ツァラハトで起きていることを空から俯瞰している者がいたならば、大地に一本の巨大な線が刻まれているのが見えるだろう。
かつて煌都ウルクのあった場所から伸びたそれは、進路上にあるもの全てを貫いて一直線に辺獄を目指していた。
そして、インクを吸わせ過ぎた筆が書面を滲ませるように、禍々しい闇が線の周囲を浸食していくのも、同時に目に入ることだろう。汚染された大地で起こっている惨禍については、恐らく世界中の紙をかき集めても描写しきれないだろうし、もし書ける人物がいるとしても辞退するに違いない。
しかし惨劇に見舞われたのは、
ツァラハト全土に点在する深淵、地下深くと通じたそこからも、夜魔たちは次々と姿を現した。瘴土の闇が周囲を侵し、大地の奥底に封じられていた怪物たちが侵攻を開始した。
エルシャ管区の辺境、アラルト山脈に見下ろされたリダの町も同様だった。
城門が突破されるまでに物の十分も掛からなかった。防衛隊の士気は一瞬で崩壊し、市街には夜魔が溢れた。押し出されるように脱出し得た者はほんの僅かで、ほとんど身一つでの逃亡となった。
城壁の一角を守っていた衛士のナームもまた、持ち場を放棄して逃亡していた。ただし一目散に逃げるのではなく、立ち寄るべき場所に立ち寄ってからの脱出だった。
「マルタちゃん、しっかり掴まってて!」
盗み出した馬の背中に少女を乗せて、ナームは燃え盛る町を後にした。
「な、ナームさん、私……」
気弱な少女は恐怖のあまり竦み上がって震えていた。まだ姉が死んでから一年も経っていないのだ。夜魔に対する恐れは他の町民よりも強く刻み込まれている。それは、ナームにしても同じことだった。
(死なせて堪るか!)
何とか脱出し得た者も、徒歩ではすぐに追いつかれてしまう。森を抜けて街道まで逃げおおせたのは、彼らも含めてほんの一握りだけだった。
馬の背にマルタを乗せたまま、ナームは走り続けた。頭上を月が横切り、もう一度地平線から姿を見せる頃には、心身両面の疲弊から気が遠くなりかけていた。二人を乗せた馬も、疲労のあまり速度を落としていた。
辺りを見渡すと、他の難民たちも似たり寄ったりの有様だった。もっとも、最初に比べればその人数は随分減ってしまっている。
衛士としての任務を放棄したことに対して、罪悪感を抱かないと言えば嘘になる。そこで開き直れるほど、ナームは図太くはなかった。
(あの……闇渡りは……)
彼の脳裏にふと、不敵な表情を浮かべた闇渡りの姿が浮かんだ。婚約者が死んだその日のうちにリダを訪れた、ふてぶてしい青年。猛禽のような険しい目つきと、満月のような瞳は、今でもよく思い出せる。
彼はまだ納得出来ていなかった。一緒にいた変わり者の継火手は、必死になって闇渡りを擁護していたが、到底信じられない。
……信じられないのではなく、信じたくなかったのだ。彼の無意識はそのことに気付いているが、そこには強固な封印が施されていた。
夜魔の大群は、彼らが去っていったアラルト山脈より溢れ出てきた。もしかすると、追い詰められて野垂れ死んだ二人の怨霊がこの現象を引き起こしたのではないか……疲れ果てたナームの脳は、そんな埒も無い空想を紡ぎ出した。
妄想が、油断を生んだ。ガクンと強烈な反動が襲い、気が付いた時には二人の身体は
「くっ……!」
何とか彼女の身体を引き寄せるが、それが精一杯だった。地面に叩きつけられると同時に衝撃と荷重が圧し掛かる。左肩の付け根から嫌な音が聞こえ、一拍遅れて激痛が駆けあがってきた。彼の呻きは、転倒した馬の悲鳴にかき消された。
脂汗の浮かんだ頭を巡らせると、他の脱出者たちも同様の手口で足止めされていた。地面に縄が張られている。何のための物か、考えるまでもない。
「殺せェ!!」
野卑な号令と共に、闇の中から黒い外套を纏った男たちが飛び出してきた。その手には、貪欲に血を求める伐剣が握られている。
