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【第百九七節/廃都ディルムン 下】

「やはり気づいておられたか」


 カナンを残して天幕を出たオーディスは、人知れずそう呟いた。


 決して彼女を低く見積もっているわけではないが、まだ物資が潤沢に残っている状況で気付くあたり、指揮官として優秀な危機管理能力を持っていると言えるだろう。


 あるいは、それくらいの注意深さが無いと、ここまで旅を続けられなかったのかもしれない。


(さて、どうしたものか)


 物資の出し渋りが生じるであろうことは、オーディスも予測していた。だからこそ、前回の遠征の基盤を徹底的に利用して、強引に旅程を短縮させたのだ。


 今は何もかもが順調で、彼の描いた通りの脚本をなぞっている。


 だが、一つだけ気になることがあった。ハルドゥスからの警告である。


(まさかハルドゥス殿が、冗談を言うとも思えんが……)


 ラヴェンナに緊急事態発生。クリシャのもたらした走り書きだけでは、あまりに情報が少なすぎる。いくら旧知の仲とは言え、あれだけで撤退の判断を提言することは出来ない。


 逆に考えると、その程度の情報しか収集出来ない有様なのだという想定も、一応は成り立つ。恐らくラヴェンナ上層部……ギヌエット大臣あたりが緘口令を敷いているのだろう。民衆に混乱を広げたくない何かが生じたのかもしれない。


(……だが)


 オーディスは周囲を見渡した。


 炊事係の女たちが料理を作り、難民や兵士たちが入り混じって列に並んでいる。一方では、ディルムンの堀から水を汲んできた連中が、風呂の準備を始めようとしていた。方々で火が焚かれ、行きかう人々の影を映した。


 岩堀族の技師たちが装備の点検を行っている。その中にはペトラの姿もあり、膝の上に置いた分厚い技術書をまじまじと読み込んでいる。


 またあるところでは、非番の闇渡りたちが火酒の入った杯を片手に、吟遊詩人の歌に聞き入っていた。



『月は星辰と同じく 


 常に変わらざる信あつき我が親友


 まこと彼らを措いて 我が家を訪れる者はない


 月は彼の貧しい友のため


 白金の毛皮をはなむけては


 我が家の庭に敷き詰める。


 私は王者の如くその上を歩みながら


 盛んなるべき 朝を夢見る』



「盛んなるべき、朝を夢見る……か」


 思わず歌の一節を口ずさんでいた。月に始まり朝で終わる詩句は、完成されていて美しいと感じる。


 辺獄の中では、月の光と言えど霞んでしまうものだ。だが、この人々の活気があれば、鬱陶しくまとわりつく暗闇も逃げていくかのようだった。


(……エマ、君にも見せたかった)


 きっとエマヌエルが目指していた世界というのは、このような姿をしていたのだろう。人々が出自によって隔たれることなく、共に手を取り合って歴史を紡いでいく世界……前回の救征軍は、あくまでラヴェンナの貴族を主軸とした軍隊だった。だが、今は違う。


 カナンの引き連れてきた難民たちと、未だエマヌエルの理想を憶えている人々によって、この第二次救征軍は運営されている。エマヌエルが死せども、その理想はしっかりとした形を伴って生き続けているのだ。


(だから)


「……やめたくは、ない」


 オーディスの胸に、一瞬チクリと針を刺すような痛みが走った。


 それが後ろめたさであることは百も承知であった。だが、彼はそれ以上そこに目を向けようとはしなかった。




◇◇◇




 目当ての人物は、ちょうど見張りを終えて非番に切り替わったところだった。野営地に戻ってきたばかりのイスラに向かって、オーディスは声をかけた。


「イスラ、少し良いか?」


「手早く頼むぜ。腹が減った」


 サイモンたちに先に行くよう促してから、イスラはオーディスの方に向き直った。


「で、何の用だ?」


「ディルムン攻めについての相談だ」


 オーディスは先ほどの会議で出した提案を、一通りイスラに語った。彼は顔色一つ変えずに「分かった」と了解した。


「言いつけておいて何だが、危険な任務だぞ。怖くはないのか?」


「怖いよ。だから、出来るだけの用心はしていくつもりだ」


 重要かつ困難な仕事であることはイスラも分かっているはずだが、彼の表情には一切の気負いが無かった。無理をしているようにも見えない。イスラの精神は凪いだ湖面のように安定している。


