夢の中で目を覚ますというのは、奇妙な話だな、とギデオンは思った。
そこが夢の中であることはすぐに理解出来た。エルシャのエルアザルの家にある、大きな林檎の樹。その根元でうたた寝をするのが、ギデオンの日課だった。だが、今の自分がいる場所はエルシャではない。
それに、視界の大半は白い靄に覆われて判然としない。ただ自分が樹にもたれかかっていること、そしてすぐ傍にユディトがいることだけは、はっきりと認識出来た。
彼女は何か言いたげな表情で、自分を見下ろしている。花のように美しい唇が小さく震えた。
ギデオンがゆっくりと身体を起こすと、彼女は脱兎のごとく駆け出して、白い靄の中に消えていってしまった。
「ユディト様」
彼女の名を呼び、手を伸ばすが、靄の中から応答は無かった。
代わりに、背後から聞きなれた声が聞こえてきた。
「薄々、気付いているのではないか?」
振り返ると、大樹の陰に人影が立っていた。硬質な銀色の髪、十人並の顔立ち、鍛え上げた肉体。その右手には、炉の火を取り出してきたかのような、
「何のことだ」
「貴様は気付きたくないのだ。気付かずにいれば、自由でいられると思い込んでいる」
目の前に立つ己の姿を、ギデオンは鼻で笑った。だが、ふと自分の身体を見下ろしてみると、そこには墨で塗ったかのような黒い影があるばかりだった。
実体の無い己の手を、ギデオンは強く握り締めた。だが、込めた力さえ実感出来ない。
そんな彼を、もう一人のギデオンが仕返しとばかりに嘲笑った。
「分かるか。影なのはお前の方だ。
貴様は
燃え盛る剣が、その火勢を爆発的に強めた。傍らに立つ大樹に火が移ると同時に白い靄が晴れる。そこには、炎に呑まれるエルシャの街並みが広がっていた。
見知った人々が炎の中に消えていく。だが、ギデオンの心はいささかも騒がなかった。悪夢だと自覚しているからかもしれない。
しかし、目を覚ましてもまだ心が平静だと気づいた時、そんな自分自身の精神に対して、ギデオンは恐怖した。
◇◇◇
気が付くと、目の前に暗闇が広がっていた。火にくべられた薪の弾ける音が聞こえる。ゆっくりとそちらを見ると、疲れ果てた様子の巡察隊士たちが思い思いの姿勢で休んでいた。だが、寝息を立てている者は一人もいない。
「お目覚めですか、ギデオン卿」
大柄な隊士が、湯気の立つコーヒーを差し出してきた。「すまない」木製の軽い椀に入ったそれをギデオンは静かに啜る。
同時に、彼は顔を
「ギデオン卿、どこかお具合でも?」
「……少し苦いな」
コーヒーを淹れてくれた隊士が苦笑した。それにつられるように、他の者も小さく忍び笑いを漏らした。それでも、重く圧し掛かった疲労をはねのけるほどではない。こんな瘴土の中でコーヒーの味に文句をつけられるギデオンの方が、よほど鈍感なのだ。
「申し訳ありません。我々も様々な技術を学びましたが、美味いコーヒーの淹れ方までは、何とも……」
煙草が金持ちの嗜好品としてのみ流通しているのと同じく、コーヒーも煌都の上流階級だけが嗜むことの出来る高級品である。しかし、長期にわたって夜の世界で活動することになる巡察隊は、それらが特権的に配給されるのだ。
もっとも焙煎した豆をもらったところで、それを上手に淹れる方法までは教わらないため、味は個々人によってばらけてしまうのだが。
「隊長、退役されたら喫茶店でも始められたらいかがですか?」
「まだそんなに歳は食っちゃいない」
冗談交じりのやり取りを続けているうちに、沈んでいた空気が少しだけ明るくなったようだった。そんな様子を横目に見つつ、ギデオンはもう一口コーヒーを啜った。
彼らは現在、エルシャとウルクの境界付近まで進入している。切っ掛けは無論、ウルク崩壊の報を受けたからだ。
最初に行政の中心地が崩壊してしまったウルク管区は、他の管区に輪をかけて悲惨な状態だった。誰も地方の都市や村落に向けて指示や情報が伝えられず、どこもかしこも警戒すらしない内に夜魔に襲われてしまったのだ。
生き延びた人々は街道に殺到してエルシャを目指したが、そこに闇渡りが徒党を組んで襲い掛かるというのも、最早お約束とでも言って良い図式だった。
