「見えたぞ、ディルムンが見えた!」
救征軍の前衛から上がった声は、すぐに全体へと伝播していき、その過程において当然カナンも知るところとなった。
がたがたと揺れる馬車の中で何とか報告書に目を凝らしていたカナンは、それをガラスの文鎮の下に敷いて、馬車を飛び降りた。近くを守っていたラヴェンナ兵たちも、互いに顔を見合わせて浮足立っている。
難民たちも、遠方に静かに佇んでいるディルムンを一目見ようと、馬の背や馬車の屋根に登っていた。一人がカナンの姿に気が付いて声を掛ける。「登っても良いですか?」すぐに何本もの腕が伸びてきた。
引っ張り上げられたカナンは、馬車の屋根から棄てられた街の姿を見た。
ディルムンはかつて、エデンへの関所として機能した城塞都市である、と言われている。旧世界が崩壊し、世界が闇に包まれた際に、この街は神から燈台も天火も受け取ることが出来なかった。
闇は軍勢や武器と共に市街を呑み込み、辛うじて逃れ得た人々も、世代を経るうちにこの街のことを忘れた。
だが、使われることなく遺された巨大な城壁は、長い歳月を経ても依然その姿をとどめている。周囲には河川の流れを変えて造られた巨大な堀があり、正門に続く石橋以外に入れる場所は無い。都市の防衛を目的とした設計ではあるものの、前回の救征軍が訪れた時にはすでに、城門は開け放たれたまま放置されていた。
その城壁の向こう側までは、さすがに瘴土の中ということもあって見通せなかった。だが、カナンはディルムン内部の地形をある程度把握している。正確には、オーディスが把握していたのだ。
(……ついに、ここまで来た)
カナンも、あのディルムンという街には因縁めいたものを感じていた。訪れたのは今回が初めてだが、憧れを抱いた人物が最期を迎えた場所なのだと思うと、自然と肩が強張るのを感じた。
ここまでの行程は、出来過ぎだと思えるほどに順調だった。大小四十回以上の遭遇戦を経てなお、戦力低下は極めて軽微な数に抑えられている。もちろんカナン自身の心情としては、人命を数字として計算することに罪悪感を抱いていたが、冷徹に見れば非常に
無論、偶然などではなく、いくつかの要因が影響している。
一つは、前回の救征軍が残してくれた様々な行軍基盤を、ほとんど修理することなく利用出来たこと。
例えば橋梁や道路などがあらかじめ整備されていたために、大規模な修繕に時間を取られることが少なかったのだ。もちろん三年以上の年月が経っているため検査は必要だが、一から橋を造り直すのとでは、労力に雲泥の差がある。
仮に丸一日かかる工事を半日に短縮出来たとすれば、その分の物資を温存することが出来るし、逆に休息のために充てることも出来る。道路も同じで、路上に邪魔な物が少ないというだけで、馬車の動きは格段に軽快になるし、故障の頻度も減るのだ。
第二に、前回投棄された物資を回収、利用出来たこと。食料品はさすがに危ういため捨てざるを得なかったが、火酒のように酒気の強い酒などは、かえって樽の香りが移って美味くなっているほどだった。
本職が祭司であるカナンはさほど酒を飲みたいと思わないのだが、他の人間にとっては思った以上に重要な物だと再認識させられた。褒賞に酒をちらつかせただけで能率の上がった部隊もあったほどである。
他にも工事のための建材や薪、そして羊毛や、少数ながら書き物に使えるだけの紙も残っていた。
意外に嬉しかったのが、羊毛が残っていたことである。これらは虫害を受けやすく、実際に劣化しているものが大半だったが、燻してやれば用便の際の拭き物として使える。
些細なことに思えるが、案外、こうした小さな改善点こそが、生活の質そのものを飛躍的に向上させるのだ。
そして第三の要因だが、これは人材の多様性に起因している。
カナンやオーディスといった上層部だけを見ても、様々な分野の技術や経験を得てきた人々であり、問題に突き当っても手詰まりになることがない。
特にアブネル率いる精鋭部隊は、一人当たりの能力が都外巡察隊以上の水準にあり、辺獄という過酷な環境下でも何事も無いかのように道を切り拓いてくれる。
殿軍を務める操蛇族もまた、縁の下の力持ちとして全軍を支えてくれている。