「……良い顔をするようになったな」


 思わずそんな言葉が出た瞬間、イスラが渋面を浮かべた。この男の誉め言葉には用心すべきだ、と思い込んでいたからだ。


「私は、そんなに信用ならないかな」


 オーディスは小さく肩を揺らした。初めて会ってから決して短くはない時間が経ったが、どうやら未だに警戒を解いてもらえないらしい。自分がそこまで胡散臭く見えるのだろうかと、少々おかしな気分になった。



「信用は、してる」



 だから、イスラの回答は少々意外だった。


「本当か?」


「嘘言ってどうするんだよ……俺とカナンだけじゃ、ここまで来ることは出来なかったしな」


 イスラは、暗闇の中で不気味に聳え立っているディルムンの城壁を眺めながら、そう言った。


「俺たちはいつも行き当たりばったりで、状況に振り回されっぱなしだった。ウルクの時もそうだったし、パルミラでも同じだ。あいつは困ってる連中を見棄てられない……」


 オーディスも胸の内で首肯した。彼女が他者の犠牲を甘受するとは思えない。


「逃げても良いって、何度も言ってるんだけどな」


「それは困るな」


「ああ。あいつは聞いちゃくれない。だからどこまでも一緒に行ってやるしかない。でも、俺に出来ることなんて、所詮その程度しかないんだ」


 ふと、初めてイスラと出会った時のことを思い出した。あの時も自分たちは、街の外側に立っていた。


「今でもまだ、負い目は残っているかね?」


「無いよ、もう。ただ、力不足だって感じはしてる」


 イスラは己の右手に視線を落とした。何度か指を広げては、折りたたむ。彼の言う「力」が何であるのか察せられないほど、オーディスも愚鈍ではない。


 そして彼自身もまた、イスラと同じ無力感を覚えたことがあった。だからなお一層、今のイスラの心境も理解することが出来た。


「……今だって、俺にあんたみたいな能力があったらって、そう思うよ」


「やめておいた方が良い」


 咄嗟に口をついて出た言葉が、それだった。イスラは不思議そうにオーディスを見つめている。


「俺には無理ってことか?」


「……そういう意味ではない」


「じゃあ、何だよ」


「……」


 オーディスはしばし押し黙った。考え込むように俯き、何度か顎に片手を当てる。


 こんなことを彼に話すべきだろうか。すこぶる個人的な、ほとんど恥とも言えるようなことを……。


(だが、いつまでも誤解されたままでいたくない、な)


 彼には珍しく、その決定は葛藤を含むものだった。だが、次に顔を上げた時には、確かな決意の色が宿っていた。


 イスラはそんな彼の眼差しを見た記憶があった。ギデオンとの決闘の直前、彼から発破をかけられた際のことを思い出した。


 あの時もオーディスは、彼らしからぬ愚直な言葉で自分の背中を押してくれた。


 正直なところ、今もまだオーディス・シャティオンという人間のことが、良く分からない。その時々によって、被っている仮面の種類が変わるからだ。


 その仮面の奥にあるものを知ってみたいと、イスラは思った。



「私は……シャティオン家の正式な跡取りではない。父親は前領主だが、母親はどこの誰とも知れない娼婦だった」



 イスラの顔の一部がぴくりと動いた。一つ腑に落ちたことがあったからだ。現在、救征軍に同行しているヒルデ・ブラントは彼の従妹だが、あまり外見が似ていないのである。もちろん血の繋がりが薄いからだと言えばそこまでだが、訝しむ者は多かった。


 だが、私生児とはいえまさか娼婦の子供だとは、イスラも予想していなかった。そんな彼の考えを読み取ったのか、オーディスは苦笑交じりに「好色な人だったのさ」と言い添えた。



