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【第百九二節/ラヴェンナ揺動 下】

 つい数日前まで、ジル・モルドランは平凡な一騎士に過ぎなかった。まだ叙任されて半年程度の若者だが、マニフィカの堅固な城壁を守る仕事は、ただただ彼を退屈させた。


 風の噂では、パルミラ管区で大きな戦があったと聞いている。一人の戦士として、その場に参上出来なかったことが悔しい。


 毎日変わり映えのない風景を眺めながら、城壁の上を行ったり来たりする日常など、人生の浪費としか思えなった。



 だが今は、あの平和な日常に戻りたい。



 彼は森の中を走っていた。周囲にはマニフィカの街から落ち延びた兵士や領民たちが、同じように目を血走らせて蠢いている。


 突如として押し寄せた夜魔の大群の前に、マニフィカの城壁はほとんど意味をなさなかった。瞬く間に防衛線が決壊し、市街地に夜魔が雪崩れ込んだ。避難誘導を行うどころの騒ぎではなく、ジル自身も、己の身を護るので精一杯だった。


 多少腕に覚えがあるとは言え、あの混乱の中を生き延びられたのは奇跡に等しい。しかし今となっては、あの場で死んでいた方がいくらかましだったのではないかと思えるほどだ。


 侵攻したネフィリムによって燈台がへし折られ、倒された天火が城下町を火の海に変えた。逃げ遅れた人々の悲鳴がそこかしこから聞こえてくるが、それらもすぐに炎に巻かれて消えていった。


 夜空を焦がす赤い輝きは、彼ら避難民の心を徹底的に粉砕した。燈台こそ世界の中心であったが、それは今や引き倒され、解放された炎が街を燃やし尽くしている。まさしく終末の光景そのものであった。


 後に残るのは、生き地獄だけだ。忌み嫌っていた夜の世界に投げ出され、当所あてども無く彷徨うほかない。


 怯えた子供たちの泣きじゃくる声が響き渡った。大人たちは声も上げない。皆、疲れ切った顔をしている。取り返しのつかない物を失ったと知っているからだ。老人の姿はほとんど無い。逃げられた者はごく少数だが、その少数者も、森に入る直前で燃え盛る街へと引き返していった。


 ジル自身、何度となく列を外れて、森の暗がりの中に消えていきたいと思った。だが、絶望に落ちるぎりぎりのところで引き留めてくれているものがある。


「皆さん、足を止めないでください! ウルバヌス領はもう少しですよ!」


 マニフィカの継火手の一人、リアーヌ・ヴィオネの掲げる天火だけが、彼らにとって唯一の希望だった。混乱の坩堝るつぼから彼らを救い出してくれたのも彼女だ。守火手である騎士を喪いながらも、その悲しみを微塵も見せずに毅然と振舞っている。


 長い亜麻色の髪も、継火手特有の美しい顔立ちも、煤と埃にまみれくすんでいた。だがかえって、彼女の威厳を際立たせていた。自分たちと同じように焼け出されながら、なおも継火手としての職務を全うせんとするリアーヌこそ、真にマニフィカの灯火と称すべきだろう。


 そんな女性を残して蒸発したのでは、あまりに甲斐性が無さ過ぎるというものだ。彼以外の騎士や兵士たちにしても、同じ気持ちであることは間違い無い。



「夜魔だ!」



 だから、誰かがそう叫んだ時も、ジルは剣に手をかけることを躊躇わなかった。




◇◇◇




 無我夢中で剣を振るいながら、ジルは無意識のうちに問いかけていた。目の前にいる黒い怪物たちは、一体何故、自分たちの世界を脅かすのか?


 それは人や夜魔よりも、不在の神に向けられた問いだった。無論、答えなど期待していない。彼は自ずと答えを見出していた。


(神よ、そんなに俺たちが憎いか……!)


 人ならざる怪物を差し向けられるのは、神しかいない。そんな単純な思い込みが、彼の闘志の一部を支えている。もしも届かせることが出来るなら、遥か高みから自分たちを見下ろしている存在に剣を投げつけてやりたい。


 自分たちは、そこまでどうしようもない生き物なのだろうか。これが本当に神の意思であるならば、神はどれほど強く人間を呪っているのか。その呪いに相当するだけの罪とは、一体何だというのか。


 明確な答えを与えもしない癖に、過酷な罰だけを与えようとする神が、ジルは憎くて仕方無かった。いるかどうかも分からない神を呪った。


(俺たちには、リアーヌ様がいる!)


 不在の神の救いなど求めずとも、自分たちには生身の救世主がついている。たとえ焚火の燃えさしに等しいか細い光であろうと、架空の光芒、御伽噺の中の太陽などとは比べ物にならない。


「神よ、降りてこい!!」


 不意に彼の中に沸き上がった憤怒が、アルマロスの嵐のような連撃を跳ね返した。戦士の姿をした夜魔が立ち直るよりも先に、ジルの剣の切っ先が、赤い目玉に覆われた顔面を貫いた。


 だが、背後への注意が疎かになっていた。グレゴリの巨体がぬっと立ち上がり、三又の槍を振りかぶる。


「危ない!」


 その槍の穂先が届くよりも先に、リアーヌの放った法術が夜魔を消滅させていた。


「……感謝します、リアーヌ様!」


 緊張と感動のないまぜになった声で、ジルは彼女に感謝の言葉を贈った。他の騎士や兵士、避難民たちも、皆安堵の表情を浮かべている。誰もがリアーヌへの信頼を新たにした。「お気になさらないで下さい。継火手として、当ぜ……」



