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【第百九三節/パルミラ臨戦 下】

「緊急事態、と今更言う必要はありませんな……」


 倉庫貸しのニカノルは両手で頭を抱え、深い溜息と共にその言葉を吐き出した。


 パルミラ中央銀行内にある小会議室は、実質的にこの煌都の頭脳である。そこに据えられた円卓の上は、現在パルミラが深刻な状態に陥っていることを示す書類で溢れかえっていた。


「地方の小村は元より、ニヌア及びパルミラ方面との連絡も完全に途絶……挙句、街道の両側から難民まで流入してくる始末です」


 宝石商のデメテリオが紙の束を叩きつけた。伊達男で通っている彼も、ここしばらくは衣服のことを考えている余裕が無かった。何しろ、現状最も破産に近づいているのは彼なのだから。こんな緊急事態に宝石や装飾品など売れようはずもない。店は連日、閑古鳥が鳴いている。


 並みの商人なら両手を上げるところだが、デメテリオはまだ勝負を捨てるつもりはなかった。そのしぶとさと、若さを当てにした豪胆さが、彼を今の地位へと押し上げたのだ。


 とはいえ、これほどまでに絶望的な状況だと、さしもの彼も打開策を見いだせなかった。


「遠からず流通は途絶える。そうなったら、後は干上がるのを待つばかり。腹を空かせるのは嫌ですなぁ」


 穀物商のバラクは腹をさすった。そういう割にあまり腹回りが減ってないな、とニカノルは思った。


 だが彼の言う通り、物流が途絶えればパルミラはいずれ限界を迎える。確かに煌都周辺には耕作地が広がっているが、作れるものは限られているし、需要を完全に満たすことも出来ない。このままパルミラから物が無くなっていけば、最後には人同士で食料を奪い合い、餓死者をティグリス川に投げ落とす未来が待っている。


 それは、想像するだに恐ろしい光景だ。


 ニカノルは窓の外に目をやった。パルミラの中心に聳え立つ大燈台は今日も煌々と光り輝き、この街の人と生活とを照らし出している。ここで生きる者の一人として、ニカノルは全てを守りたいと思った。


 闇渡りのサウルとの戦いを経て、パルミラという街は少しずつ変わろうとしていた。世界のどこよりも明確な危機と相対した彼らは、煌都の安全性が絶対ではないという事実を認めざるを得なかったのだ。


 自分たちは不断の歴史のただなかにいる。この街を囲み、流れていく大河と同じように、社会もまた移ろう。どんな巨石も、水流に絶えず晒されていれば、いずれは消えてなくなってしまうものだ。


 だからこそ、今と近い将来だけは守ろうと、パルミラ人は考えた。どのような危機が襲ってこようと、次の世代にこの街を継承していかなければならない。あの戦いの後、若い青年が進んで都軍に入営するようになったのも、そうした意識の表れであろう。


 商人たちの間にも意識変化があったようで、営利目的ではない献金がちらほらと聞かれるようになった。先の戦いで生じた戦没者遺族のための献金が集まり、資産運用が可能な程度の基金が出来上がっているとも聞いている。ニカノル自身も、そうした運動に一枚噛んでいた。


 恐らくこれから、パルミラという街はもっと良くなっていく……そう思っていた矢先の出来事だ。落胆も大きかった。


 ニカノルが人知れず溜息をついた時、会議室のドアが叩かれた。待っていた人物が到着したのだ。ニカノルは扉の外の守衛に「お通ししてくれ」と声を掛けた。


「失礼致します」


 部屋に踏み入る手前で、パルミラ都軍総指揮官のラエド将軍が一礼した。その一歩後ろには、参謀長のナザラトが控えている。


「将軍、お待ちしておりました」


 ニカノルは立ち上がり、座るよう促したが、ラエドは「このままで結構です」と固辞した。


「ただいま、ラヴェンナ方面に派遣していた巡察隊より緊急の報告が入りました。くだんの超大型夜魔はラヴェンナ領内を通過し、その通り道は瘴土へと汚染されています。湧き出した夜魔はマニフィカ辺境伯領を蹂躙し、なおも拡大中。収まる兆しは全く見られません」