「それに母……いや、義母は不妊の人でね。カナン様といると分かるかもしれないが、継火手というのは社会から結婚と出産を強いられる立場だ。逆に言えば、子供を産めないことは大変な不名誉として扱われる」



「下らねぇな」



「ああ、そうだな。義母もそう言い切ることが出来れば、楽だったろうが……」



 ついぞ割り切ることが出来ないまま、義母も父親の後を追うように死んでいった。その時、彼は一切の痛痒を感じなかった。



「義母は私に、一流の貴族として生きていくための全ての技術を叩き込んだ。文字通り、骨身に刻まれたよ。

 君がうらやんでくれた能力は全て、義母から与えられたものなんだ。もちろん、自己研鑽を怠ったことは無いがね」



 オーディスは月桂樹アウレア・ラウルスの柄を軽く撫でた。剣にまつわる思い出が、最も多くの痛みを内包している。



「……そうして出来上がったのは、心の無い人形だった。父や母にとってはそれで良かっただろうし、私も別に構わなかった。

 だが、彼女だけは……エマだけは、僕の心の空洞を見抜いて、泣いてくれたんだ」



 ――イスラが泣かないから!



 ――あなたが泣かないから……それが悲しいから泣いているんです。



 オーディスの告白は、イスラの中にあった記憶をも刺激した。


 あの時のことは今も鮮明に胸の内に焼き付いている。それは、凍えた手を焚火にかざした時のように、痛みと温かさを同時に覚えた経験だった。



「君にも覚えがあるか?」



「……ん」



「そうだ。初めて君とカナン様のことを聞いた時から、私は何か相通ずるものを感じていたんだ。

 迷惑な話かもしれないが、私はずっと、君たちに在りし日の自分たちを重ねて見ていたのだろう」



「だからエデン行きに手を貸してくれたのか?」



「あくまで理由の一つとして、ではあるがね」



 今までオーディス・シャティオンという人物に対して抱いてきた疑問のいくつかが氷解するのを、イスラは実感した。


 彼の話を裏付ける証拠などどこにも無いし、単に自分を信用させるためにでっち上げたと考えることも出来る。自分の危険な出生を明かすなど、よほど信用しているか、あるいは馬鹿でなければやらないだろう。ましてや、彼のように社会的地位の伴っている人間ならなおさらだ。


 だが、そういった細かい疑惑など問題ではないとイスラは思った。彼の言葉は信じるに足ると思った。


 より正確に言えば、信じたかったのだ。


 心のどこかで、オーディスのような力を手に入れたいと欲している自分がいる。イスラはそんな自分自身をしっかりと自覚していた。


 そうした己の心の動きを、イスラはあえて無視することにした。もし自分とオーディスを同一視したいという欲望を認めてしまえば、それはある種の敗北に繋がるような気がしたからだ。


(馬鹿か、俺は)


 そんな欲望を知りながら、つまらない意地で見て見ぬふりを決め込もうとしている……そういう心の動きさえも俯瞰して見ている自分がいる。まるで入れ子細工のように。


 知っていながら、知らないふりをする。子供には持ちえない狡さだ。


(よくよく俺も、我が強くなったもんだな)


 イスラは苦笑した。オーディスが怪訝な表情を浮かべる。


 しかし、様々な感情が雑煮ハリスのように煮立っているこの心持ちこそ、カナンが自分にくれたものではないか。


「何か、ごちゃごちゃ考えちまってさ。あんたの言ったこととか、自分のこととか」


「また君を混乱させてしまったかな?」


「そんなのいつものことだよ。俺はカナンみたく頭が良くないからさ。ちょっと片づけに手間取ってる」


 だが、こういう風に思い惑うことも、カナンと出会わなければ決して体験し得なかっただろう。それはオーディスも同じに違いない。


 だからきっと彼も、この困惑に伴う幸福感を知っているのではないか、とイスラは思った。


 己を知り、自我を探らんとする痛みと幸福とを。


「……ディルムン攻めの件、確かに聞いたよ。俺が空けている間、カナンを頼む」


「ああ、命を賭して御守りしよう」


 その一言をイスラは信じることにした。

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