の一人がそんなことを言ったが、最後の生き残りが健在でいられるのも、ほんのわずかな間だけだった。
夜空を切り裂いて飛来した蒼い炎弾が、ネフィリムの頭部を吹き飛ばした。巨人はなおも一歩、二歩と進んだが、三歩目で身体を維持できなくなり、灰となって崩れ落ちた。
最後のネフィリムが倒されるのと同時に、小型の夜魔たちも姿を消した。夜魔特有の耳障りな音や、焦がしたような臭いも漂ってこない。アブネルは投げ捨てていた愛剣を拾って鞘に納めた。
総司令官に、三十二回目の遭遇戦の報告をしなければならない。