 ラエドは表情を固く保ったまま、機械的に報告した。そうした豪胆さは見る者を安心させるが、同時に緊張を強いるものでもあった。


「……超大型夜魔、ですか。ただの噂話ではなかったのですね」


 デメテリオは唾を呑んだ。バラクは冷や汗を流し、アナニヤは長く伸びた髭を何度もさする。ニカノルは「自分も髭を伸ばしておくべきだった」と後悔した。緊張を紛らわせる方法が何も無い。


 ニヌア管区からの難民が「山のように巨大な夜魔を見た」と申し立てていることは、彼らも知っていた。だが、あまりにも突拍子の無い話であるため、深く考えてはこなかったのだ。


 あるいは、それを事実と認めたくなかっただけかもしれない。ただでさえ絶望的な状況下で、これ以上不安要素を増やしたくなかった。


 一人、妓館のエステルだけが泰然としていた。


「将軍、続けておくんなんし」


「はっ……幸いと言うべきか、その夜魔が我々に進路を向けることは無いでしょう。これまでに出てきた情報を見る限り、彼奴きゃつの目的地は辺獄です。我々が相手をする必要はありますまい。

 問題は、その通り道に出来た瘴土と、そこから湧き出てくる夜魔の方です。分かっているだけでもおよそ五万、中にはネフィリムや新種の姿まで認められるとのことです。

 その軍勢が、一路パルミラを目指しております」


「五万……」


 ニカノルの声はかすれていた。苦しい数字だった。


 パルミラの街を守る都軍は、総戦力約一万。管区全域より部隊をかき集めたとしても一万四千人足らずだ。いくら継火手や城壁を抱えているといっても、二倍以上の戦力を相手取るのは不安を伴う。


 しかも、五万というのはあくまで目算であり、実際にはそれより遥かに多い可能性もある。加えて、敵は瘴土の中からいくらでも湧き出してくるのだ。


 もっとも、これはまだましな方なのかもしれない。超大型夜魔が横断していったニヌア管区などは、パルミラ以上に夜魔が溢れ出して阿鼻叫喚の地獄と化しているのだから。


「将軍、はっきり言っておくんなんし。あちきらに勝ち目はありんすか?」


 エステルは射るような視線を老将軍に向けた。


 この時初めて、老将の顔に影がさした。



「……戦争の原理に基づくなら、我々に勝ち目はありません」



 後ろに控えていたナザラトが、一歩前に進み出た。


「彼らの戦略目標は単純明快です。煌都を侵略し、大燈台を破壊することです。しかし我々には、そもそも選択し得る目標がありません。

 無論パルミラの人と街を護ることは、大前提としてあるでしょう。しかしどれくらいの期間、どれ程の攻勢に耐え続ければ良いのか。どうすれば我々は勝てるのか。それが、全く分からないのです」


 彼の言葉を最後に、今度こそ誰も口をきけなくなった。耳鳴りが聞こえるほどの沈黙が会議室を満たした。


 あまりに悲観的な回答だった。それに対して失望を覚えた者もいたが、軍人たちを責められないことも重々承知していた。いかんせん、戦いの終着点が見えない以上は、彼らもそう答えるしかないのだ。


「私見ではありますが、これは戦争などではありません。どちらかと言えば、蝗害や砂嵐のような、人知の及ばない災害と同列に考えるべきでしょう」


「しかし、現に夜魔は襲ってきます。それを迎え撃つのも、貴方がた軍人にやっていただくしかない」


 ニカノルの言葉に対して、ラエドは静かに頷いた。


「我々都軍の任務は、このパルミラと大燈台を守護すること。しからば、我々は総力を挙げてパルミラの防衛に努めるまでであります。末端の一兵卒に至るまで決意を固めていると、その点については保証致しましょう」


 決意で夜魔が倒せるのかね、とアナニヤがぼやいた。二人の老人の間で一瞬火花が散った。ニカノルは慌てて「質問を変えましょう!」と割って入る。


「仮に投入できる全戦力をパルミラに集結させたとして、我々はどのくらいの期間持ちこたえることが出来ますか?」


「……敵の第一波、五万の戦力は確実に撃退して見せましょう。第二波が同数であった場合、それも撃退可能です。しかしそれでも終わらなかった場合、第三波の戦力が三万であったとしても、パルミラは陥落します。期間は……今日から数えても、二ヶ月が限界でしょうな」


