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【第百九十節/父の背中】

 点々と焚火が起こされ、顔馴染み同士がその周りに集まり談笑している。闇渡りのプフェルは、両手に葡萄酒の入った杯を持って、その間をすり抜けて歩いた。


 彼の所属している部隊も火を焚いていたが、起きているのは一人だけだった。他の者は疲労のせいで眠りこけている。


「ほーらっ、サロム。良い加減に元気出しなよ」


 そう言いながら、プフェルは杯を手渡した。積まれた薪に腰掛けて項垂れていたサロムは、少しだけ顔を上げた。


 差し出された杯に手を伸ばそうとするが、相棒の頭に巻かれた包帯を見て、指先がぴくりと痙攣した。


 プフェルは、彼にもはっきりと分かるよう、これ見よがしに大きな溜息をついた。


「すまないプフェル! 俺のせいで危険な目に遭わせてしまった! ……とか何とか、鬱陶しいから言わないでよ?」


「ば、馬鹿にするな!」


 真っ赤になって噛み付いてきたサロムの顔に、プフェルは杯を押し付けた。


「飲めよ」


「……んむ」


 よいしょ、と言いつつプフェルも腰を下ろした。腐れ縁の幼馴染みの視線を辿ると、彼の頭の中まで容易に読み解くことが出来た。


 点在する焚火の向こうに、イスラの姿があった。サイモンがのし掛かるように肩を抱いている。さすがに何を話しているかは分からないが、どんなやり取りがなされているかは想像に難く無い。


 そして、救征軍の英雄をじっと見つめる友人が、何を思うかまで。


「奴の真似はするな。その方が、貴様のためになる」


 プフェルが口を開こうとした時、全く予期しない方向から声が響いてきた。聞き覚えのある重々しい声に、二人は敏感に反応した。


 闇渡りのアブネルがすぐ後ろに立っていた。サロムとプフェルは、熱湯を舐めた猫のように慌てて立ち上がった。


「固まらんでいい。楽にしろ」


 そう言われても、とてもそんな態度をとる気にはなれなかった。闇渡りの社会の中で育ってきただけに、熟練の戦士の前でどういう立ち居振る舞いをすべきか二人ともよくわきまえている。


 アブネルもアブネルで、そういう時期があっただけに、無理に二人の緊張をほぐそうとはしなかった。


「サロム」


「はっ、はいッ!!」


「戦死者が出るのは当然のことだ。死人の出ない戦いなぞ戦いとは言わん。ましてや敵は夜魔だ。仕方の無いことと割り切れ」


「……はい」


 若い闇渡りが、そんな理屈だけで納得出来るとは、アブネルも思っていない。隣にいるプフェルはまだしも、サロムはまだまだ青臭さを残している。だからこそカナンに感化されたのだろうし、小規模ながら部隊を率いるだけの器を備え得たのだろう。


「……奴の強さの背景には、それに見合うだけの代償がある。だから俺は、奴を羨ましいとは思わん」


「代償、ですか」


「中身は俺も知らんし、興味も無い。ただ、同じ目に遭いたいかと言われたら、それが何であれ願い下げだな」


 闇渡りとしては長生きした方であるアブネルは、その人生の中で様々な人間を見てきた。中には、イスラのような一匹狼も何人かいたが、いずれも悲惨な過去を背負い、悲痛な最期を遂げた。


 イスラとてそうなってしまう可能性は常に付き纏っている。特別であることがいつも幸せを呼ぶとは限らないのだ。


「サロム。貴様は、今持っている物の価値を良く考えろ。誰かが言っていたが……底の厚い靴を履いたところで、己の背丈は伸びない」


 そう言い渡すと、アブネルは懐に入れていた革袋をプフェルに押し付け、ずんぐりとした背中を揺らしながら去っていった。恐る恐る栓を抜いてみると、鼻腔を殴りつけるかのような強い火酒がたっぷりと詰められていた。


