誰が最初に異変に気づいたのか、定かではない。
しかし異変は、確実に日常を蝕んでいった。
まず、食卓から食べ物が消え始めた。最初はスープの具がいくつか減る程度だったが、次第に塩味が薄まり、いつしかほとんど水だけになった。
パンもそうだ。それまでは大きな黒パンを切り分けて食べていた家庭が、いつの間にか乳で
それを温める薪そのものさえ、徐々に量を減らしていった。
商人に掛け合おうにも、どこにも行商人の姿が見えない。小売商は頭を抱え、否応無しに廃業せざるを得なくなった。無論、卸売商も同じ状態に陥った。
だが、最も困難だったのは、頻繁に煌都間を旅する行商人たちであろう。
それまで安全だと思われていた場所が、安全ではなくなった。瘴土の穢らわしい大気が街道上にまで漏れ出し、天火の灯された街灯を曇らせるようになった。
そして、夜魔たちが当然のように街道上を闊歩するようになった。
商路の分断は経済の壊死に直結する。自力で物資を生産出来ない煌都にとっては、言うまでもなく死活問題だ。ましてや規模の小さい村落には備蓄すら無い。
当然、各煌都の上層部は危機感を強め、都軍の派遣に踏み切った。軍を維持するための物資にも限界がある。彼らは今や、首に縄を
かくして大規模な護衛部隊と商隊が組織され、多大な労力と流血を伴いながらも辛うじて流通を維持した。
しかし、それも対処療法に過ぎない。いずれ限界が来ることを煌都の上層部は理解していた。当然、救征軍への物資供給などと言っていられる状況ではない。煌都間の約定があるため無碍には出来ず、従って箱の中身を嵩増しするのが当たり前になった。
これらのことは、カナンたちが辺獄に踏み込んでいる間に、徐々に進行していった。彼らがエデンの衛星都市であるディルムンに接近した時点で、既に煌都側から物資を送るだけの余裕は無くなっていたのである。
そして、全世界的な混乱の中、誰かがふと口にした。
「そう言えば、ウルクはどうなってるんだ?」
◇◇◇
「冗談を言って良い場所だと思っておるのかッ!!」
ギヌエット大臣の怒声が、広々とした謁見の間を跳ねまわった。
そんな彼を怒らせたのは、一人の使者だった。
全身傷だらけで、頭に巻いた包帯からは血が滲みだしている。絨毯に片膝をついて深々と
「冗談では……ございません。煌都ウルクはか、完全に崩壊……管区内の全ての、村落も、被害は……」
ギヌエットとて分かっていた。こんな有様になってまで報告を届けてきた人間が、嘘など言うはずがない。
だが、
報告を裏付ける情報は、すでにいくつも出揃っている。ちょうど救征軍を送り出すのとほぼ同時期に、ラヴェンナへの物流が滞り始めた。最初は重く見ていなかった。よくあることだからだ。例えば闇渡りの一団が徒党を組んで暴れたりしていたら、商路が圧迫されるのも当然である。
だが、治安を強化する程度では、事態は解決しなかった。
送り出した騎士団のいくつかが壊滅し、生き残った者から「見たことのない夜魔に襲われた」「街道が寸断されていた」といった衝撃的な情報がもたらされるようになった。中には「山のように巨大な夜魔の姿が見えた」という眉唾物の話さえ飛び出す始末だ。
そこに来て、今日のこの報告である。さしものギヌエットも、処理能力の限界に達しつつあった。
「ニヌアの大祭司より……つ、謹んで、お願い申し上げます! どうか、どうかニヌアに救援をお送り下さい! このままではニヌアも、ウルクの二の舞に……!」
最後まで言い切ることも出来ずに、使者は前のめりに倒れ伏した。ギヌエットはすぐに看護婦を呼んだ。
彼が気絶してくれて、少し安心していた。少なくともこの場で「出来ない」と言わずに済んだからだ。もしそのことを告げていたら、使者は息絶えてしまったかもしれない。
(どのみち私の……ラヴェンナの答えは変わらぬが……)
だが、
すでに商隊の護衛や村落への救援で、ラヴェンナの戦力は払底してしまっている。残っているのは城内を警備する近衛騎士弾と、年寄りばかりの予備役くらいだ。他所の煌都を助けるだけの余力など微塵もありはしない。
「ぎ、ギヌエット大臣……彼らを助けてあげることは……」
上座に座っていたグィドが、そんなことを言う。溜息の一つも漏らさなかったのは、まさに忠臣の鑑と称すべきだろう。
「残念ながら不可能です、殿下。我々にそれだけの力はありません」
「そんな……見殺しにしろと言うのかい!?」
なおもグィドは食い下がる。彼の人の好さは、一個人としては貴重な美徳だが、こと政治家としてはあまりに不適格だ。
「ニヌアが何故我々に頼ってきたのか、お考え下さい。位置関係的に言えば、ラヴェンナとニヌアの間にあるパルミラに助けを求めるのが適当でしょう。
ですが、彼はそうしなかった。出来なかったのです。恐らくパルミラも窮地に立たされていることでしょう」
「で、でも、そんな証拠はどこにも……!」
議事堂の扉が開き、先ほどの使者と同じような有様の騎士が飛び込んできた。
「報告致します! マニフィカ辺境伯領において大型の夜魔の通過を確認! その通り道は瘴土に変貌しています!!」
彼のもたらした報告は、先とは比べ物にならないほどの衝撃をラヴェンナ人に与えた。それは無論、グィドやギヌエットとて例外ではない。だが、ギヌエットは即座に我に返ると、その夜魔が向かう先について質問した。
「ここには……ラヴェンナは狙われておるのか?」
「……斥候によると、大型の夜魔はマニフィカ領を縦断し、辺獄へ向かったとのことです。ですが汚染された土地からは次々と夜魔が溢れ出しており、すでに甚大な被害が出ております」
グィドは完全に脱力して、椅子に座り込んだ。これだけのことを言われれば、さすがに彼も現実を直視せざるを得ない。
「そんな……よりにもよって、僕らの代で、こんなことが起きるなんて……」
王配は頭を抱えて蹲った。出来ることなら、ギヌエットも同じような姿勢を取りたかった。
「殿下。嘆くお気持ちも分かりますが、為政者として今は他になすべきことがあります」
「なすべき、こと?」
「民を守ること、そして女王陛下を御守りするのです! 身重の陛下をお支えするのが、貴方のお役目でしょう!」
「で、でも、一体どうすれば……」
「それをこれから考えるのです!」
ぐずぐずしている時間は無い。新たに生じた瘴土からどれほどの夜魔が湧き出ているのか分からないが、彼らはそう遠からずラヴェンナに押し寄せることだろう。それまでに一体どれほどのことが出来るか、ギヌエットにも分からない。
だが、年若く未熟な王族たちに代わって、何が何でも彼らを守り抜かなければならない。それが摂政を任された者の務めだと、ギヌエットは自身に言い聞かせた。