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【第百九六節/藍玉よりもなお美しき】

 報告を終えて屋敷に戻ると、何故かイザベルとイザベラが彼を待ち構えていた。


「何の用だ。今日は飲みには出かけんぞ」


 彼女たちが絡んでくる時は、大抵酒場に行く時と相場が決まっている。振り払って出てきたつもりでも、いつの間にか先回りして酒杯を重ねている。もちろんギデオンのツケで、だ。


 だが、今日はいつもと様子が異なっていた。主にイザベルの方が、強気にギデオンを睨み付けている。


「そんなことはどうだって良いんです。今日は私たち、二人で飲みに行くんで」


「有難い。お陰でくつろげるな」


 軽い皮肉のつもりだったが、イザベルに腹を殴られた。もちろん痛くも痒くも無かったが、困惑は強まるばかりだ。


「ユディト様と二人にしといてやるって意味だ! 勘違いするな馬鹿ッ!!」「バカッ!!」


 ついでにイザベラからも膝を蹴られた。


「何のことだ。まるで意味が分からんぞ」


「おまっ……! ユディト様は、前の戦いで人を斬ったんだ! ちょっとは慰めてあげろよ!」


 そこまで言われて、ようやくギデオンも得心がいった。アラルト方面に救援に行ったという話は聞いていたが、実戦で人を斬ったということまでは知らなかった。


「……そうか」


 自分は彼女に、剣の師匠として技術を教え込んできた。だがそれは、実際に剣を振るい、人を殺させるためではない。そんなことまでは、雇い主であるエルアザルも期待していなかっただろう。


 もとより継火手の習う剣術など、手習いの域を出ない。最低限のところを抑えていれば、それで十分なのだ。だからギデオンも、ユディトやカナンが身を護るだけの技術さえ覚えてくれれば良いと思っていた。


 だが、カナンは天性の才覚によって早々に技術を習得し、挙句の果てに剣から杖術へと転向してしまった。


 そしてユディトもまた、並々ならぬ熱心さで腕を磨き、エルシャでも指折りの剣腕を持つに至っている。


 いつか冒険に出ることを考えていたカナンが、武術を身に着けようとしたことは理解出来る。だが、ユディトが何故そうまでして剣術に邁進したのかが分からなかった。


 日々腕を上げていく彼女と剣を交えながら、いつもそのことが不思議でならなかった。生真面目さやカナンへの意地だけでは説明のつかない何か……それを漠然と感じながらも、結局は訊けず仕舞いだった。


 そうして気付いてやれない内に、ユディトは人を斬った。


 悪しき目標のためではない。むしろ人を守ろうとして剣を振るったのだろう。それは容易に想像がつく。


 だが、正義を理由に自分を納得させられるような器用さを持ち合わせていないことも、長い付き合いだから分かっていた。


「ユディト様は中庭にいるよ。あの樹の下にいる」


「……」


 返事はせずに、ギデオンは脚を庭へと向けた。


 広大な庭園だが、そこは彼にとっても自分の庭同然の場所だった。思えば八年前、彼女たちの教師を選出するための武芸会に呼ばれた際も、場所が分からず迷ってしまったのだ。落とされることを覚悟し、開き直ってふて寝を決め込んでいたら、そこに彼女たちが現れた。


 一人は好奇心に溢れ、もう一人はそんな妹の利発さに圧倒されて。だが、どちらも陰ることなくギデオンの記憶に残り続けている。


(もし、あの二人の師にならなかったら)


 ハッとする思いだった。今の今まで、彼女たちの師匠であることが彼にとっても当たり前のことだったからだ。一剣士として戦うのではなく、それを教える者として振舞うということ。師としての威厳を保つために自らを律すること。


 ギデオンは、自分が本質的には不出来な人間だと自覚している。自堕落さを押し込めて、謹厳実直な剣匠という評判を獲得出来たのは、あの二人がいればこそだ。


(私があの子たちを鍛えるのと同時に、私もまた鍛えられていたのだな)


 それは彼にとっても、新鮮な気付きだった。


 彼の元に残ったもう一人の弟子は、あの林檎の樹に手を添えて、微動だにしなかった。ギデオンは少しだけ躊躇ったが、「ユディト様」と声を掛けた。


 ユディトが、ゆっくりと振り返った。驚いたように目を見開く。ギデオン自身、気付かない内に忍び足になっていたらしい。


「おかえりなさい、ギデオン。戻っていたんですね」


「つい先ほどです。議会に、事の報告をして参りました」


 一見、普段と変わらないように見えた。だが普段通りと言うなら、こんな場所に一人で突っ立っていたりはしないだろう。


「その剣は……エルバールですか?」


「はい」


「そう……そう、ですか」


 ユディトは表情を曇らせた。エルバールを持たされるということは、最も危険な戦場に送り込まれるということだからだ。


「私は大丈夫です。これ以上に心強い剣を持ったことは、かつてありません。何が相手であろうと切り抜けて見せましょう」


 彼らしくない大言だった。もちろんギデオンの腕前を考えれば、さほど大言とも言い切れないのだが。


「私は良いのです。それより……」


 何と言えば良いのだろう。ギデオンは分からなくなった。こういう時、ほとほと自分の無力さを感じさせられる。


 彼が言わんとしたことを、ユディトもまた察していた。それまで何とか保っていた表情にヒビが入る。


「ギデオン……私は、そんな……」


 彼女は笑って見せようとしたのかもしれない。だが、顔が微笑を浮かべるよりも、まなじりから水滴の流れる方が先だった。「あ、あれ?」ユディトは何とか涙を堪えようとするが、湧き水のように溢れてしまう。


「ご、ごめんなさいギデオン! 私は……本当は、そんな……!」


 何度も笑おうとして、だが果たせずに崩れて、それを何度も繰り返す。「ユディト様」堪らずギデオンは、彼女の名前を呼んでいた。次の瞬間、ユディトが彼の胸元に飛び込んできた。


 師匠の胸に額を押し付けたまま、細い肩を振るわせて嗚咽を漏らす。もちろん、ユディトに下心など一切無かった。ただ今は、自分の泣き顔を預けられる人に縋っていたかったし、ギデオンになら弱みを見せても良いと思っていた。



 仮面を外して、素顔のままでいたかった。



 だが、ギデオンはかえって、自分の被っている仮面が激しく揺さぶらたように感じた。



 こうして間近で触れると、今まで目を逸らし続けてきた全てのものが、ギデオンという一人の男を動揺させた。


 滝のように流れる金色の髪の重みが、たおやかな腰の曲線が、ひそやかに匂う鈴蘭の香水が。何より藍玉よりもなお美しい涙が、今まで閉じたままだったギデオンの目を開かせた。


 そこには最早、自信無さげな幼い少女の面影は残っていない。


 涙を流す姿すらも可憐に見える、清純な乙女に変わっていたのだと、ギデオンはようやく気が付いた。

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