 二ヶ月、とニカノルは口の中で反芻した。長いと言えば長く感じるし、短いと言えば短くも感じる。その上、これはあくまで憶測交じりの数字なのだ。どこまで信頼出来るかは分からない。


 だが、ラエドは第一波を確実に撃退可能だと言った。現時点ですら二倍以上の戦力差があるにも関わらず、である。


「……参謀殿、確かにこれは災害でありんすな。けれども災害はいずれ過ぎ去るもの。あちきらも、今はそれを期待して耐え忍ぶ他無い。皆様も、いい加減に腹を決めてくんなんし」


「先が見えずとも、ですか」


 エステルはそれ以上何も言わず、扇で口元を隠し目を伏せた。ニカノルは、そんな彼女から目を逸らした。他の男たちも同様に、あえて見ないようにした。


 パルミラ第一の女傑と称される彼女の手元が、微かに震えていた。




◇◇◇




 古来より商都として栄えてきたパルミラには、一時期、豪商たちが神殿への献金額を競い合う時代があった。そのことについての是非はともかく、神殿内には技巧を尽くした芸術品や、贅を凝らした廟が次々と増設されていった。聖俗の癒着がひと段落ついた現在も、それらは文化財として大切に保管されている。


 わけても、パルミラのために働いた者を祀る霊廟は『翠星廟』と称され、そこに入ることがパルミラ人士の悲願となっているほどだ。


(子供の頃、私もそう思っていたっけ)


 継火手マスィルは、ベール越しに翠星廟の中を見渡した。


 決して広い建物ではない。だが、高さ五ミトラほどの天井や壁には、緑色の色付きガラスを使ったモザイク模様が隙間なく埋め込まれ、星々のように瞬いている。天井からは天火の光が降り注ぎ、ガラスを通して緑色の閃光を列柱のように生じさせていた。


 誰かの焚いた香の煙が、光の中で踊っている。マスィルはそれをかき分け、霊廟の最奥までたどり着いた。


 そこには祭壇が設けられ、先に詣でた人々が置いていった蝋燭や香が所狭しと並べられている。


 それを見下ろすように、死者の名前が刻まれた石板と、不可思議な紋様のモザイク画が鎮座していた。


「…………」


 マスィルはその場に両膝をつき、香を練り込んだ蝋燭に自らの天火を灯した。形式に則った祈祷を捧げてから、小柄な継火手は穏やかな声で語り掛けた。


「招集が掛かったよ、ヴィルニク」


 蝋燭の先で揺れる火の向こうに、マスィルは守火手だった青年の顔を見出そうとする。今でも彼との思い出は、彼女の胸の中に深く刻まれたままだ。


「びっくりだよな、世界が滅亡するかもしれない、なんてさ。ちょっと前までは人間同士で争ってたってのに、今度は夜魔と戦争だなんて……」


 いくら語り掛けても、返ってくるのは自分の声の木霊だけだった。彼ならばきっと、とぼけた声で「たまげたねぇ」とでも言うのだろうな、とマスィルは思った。


 だが、彼が新しい言葉をくれることは、もう二度と無い。


(……分かってるさ、それくらい)


 マスィルはローブの胸元を強く握り締めた。心臓の中に、見えない何かを押し込めるかのように。



「ヴィルニク。私は戦う、戦い抜いて見せる。


 お前が守ってくれたこの命に恥じないように……お前が望んだ、真の継火手になるために」



 マスィルは顔を上げた。視線の先にあるモザイク画は、円を描いて開く花弁のような形をしていた。


 それは失われてしまったという太陽を現しているのか、それともまた別の何かを表現しているのか、彼女には分からない。だが、人の手には届かない遥かな場所の喩えなのだと、直感的にそう思った。


 片手でそっとモザイク画に触れ、もう片方の手でベールを持ち上げる。




「だからどうか、私を見守っていてくれ」




 マスィルは踵を返した。長くたなびく赤い髪が翻った。靴音を霊廟の中に響かせ、後にはゆらゆらと揺れる蝋燭だけが残る。

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