だが、前回の救征軍が質の低さを数で補っていたのに対して、今回は戦闘員の少なさを質で補っているのが現状だ。以上に挙げてきた数々の優位点があればこそ成立しているが、一つ歯車が欠ければ途端に瓦解してしまうだろう。
そしてこの先に待ち受けているディルムンにおいては、カナンが望むと望まざるとに関わらず、少なくない犠牲を出すことを覚悟しなければならない。オーディスも可能な限り損害を減らす方向で作戦を立ててくれてはいるが、市街戦の困難さは並々ならぬものがある。
(何より……)
加えてもう一点、カナンはどうしても懸念せずにはいられない事柄があった。
◇◇◇
ディルムンの対岸に陣を敷いた救征軍は、そこで一旦全軍を休息に入らせた。もちろん警戒や攻略戦の準備をする者は、休んでいる者を横目に見つつ仕事を続けなければならない。そしてそれは、本営に集められた幹部たちも同様だった。
本営となる天幕の下には、補給部隊の指揮のために出ているクリシャを除いて、カナンやペトラ、ヒルデ、アブネルといった幹部級の面々が勢ぞろいしている。彼らに見守られながら、オーディス・シャティオンはディルムンの地形図と駒を並べた。
「それでは、ディルムン攻略作戦についての説明をさせて頂きます。
作戦目標は、都市中心部にある動力塔に到達し、これを再稼働させることです。市街に光が戻れば、その時点で夜魔が湧き出してくる事態は回避出来る。
さすがに大燈台の天火まで元通りにすることは不可能ですし、したがってネフィリムほどの夜魔までは止められないかもしれませんが、軍勢を相手取るよりは遥かに楽になります。
しかし、地図をご覧いただけば一目瞭然ですが、ディルムンの形状は動力塔を守ることに特化しています。外郭部の大城壁を突破するのは容易ですが、内部には三重に水堀と城壁が築かれており、しかも大群を通過させるための大通りは一切存在しません」
地図を覗き込んでいたペトラが「うへぇ」と声を漏らした。
「見るからに住みにくそうな街だねぇ。買い物に行くだけでも一苦労だったろうに」
彼女の言う通り、ディルムンの交通路は全て城壁と水堀によって分断されており、意図的に人の流れを阻害するように出来ている。パルミラも似たような造りではあるが、いくつか大通りを整備していたあの街とは比べられないだろう。
「城塞都市というのはそういうものじゃよ。人通りが良いということは、逆に言えば大軍も通り易いということじゃからな」
ゴドフロアは灰色の髭を撫でつけた。かつてエマヌエルと共に戦っただけあって、彼はこの街の堅牢さを嫌と言うほど理解していた。
「無理に細い道路から攻め込もうとすれば、たちまち渋滞して、後はすり潰されるだけじゃ。相手が人間でなく夜魔だとしても、事情はそう変わらん」
「卿の仰る通りです。前回この街の攻略に失敗したのも、つまるところは戦力が分断し、孤立してしまったからです。いかに強力な戦士や継火手と言えど、周囲を完全に囲われた状態での戦闘には限界があります」
「じゃあ、どうするんだい。まさか壁を全部ぶち抜いて行くとでも言うつもりかい?」
「それが出来たら楽だろうが……もっと簡単な方法がある」
オーディスは地図の上に並べられていた、竜の形の兵棋を手に取った。
そして、それを動力塔と書かれた位置にポンと置いた。
「……は?」
「こうすれば良い。わざわざ攻めにくい市街地を通っていく必要も無いだろう?」
呆気にとられたのは、何もペトラだけではなかった。軍事に通じているゴドフロア以外の全員が同じような表情を浮かべている。
「え、これだけですか?」
カナンまでもが、オーディスの考えについていけず間の抜けた返事をしてしまう。だが、それも無理からぬことだった。
何しろツァラハトに生きる人々が戦争というものを忘れて、数百年にもなるのだ。その間に戦術や戦略は大きく後退してしまい、新たに研究しようとする者も少なくなった。
仮に革新的な戦術論を生み出したとしても、それを実戦で活用する機会はほとんど巡ってこない。故に、戦術論や運用論の研究も行き詰ってしまうのである。
そんな現状を鑑みれば、オーディスの作戦案は大胆どころの騒ぎではないし、カナンたちの反応も当然のものであった。
