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【第百九三節/パルミラ臨戦 中】

「トビア! 息災じゃったか!」


 大図書館を訪ねるやいなや、トビアはフィロラオスを筆頭とした職員たちに揉みくちゃにされた。行く先々でこうなるな、とサラは半ば呆れ混じりに思った。


「色々と災難続きで心配しておったが、よもやこうして再会が叶うとは思わなんだ。ともかく儂の部屋においで。疲れたじゃろう」


 そう言うやいなや、フィロラオスは老人らしからぬ軽快な動きで彼らを先導した。古参の職員たちも驚いた顔をしている。どうやらトビアと会ったことで、一気に若返ったらしい。


 年甲斐もなくはしゃいではいるが、老博士は人影に紛れ込むようにして立っていた少女に、しっかり気がついていた。


「お嬢さん、君は……あー、なんというのかね?」


「……サラ、です」


 彼女の名前を聞いた時、フィロラオスは何か納得したかのように「ほう」と呟いた。そしてすぐに片手をあげて、こいこいと手招きした。


「無論君もじゃよ、サラ君。一緒においで」


「わたしも……いいの?」


 トビアは微笑を浮かべたまま、こくりと頷いた。


 それに、押し売りされた焼き菓子の山を抱えたまま、開架に突っ立っているわけにもいかなかった。


 地下にある館長室に通された二人の前に、瞬く間に湯気を立てたコーヒーが供された。トビアにとっては馴染みのある部屋、嗅ぎ慣れた香りだが、サラにとっては非常に新鮮な空間だった。


 大きな作業机の上に、山の如く積み上げられた書籍の数々。用途の分からない実験器具や置物、本の修復材……ツァラハトで文化的な物に触れられるのは一部の人間だけだが、ここにはまさに、文化的な物の精髄が蓄えられている。


 密かに感心するサラをよそに、トビアはこれまであったことをかいつまんで説明した。フィロラオスは時折相槌を打ったり、唸り声を交えつつ彼の言葉に耳を傾ける。


 一杯目のコーヒーが空になった頃、フィロラオスは「さて……」と一旦区切りをつけた。


「君たちから聞いた話は、儂らパルミラの人間が聞き及んでいることと、ほぼ符合しておる。しかしパルミラ管区がこの有様とあっては、他の煌都も相当危険な状況じゃろう」


「……先生には、今起きていることがどういうことか、分かりますか?」


「これこれ、儂とて全知全能というわけではないのじゃよ? 果たして、今のツァラハトに、この事象を説明出来る人間がいるかどうか……」


 老博士の口から悔恨の溜息が漏れた。ツァラハト屈指の賢者と称される彼だけに、「分からない」という言葉を口にするのは他人よりも一層こたえるのだろう。


「今起きていることは、歴史書のどこにも書かれておらん。儂も地下の閉架を漁ってみたが、いくら魔導司書たちに検索をかけさせても、かすりもせなんだ。

 夜魔の異常発生と瘴土の拡大、さらに未確認情報ではあるが、山のように巨大な夜魔を見たという報告もある。そういったものに触れた書物が無いとすると……前人未踏の経験であるか、あるいはこれを予測した書物そのものが抹消されたか。そのどちらかじゃろうな」


「抹消、ですか」


 そんなことをして何の得があるのだろう、とトビアは思った。だが、より敏感に博士の言葉の意味を読み取ったのは、サラの方だった。


「知られたくないことがあった。だから無かったことにした……そういう、こと?」


「うむ。そう考えるのが妥当じゃろう。問題はその主体がであったか、ということじゃ。誰が何のために記録を消去したのか、それは何者で、何を目的として行動しておったか。結局、分からんことだらけじゃ」


 考えれば考えるほどに分からなくなっていく。重要な方程式を解こうにも、代入するための数字が無いのでは解くことも出来ない。


「……まさに、悪魔の証明じゃな」


「夜魔じゃなくて、悪魔ですか?」


「そういう言い回しじゃよ。原理的に証明不可能な命題のことじゃ。今の儂らにはぴったりだと思わんかね」


「はぁ……」


「さて。問題解明のためにはまだまだ足掻く必要もあるじゃろうが、さしあたり君たちに必要なのは休息じゃな。図書館には宿直室があるから、サラ君はそこを使いなさい。トビアはここじゃ」


「はいっ!」


 別室をあてがわれて、内心トビアはほっとしていた。パルミラにたどり着くまでの数か月、常に心臓に悪い経験を積み重ねてきたからだ。サラは決して無防備な娘ではないが、それでも四六時中寝食を共にしていると、何度か彼女の「隙」を目にしてしまうことがあった。