 リアーヌの胸に、一本の矢が突き立っていた。



 誰もが茫然とした。射られた当人でさえ、痛みも自覚出来ないまま、自分の身体を貫いた矢を無感動に見ている。刺さった箇所から血が滲み、継火手の法衣を内側から赤く染めていく。避難民の誰かが悲鳴を上げた。それと同時に、木々の間や枝の上から、無数の矢が降り注いだ。


 逃げ惑う時間さえ無かった。避難民たちはばたばたと薙ぎ倒され、辛うじて迎撃態勢を整えた騎士たちも、四方八方からの攻撃で動きがとれない。そうこうするうちに、暗がりから飛び出してきた闇渡りたちが伐剣を振るい、数に物を言わせて押し潰してしまった。


 ジルは、熟練の騎士ほど鋭く反応出来たわけではない。恐慌をきたした誰かに突き飛ばされ、頭をしたたかに打った。


 何が何かも分からないまま、ジル・モルドランは意識を失った。




◇◇◇




「酒だ……酒……」


 意識を取り戻して最初に聞こえてきたのは、闇渡りの下卑た声と、縦笛の奏でる憂鬱な旋律だった。彼らは滅多に楽器を使わない。よほど安全で、余裕が無い限り、音楽などで自らの位置を晒そうとはしないからだ。


 ジルはゆっくりと瞼を開いた。彼の上には、複数の兵士たちが折り重なって倒れている。皆、不意打ちで射殺された者だった。


 彼の眼前で、大勢の闇渡りたちがひしめいていた。悪臭が鼻につく。あまり清潔な連中ではない。彼らは避難民やマニフィカ兵の死体を漁っては、金目の物や生活必需品を毟り取っていた。


 生き残りも何人かいるが、若い女性と子供ばかりだ。女たちは戦利品の一つであり、子供は使い捨ての労働力にされる。松明を持った猫背の闇渡りが、虚脱した女たちの首に縄をかけて検分を行っていた。一人が逃走を試みたが、すぐに髪を掴まれて倒され、そのまま叢の中へと引きずり込まれていった。


 ジルは、自分の中の怒りが未だに燃え盛っているのを自覚した。剣を掴んで立ち上がろうとするが、死体が邪魔で身動きがとれない。その上、左腕から大きな痛みを感じた。鎧と人体をまとめて受け止めたせいか、どこかの骨が損傷している。


 何より、身体が言うことを聞かない。数日間、極度の緊張状態の中で行軍し続けたため、心身ともに疲労の限界点を越えている。無事な方の右腕にいくら力を籠めてみても、せいぜい剣の柄を握るのが精いっぱいだ。


 集団の中に、一際目立つ衣装の男がいた。熊の毛皮で作った外套を羽織っているが、その羽織すら小さく見えるほどの巨体だ。周囲には数人の娼婦がたむろしており、奪い取った金品を手に取っては、陶然とした表情で見つめている。


 あの熊の毛皮の大男が、この集団の長であることは間違いない。


「見ろよ、良い指輪だろう?」


 男がごつごつとした指を娼婦の前に差し出す。彼女はそれを手元に引き寄せると、次の瞬間には噛みついて歯形を立てていた。男が悲鳴を上げるが、心底嫌がっている風にはとても見えない。むしろ、女とのそうした戯れを楽しんでいるかのようだった。



「いた! いたぜ、頭! まだ生きてやがる!!」



 ジルの心臓が飛びあがった。てっきり自分のことだと思ったからだ。


 だが、闇渡りたちが掘り起こしたのは、彼ではなかった。


「あれだけぶちこんだってのにまだ息がある! 継火手ってやつぁ、本当に人間なんですかねぇ?」


 リアーヌ・ヴィオネの身体には、明確な殺意をもって多数の矢が射掛けられていた。胸に四本、腹と太腿にそれぞれ二本、首筋に一本。血塗れになりながら、それでもまだ一応は生きている。


 彼女は法術を放とうと唇を動かした。だが、闇渡りの族長はそれを見逃さない。即座に彼女の背中を踏み躙り、詠唱を中断させる。


「油断も隙も無ぇな。おい、剣を持ってこい」


 ジルの血液が沸騰した。自由の利かない身体を無理やり動かそうとする。しかし、最早指先には微塵も力が入らない。そうこうするうちに、彼女の亜麻色の髪がグイと引っ張られ、首筋が露わになった。


「頭ぁ……少し勿体なくないですかぃ? こんな上玉の首を刎ねちまうなんて」


「馬鹿が。継火手ってのは、ここからでも傷を治せるんだよ。きっちり殺しておかねぇと……」


 伐剣の切っ先が皮膚を破り、頚椎に当たる。ぞっとするような鈍い音が鳴り、族長の周囲に侍っていた女たちが耳を抑えた。


 ジルのいる場所からは、その時のリアーヌの表情が、残酷なまでにはっきり見て取れた。あれほどの修羅場をくぐってきた彼女が、両目を一杯に見開き、涙を浮かべている。唇が蒼白なのは、失血のためだけではないだろう。




「や……や、めて…………」




 この日以来、ジル・モルドランは胡桃くるみが食べられなくなった。殻を割る際の音が、否応なしにこの時の体験を想起させるからだ。


 彼は生き延びた。リアーヌが殺されたその瞬間、自分は生きねばならないと思った。だから、その後起こった全てのことも、余す事なくその目に焼き付けた。首を失った死体に、人の形をした餓鬼が群がったのを。溢れ出た血液に片手をひたし、それを自分の顔に塗りたくった族長の姿を。槍の穂先に突き刺された継火手の首を。


 たとえこの世界が滅びに向かうのだとしても、天罰が下る前に、人罰を下さなければならないと決意した。

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