「もちろん、ただ竜を飛ばすというだけの話ではありません……と言うよりも、これ以外に方法が無いのです」
「と、言うと?」
「何をおいても、戦力不足が祟っているのです。純戦闘員だけで構成されていた前回と異なり、今回は戦闘要員を遥かに上回る数の非戦闘員を抱えている。夜魔が人間の暗い感情を嗅ぎ付ける性質を持っている以上、ろくに戦えない彼らに護衛をつけないわけにはいかない。
そうなると、まともに戦闘に参加出来るのは良くて半数程度……正攻法で動力塔にたどり着くのは、まず不可能と考えるべきでしょう」
実際に数字を出されると、誰も反論出来なかった。
「むしろ、良くここまで来られたもんだねぇ……」
ペトラはしみじみと呟いた。大坑窟にいた頃から無茶な戦いばかりを繰り返してきたが、冷静に振り返って見ると全て綱渡りである。
それでも生きながらえてここにいることに、深い感慨を抱いた。
「ちなみに、竜に乗ってもらうのは君だぞ?」
「んあぇ?」
ペトラが目を丸くする。オーディスは溜息をついた。「それはそうだろう」
「君以外に誰が動力塔を復旧させられると言うのかね。無論、最精鋭を護衛につけるが……」
「じゃ、じゃあ私も……!」
椅子を鳴らして立ち上がろうとするカナンを、オーディスは視線で咎めた。
「貴女が討たれてしまったら、この遠征は失敗なのですよ。その意味が分からないわけではないでしょう」
そう言われると、黙るしかなかった。
「そいつの言う通りだ。貴女は本陣に残ってくれれば良い」
今まで腕を組み押し黙ったままだったアブネルが、初めて口を開いた。
「最精鋭といったな。つまり、俺の部隊から腕利きを選んで連れていく、ということか」
「その通りだ。人選は貴公に任せる。ただし……」
アブネルは鼻を鳴らした。彼の言わんとしていることくらい、簡単に察せられた。そして、それはカナンにしても同じことだった。
「イスラも、ですか」
「無論です」
そう言われるだろうことは分かり切っていた。戦力の観点から言うと、彼はカナンの分身のようなものである。総司令官を最前線に立たせるわけにはいかない以上、彼がその役目を引き受けるのは当然の運びであろう。
「彼には追って、私の方から伝えておきましょう。もっとも……」
「嫌とは、言わないでしょうね」
カナンは苦笑を浮かべながら、そう呟いた。
◇◇◇
作戦会議が終わり、ペトラたちが天幕を出ていった後も、カナンはその場に残り続けていた。作戦についてオーディスと言葉を交わしつつ、それ以外には何も考えていない風を装って。
だが、時を見計らって、カナンは切り出した。
「オーディスさん、一つ質問があります」
「何でしょうか」
兵棋を片付けるオーディスは、カナンと視線を合わせない。あるいは、合わせようとしないのか、とカナンは勘繰った。
「物資は、最後までもちますか?」
カナンは彼の指先をじっと見つめていた。彼の手の動きには、澱みが全く認められなかった。
「案じておられますか?」
「気にしないわけにはいきませんよ。食べ物が無かったら、遠征どころではありませんから」
それもそうですね、とオーディスは笑う。だが、視線が重なることは無かった。
「実は、補給物資が徐々に減らされています。恐らく供出を渋った煌都側による小細工でしょう。箱に多めに藁を詰めるなどして、実際の量をごまかしています」
カナンは大して驚かなかった。それくらいのことはされるだろうと、彼女自身予測していたからだ。
だから、実は援助物資を求める際に、カナンもある小細工を仕込んでいた。
「それなら大丈夫ですね。実は、救援物資の要請書は少し大げさに書いてあるんです。だから、少し減らされたくらいが適当でしょうね」
「貴女も存外、抜け目がない」
「鍛えられましたから」
カナンは軽く肩を竦めた。実際、この旅に出る前と後ででは、自分もずいぶん世慣れて逞しくなったと思う。
それこそ、オーディス・シャティオンのような男と腹の探り合いを出来る程度には。
「案じられずとも、物資には十分余裕があります。ここまでの行程も、予想より何倍も早くたどり着くことが出来ました。時間は我々の味方です」
「……ですか」
カナンは彼の言葉に嘘を見つけられなかった。事実、オーディスは何一つ嘘をついてはいなかったのだから。