目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

【第百八九節/見者】

「……重傷者三名、軽傷者十五名、死者二名。敵の規模の割に、被害は少なかったな」


 アブネルは、目の前のカナンの背中に向かって、淡々と報告を読み上げた。


 彼女は負傷兵たちに天火を注ぎ、ねぎらいの言葉をかけている。座り込んだ者の前では、その場に膝をついて目線を合わせた。


 強面揃いの熟練兵たちもカナンの前では緊張を解いている。まるで駆け出しの頃に戻ったかのように、安堵と疲労の色を隠そうともしなかった。


 背後に立っているアブネルは、彼女が「死者」という単語を聞いて、微かに肩を強張らせたのを見逃さなかった。


「……遺体は、回収出来ましたか?」


 顔を向けないまま、彼女は呟くように尋ねた。


「一体だけ回収した。もう一体は、恐らく岩の下だ」


 そうですか、と擦れた声で返事をする。アブネルは溜息をついた。


「戦っている以上、死者は出る。これまでもそうだっただろう。貴女もいい加減に慣れるべきだ」


「慣れ、ですか」


「必要なことだ。もとより、人間はそういう風に出来ている。気に病むことはない」


 アブネルはそう言ったが、一方で、彼女がこの助言に納得しないことも分かっていた。自分としては楽をする方法を教えているつもりなのだが、カナンは決して、その「楽さ」を甘受しようとはしないだろう。


 そんな彼女だからこそ、難民を見捨てずにここまで来た。救征軍の道を選択しなければ、とうの昔に自分たちは殺されていただろう。


 だが、カナンの選択の結果にも、やはり犠牲が付きまとっている。彼女はそのことに対して、罪悪感を抱かずにはいられない。


「……気が収まらんのなら、祈祷でも何でもしてくれば良い。神と言えば、それくらいしか役に立たんだろう」


 肩越しにカナンが苦笑したのが分かった。彼女は振り返って「ありがとうございます」と言い、案内について行ってしまった。


 アブネルは溜息をつく。そして、先ほどよりも険しい顔で振り返った。より気楽に文句を言える相手が、すぐそこにいる。


「あの方を前線に連れてくるなと、いつも言っているだろう。貴様が手綱を握らんでどうする」


「カナン様ご自身がお望みなのだ。仕方無かろう」


 報告書に視線を落としていたオーディスは、険の込められた愚痴をやんわりと受け流した。旅装は汚れてこそいるものの、当人にはさほど疲労の色が見て取れない。むしろ辺獄の深みに進めば進むほど、彼の落ち着きようは奇妙に際立って見えた。


「貴公を指揮官に抜擢したのは正解だった。カナン様の人物評も大したものだ。前回の遠征では、この時点で倍以上の被害が出ていた」


「あの方にもそう言ってやれ。被害が出て当然だ、これでもまだ軽く済んでいる方だ、とな」


「無意味だな。カナン様は決して人間を数字で見ようとしない。他者に対する想像力が強すぎるが故に、千分の一、万分の一でも、そこに重みを見出す人だ」


「……それでは潰れるぞ」


 アブネルの懸念に対して、オーディスは何も答えなかった。だが、彼がその可能性を考慮していないことは、表情からも見て取れる。オーディスは全く心配していない。


「いつ出発するかは貴公の裁量に委ねる。準備が出来次第、狼煙を上げてくれ」


 相手が何も答えないのであれば、自分にも答える義理は無い。アブネルはきびすを返した。




◇◇◇




 遺体を焼く炎が、辺獄の一角を明々と照らしだしている。薪の爆ぜる音や、火の揺れる音を伴奏にして、カナンは臨終の祈祷を唱えていた。



『天を去られし我らの神よ 願わくば、この小さき祈りに耳を傾け給え


 地より去り逝きし我らの友を 死の澱みより引き上げ


 御国の岸辺に入らせ給え


 彼の傷を清め骨を癒し 地上の苦しみの一切を取り去り給え』



 木枝が割れる度に火の粉が宙に舞い散った。それがカナンの白い法衣を彩り、彼女の金色の髪を輝かせる。


 わき目も振らず祈りに没頭しているカナンは気付かなかったが、遠目にその様子を見ていた幾人かは、彼女の頭の上に光の環が浮かんでいるように錯覚した。まるで、天使がそこにいるかのように。


 特に、長く生きた闇渡りほど、彼女の姿にこの世ならざる何かを重ねて見ていた。天火を授けられた重傷の戦士が、特上の火酒を何杯もあおったかのような表情で、躍る火と歌う継火手を眺めていた。


 この場にあっては、人間の肉体が焼ける臭いですら、微塵も不快感を生じさせなかった。



『汝 御国にありては 朝早くから葡萄畑に行きて


 その木の芽が芽吹いたか 柘榴の花が咲いたか見て回り


 昼には最良の葡萄酒を汲み上げ 子羊を屠り


 夜には炉辺に集いて 竪琴を奏で、歌を捧げよ』



 祈祷が終盤に差し掛かった時、カナンは不意に言葉を止めた。人間のものではない、強烈な視線を感じた。


 それは、焚火の反対側、瘴土の闇に浸るように突っ立っていた。


 二ミトラほどの人型の影だが、頭部と腕の先だけが、全く人と異なっている。それは、鹿に似た頭を首に据えていた。


 見者ハサイェと呼ばれる、夜魔の一種である。


 それが現れた時も、誰も戦闘態勢を取ろうとはしなかった。だが、幾人かは不快感を露わにし、嫌悪感を隠そうともしない。というよりも、見者と遭遇して気分を悪くしない者など、世界のどこにもいないだろう。


 見者は、他の夜魔とはいくつか異なった点を持っている。通常個体は粒上の赤い目玉をいくつも持っているのだが、見者だけは、顔の中心に一つだけ大きな眼球がはめ込まれていた。牡鹿に似た頭部は、常に嘲るかのように口元を裂いている。無論人語を用いることは無いが、その不気味ににやついた顔の中に、無数の侮辱をため込んでいると想像せずにはいられない。


 彼らは自ら戦おうとはしない。不意に人前に現れるが、危害を加えることは一切無い。何故なら、その両腕は手首から先があらかじめ切り落とされているからだ。


 夜魔はどれも、何故この世界に存在するのか分からない者たちだ。見者ハサイェは、一層その不可解さを助長させる。


 しかし同時に、夜魔の悪意の代表者のようにも見えるのだった。


 カナンの前に現れた見者も、炎越しに嘲りの視線を投げかけている。一度は祈祷を止めた彼女だが、それを無視して歌を再開した。傍目に見れば、異様な光景であった。



永久とわの栄えと安らぎが 汝の上にあらんことを』



 カナンの歌が終わると同時に、見者も霞のように闇の中へ溶けていった。彼女は小さく溜息をついた。あの、夜魔の中でも一層異様な存在を目の当たりにすると、どうしても疲労を覚えてしまう。カナンは見者が苦手だった。


 そして、彼らの嘲笑の視線を受けるたびに思うのだ。あれは、自分への正当なまなざしかもしれない、と。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?