周囲から悲鳴が上がった。生き残った衛士たちがのろのろと剣を抜くが、誰の目にも絶望が色濃く澱んでいる。
だが、ナームは諦めるわけにはいかなかった。諦められたならどれほど楽だろう、そう思うほどに疲れ、傷ついていたが、なおも彼は戦うべく剣を抜いた。
立ち向かった衛士たちが、逆に次々と斬り倒されていく。略奪者の手は瞬く間に避難民にまで及んだ。そこかしこで悲鳴や嗚咽があがり、飛び散った血飛沫が街道の石畳の隙間に沁み込んでいく。
一人の闇渡りと目が合った。見るからに若い男で、手柄を上げたくてうずうずしているといった様子だ。
そんな者からすれば、手負いの上に人を庇っているナームは、絶好の得物と映ったに違いない。
その闇渡りのありとあらゆる部分が、ナームの奥底で燻っていた憎悪に火を点けた。真正面から馬鹿正直に斬り掛かってきた敵に対して、彼もまた真っ直ぐに突進した。
衛士になって初めての実戦だ。本来なら脚が竦んで動けなかったかもしれない。だが、恐怖を忘れさせるほどの怒りが、彼の背中を突き飛ばしたのだ。
まさか向かってくると思っていなかった相手は、伐剣を振り下ろす手を一瞬躊躇ってしまった。その判断の遅れが、生死を分けた。
全体重を乗せた剣が、闇渡りの腹を突き破った。だがナームの体勢も崩れている。もんどりうって地面を転がり、再び左腕からの激痛に苛まれた。
一人、倒した。しかしそれまでだ。唯一の武器すら失ってしまった。仲間がやられるのを見た闇渡りたちが、ナームを取り囲んだ。
背後から叫び声が聞こえた。振り返ると、引っ立てられたマルタが男たちに羽交い絞めにされている。彼は再び立ち上がろうとしたが、あえなく地面に蹴り倒され、胸を踏みつけられた。
逆手に握られた伐剣が振り上げられた。街道の灯火に照らされた切っ先から、血糊が垂れている。それが、この世で最後に見る物だと覚悟するしかなかった。
「我が焔よ、車輪を
飛来した光輪が、掲げられた伐剣を腕ごと吹き飛ばした。闇渡りが何か罵声のようなものを口にしているが、それは押し寄せてきた大量の蹄の音によってかき消された。
街道の向こうから、全身に鎧を着込んだ騎士たちが姿を現した。数は、優に五百はくだらないだろう。誰かが「街道警備隊だ!」と叫んだ。
先頭の一騎を駆る継火手は、純白の戦装束に身を包み、片手には燃え盛る天火を宿した剣を高く掲げている。その姿はまるで、神の震怒を代行する大天使のようだった。
「全騎、散開! 一人たりとも逃がすなッ!!」
騎上のユディトの命令に応じ、騎馬隊が三つに分かれる。左右両翼に二百騎ずつ展開し包囲。ユディト本人も含めた残りの百騎は、襲われた避難民たちを救うべく突撃する。
「糞がッ」
当然、闇渡りたちも黙ってはいなかった。略奪を中断し、最も手薄な箇所、すなわちユディト率いる本隊を突破して逃げ出そうとする。弓を扱える者は真っ先に継火手を狙った。
その動きを見た騎士たちが盾を構えて護衛しようとするが、彼女は「不要です!」と怒鳴り退けた。
「我が焔よ、退魔の覆いとなりて我が身を守れ! 権天使の
剣を振るうと同時に、騎馬隊の正面に炎の幕が現れる。それは飛来した矢を消し炭に変えるのみならず、強烈な閃光で闇渡りたちの目を焼いた。
苦悶する闇渡りたちが、口汚くユディトを罵った。地面に横たわったままのナームもまた、久々に浴びた強烈な光に目を焼かれていたが、まだユディトの姿を認めるだけの視力は残っていた。
そして思ったのだ。自分が抱いていた怒りなど、今のユディトの……領民を蹂躙された統治者の怒りに比べれば、取るに足らないものだと。
「…………」
馬から飛び降りたユディトの、その長い髪が風に揺れ、静かな激情を湛えた顔を覆った。それはまるで、逆巻く炎のようだった。