「こんなに飲めないよ……」


 プフェルがぼやくのとほぼ同時に、サロムは水筒を引ったくり、止める間も無く一気に中身をあおった。見る間に顔が赤くなり、そのまま仰向けにひっくり返ってしまった。


「はぁ……やれやれだ」


 周囲にペコペコと頭を下げつつ、プフェルは慣れた手つきで介抱に入った。その時、一瞬イスラの金色の目と視線が重なった……ような気がした。




◇◇◇




「はは、あいつらまたやってらぁ」


 サイモンが酒臭い息を吐きつつ笑った。イスラは「臭ぇ」と愚痴りつつ、彼の腕からするりと抜け出た。


「なぁ、イスラ。ずいぶん気にしてたみたいだけど、何かあったか?」


 酔っていても、サイモンは他人の顔を冷静に見ている。彼は、イスラが例の二人をしげしげと眺めていたことに気付いていた。


 あまり接点の無い連中だが、イスラが彼らのことを気に掛けるのが不思議だった。


「……あいつらを見てると、昔のことを思い出すんだ。ガキの時分のことをさ」


「お前、あのサロムみたいにおっちょこちょいだったのかよ」


 イスラは苦笑する。流石に「ないない」と手を振った。


「あいつほど馬鹿じゃなかったよ、流石に。ただ……何だろな、昔はあんな感じで、同じ歳の頃の友達もいたんだよ」


 そいつらはどうしたんだ、とは、サイモンも言わなかった。


「なぁ、サイモン。あんたはいつからオルファと一緒だったんだ?」


「……六歳くらいだったかな。親父がでヘマをして、一家揃ってに堕とされた。嫁さんと会ったのもその日だよ。確か、俺は大泣きしながらお袋にしがみ付いてたっけな」


「目に浮かぶよ」


「うるせぇ……まぁ、そっからガキ大将に昇り詰めるまで、一月と待たなかったがな」


 なあそうだろ? と、昔馴染みの仲間から言質を取ろうとする。しかし、素直に首を振ってくれた者はいなかった。イスラはそんなやり取りを見ながら、小さく喉を鳴らした。


「イスラ、せっかくだから、昔のお前のことも教えてくれよ。話したいってことだけで良いからさ」


 そう話を振られると、イスラはぽりぽりと頭を掻いた。大坑窟以来の仲間に聞かれるとなると、いささか気恥ずかしさがある。それに、いくら少人数が相手でも、人前でまとまった話をするのは苦手だった。


「話したいこと……話したいこと、か」


 手元の小袋から干し葡萄を摘みながら、イスラは少しの間押し黙った。やがて、ぽつりと口を開いた。



「親父のこと、まだ話して無かったな」



 一座がどよめいた。あまり身の上話をしないイスラの、それも親族の話など、あまりに稀なことだ。


 ちょっと待て、とイスラは苦笑する。


「実のところ、俺の本当の親父かどうかは分からないんだよ。良くあることだけどさ」


「育ての親ってところか?」


「……まぁ、そんな感じだな。イザークって名前だった。無口で大人しくて、いるのかいないのか時々分からなくなるような人だったよ。正直もう、顔もよく憶えてない」


 子供時代は記憶の闇の遥か彼方だ。それを隔てる壁は、まるで質の悪い眼鏡のように彼岸の光景を歪ませる。


 いざ話すとなると、いくらか後ろめたさのようなものを感じた。


「伐剣は持ってたし、一応使い方も教えてくれたけど、ガキの目から見ても全然上手くなかったな。ただ、戦うこと以外の細々としたことは、全部イザークが教えてくれた……他の闇渡りに馬鹿にされながら、な」


 辛うじて思い出せるイザークの姿は、焚火の前で背中を丸めている情景だけだ。傍らにはいつも、壊れた道具や武器が積まれていた。彼はそれを黙々と修理しては、時折火にかざして仕上がりを確かめていた。


「……あのおっさんといた時の方が、何でか安心したな。無表情だけど悪い人じゃなかった。そう……闇渡りの格言を教えてくれたのも、あの人だった。俺が近くでうろちょろしてたから、鬱陶しかったかもしれないけど……」


「そんなことないですよ、聞き分けの良い子って可愛いですよ?」


 いつの間にか、カナンが皆の中に紛れ込んでいた。しゃがんでイスラの顔を覗き込んでいる。「いつ来たんだよ……」とサイモンが呆れ交じりの声を漏らすが、彼女は「まあまあ」と調子を崩さない。


「イスラのお父さんの話、私も初めて聞きました。もっと早く教えてくれたら良かったのに」


「本当に俺の親父かどうかは分からないからな。見た目だって全然……俺はお袋似だからさ」


「でも、私はその人だと思います」


 そう言って、カナンはにっこりと微笑んだ。サイモンも頷いている。


「そうだな。無口だとか無表情だとか、お前とそっくりじゃねぇか」


「……俺、そんなにむっつりしてるか?」


 してる、という声の大合唱が返ってきた。イスラは軽く舌打ちして、干し葡萄を放り込んだ。


(……もし、そうだったら)


 イスラは自分の瞼にそっと触れた。その下にある金色の瞳と同じ色の物を、彼もまた持っていた。


 しかしそれが絶対の証拠になるとは限らない。もしかしたら流れの、金色の虹彩を持った勇猛な悪漢無頼こそが、自分の本当の父親かもしれない。


 だがイスラは、そんな男から力を受け継いだと思いたく無かった。そんなものよりも、イザークから心を受け継いだのだと信じたかった。彼の静かな優しさを宿した血が、少しでも自分の血管を走っていたら、嬉しい。


「イスラ、天火が切れかけてるんじゃ……イスラ?」


「ん、何でもない」


 何故なら自分を受け入れてくれた女性は、まさにその優しさにこそ価値を見出してくれたのだから。


 かつてカナンと旅に出た時に携えていた剣は、イザークの形見だ。それもアラルトの大発着場で失われてしまった。


 だが今は、それを埋めて余りある物が、手の中にある。イスラは明星ルシフェルを鞘ごとカナンに手渡した。

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