そんな十重二十重の苦難を乗り越えてエルシャにたどり着いた人々は、口々に煌都ウルクの崩壊と、大地に開いた大穴から這い出てきた厄災について語った。大祭司たちは当初頑なに信じようとしなかったが、様々な状況証拠が危機の到来を告げている。
特に、
煌都において、辺獄同様と化した魔境に踏み込めるのは巡察隊以外に無い。しかし熟練兵の集まりである特殊部隊でさえ、この任務を前に尻込みする者は多かった。
もしギデオン自らがエルアザルに直訴しなかったら、作戦そのものが立ち消えになっていただろう。
エルシャを出発してもう二週間近くになる。最初の数日は馬が使えたからまだ楽だったが、瘴土に接近し、彼らが怯えて逃げてしまうと、あとは徒歩で進むほか無かった。
そこから先はひたすら強行軍だ。度重なる夜魔や闇渡りとの戦いを経て、ここまでたどり着いた。
だが、進めば進むほど、現在の絶望的な状況を実感させられるばかりだ。いかに精強な都外巡察隊と言えども限界はある。不眠のまま何とか脚を引きずり、吐き気を押し殺しながら行軍食を口にする。
(だが、そろそろ限界か)
椀を傾けると、底が見えた。気力体力はもとより食料も底をつきかけている。水分だけは瘴土の中でも求められるが、いくら何でも空腹のままでは身動きがとれない。
(
そう思いかけて、ギデオンは一人かぶりを振った。まともでないことは、彼自身が一番自覚している。
こんな時、こんな場所だというのに、彼の心は溌剌としていた。食事も睡眠も、問題なく摂ることが出来ている。普通ならこうはいかないだろう。
ウルクの崩壊は確実だ。そして彼らを襲った厄災は、そのままエルシャにまで降り掛かるかもしれない。だというのに、そんな危機の到来をどこかで喜んでいる自分がいる。
「度し難いな」
そう呟いた時、「隊長!」という掛け声と共に茂みが揺れ、偵察に出ていた隊士が姿を現した。
「動きがあったか?」
「はっ……とりあえず、一緒に来てください」
ギデオン卿も、と彼は言おうとしたのだろう。その時にはすでに、ギデオンは剣を持って立ち上がっていた。
その場に見張りを残して、ギデオンと隊長は偵察兵の後を追った。生い茂った低木をかき分け、顔を出した木の根を飛び越え、周囲を見下ろす丘の上へとたどり着く。突き出した岩の上に伏せていた見張りが振り返った。
「見てください」
そう言って、それまで覗き込んでいた望遠鏡を隊長に回した。
だが、それを使うまでも無く、地平線を埋め尽くすかのように広がる夜魔の大群はありありと見えていた。
「……こいつは、参ったな」
隊長の声はかすれていた。他の隊士にしても、尋常な顔色の者は一人もいない。彼らはエルシャでも屈指の勇者たちだが、これほどまでに絶望的な光景を目の当たりにすると、とてもまともではいられなかった。
一人、ギデオンだけが平然としている。
「貸してくれ」
隊長の手から望遠鏡を受け取り、顔に押し当てる。レンズ越しに、大地を行進する夜魔たちの赤い眼球が見て取れた。
ほとんどは一般的な種類の夜魔だ。だが、膨大な軍勢の中にはグレゴリやネフィリムの姿も混ざっている。他にも何種類か、見たことの無いものも認められた。
「ウルク崩壊の話は、事実だったようだな……かくなる上は、一刻も早くエルシャにこのことを報告すべきだと考えますが……ギデオン卿?」
「ああ、そうだな」
一応返事はしたものの、どこか上の空だった。
ゆっくりと望遠鏡を傾ける。遥か彼方を歩いていた夜魔の一体と、目が合ったような気がした。いや、気のせいではないな、と訂正する。
右腕を大剣と一体化させた三ミトラほどの巨人。竜を思わせる頭。そこに埋め込まれた無数の赤い目玉が確かに自分を捕らえ、そして狼のように大きく裂けた口を釣り上げた。
「帰還しましょう、ギデオン卿!」
「……ああ。迎撃の準備をしなければ、な」
一足先に駆け出していた巡察隊士たちに続き、ギデオンも外套を翻して後に続いた。
五つの丘を隔てた先にいるその夜魔が、口からくぐもった笑い声を漏らした。