 それを見て「満更まんざらでもない」などとうそぶけるほど、トビアは図太くない。


「さて、寝具の類は倉庫にあるじゃろうから……どの鍵かな……そうそう、これじゃ。これを持っていきなさい」


「トビア、わたしも……」


「サラ君はゆっくりしておきなさい。なに、トビアもここの勝手は良く知っておる。任せても良いじゃろう」


 そう言いつつ、フィロラオスはトビアに向けて目配せをした。少年もまた、老博士の「ちょっと外しておくれ」という意図を読み取って、そそくさと部屋を出ていった。


 そしてサラもまた、二人の間で何らかのやり取りがあったことを即座に見抜いてしまった。


「わたしに、なにかあるんですか?」


「ほっほっ、聡い子じゃな。下手な芝居は通じんわい」


 フィロラオスはカラカラと笑いながら、沸かしておいた湯で二杯目のコーヒーを淹れた。「砂糖は使うかね?」「いいえ、無しで」


「さて……君のことは、トビアから聞き及んでおる。ウルクの夜魔憑きというのは、君のことだね?」


「……はい」


 サラはか細い声で、しかしはっきりと肯定した。


「わたしを、パルミラに突きだしますか? それでも文句はいいません。わたしは……」


「これこれ、早合点をせんでおくれ。儂は君を責めるために残したのではないよ」


「でも、わたしはこの街に……あなたや、他の人たちに迷惑をかけようとしました。いえ、迷惑どころじゃない、もっと酷いことを……」


 サラはその細い指で、人知れず服を強く握りしめた。それでいて、表情は冷静そのものである。胸の内に激しい感情を抱いても、努めてそれを隠そうとするのが、サラという少女だった。


 だが、フィロラオスほどの歳になると、人の心の機微というものが良く見えるようになってくる。もちろん人の心を察せない老人というのは多々いるものだが、彼はそういった例に全く当てはまらない人だった。


 若い……それどころか幼くさえ見えるサラという少女が、これまでどれほど過酷な道を歩んできたのか。どのような人生を経験すれば、この幼い身体に大人以上の精神を宿せるようになるのか。それは、ある種歪な成熟でもある。


 人がもっとゆっくりと獲得していくものを、彼女は早々に身につけざるを得なかった。そしてもっと早くに得ているはずのものを、今になって拾いなおそうとしている。その不自然な成長の仕方が今の彼女を形作り、トビアを惹き付けたのだろう。


「……確かに君は、パルミラという街にとって敵であったかもしれん。じゃが、そもそも君のような少女をそんな立場に追いやったのは、何じゃろうな? 儂らに、いや、この世界の全ての大人に、何らかの責任があるのではないか。儂はそう思うよ」


 手の中にある、揺れる黒い水面を見つめながら、フィロラオスは言った。


 大人の仕事は、この世に不幸な子供を作らないことであるはずだ。教育者としての一面も持っているフィロラオスは、そう思わずにはいられない。彼が相手をしてきたのはカナンやユディトのような上流階級の子弟、あるいは煌都の人間だけだが、それでは足りないと常々感じてきた。


「君と話していると、成程確かに大人びて見える。しかし、本当ならまだ誰かに守られているべき年頃じゃ。そんな身で責任を引き受けようとするものではない」


「……それは、あまえ、だと思います」


「ほっほっ、真面目じゃのう。まあ、どの道儂には、君を裁く権利も資格もありはせんのだ。そう難しく構えられても、儂にはどうすることも出来んよ」


「でも……」


「罰が必要だと思うのなら、君はむしろ、何をもって償うかを考えるべきじゃろう。そして、もしも大きな償いが必要だと思うのなら、それに見合うだけの力も備えるべきじゃ」


 そうではないかの? とフィロラオスは括った。「そういうもの、ですか?」と、納得しきれないサラは首を傾げる。


「物事を固く考えるだけが人生ではない。時には柔軟に、自分に甘くなるのも大切じゃよ。君にはまだまだ前途がある。それをふいにすることばかり考えるなど、あまりに勿体ない」


「わたしの……人生……」


 今まで、遠く先のことを見つめようと思ったことなど、ほとんど無かった。どれほど目を凝らしてみても、そこにはいつも暗闇が横たわっていた。それに、今は何とか抑え込めているが、いつ何時夜魔の力が甦るかは分からない。


 ましてや世界全体が混乱に包まれている今は、猶更考えても仕方の無いように思えた。


(……でも)


 今までの皮肉屋なばかりの自分であったなら、フィロラオスの言葉も鼻で笑ったことだろう。


 だが、今は少しだけ、真面目に考えてみようと思えるのだ。

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