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【第百九八節/ディルムン攻略戦 二】

 空を飛ぶ生き物に乗ったのは、これで二度目だな、とイスラは思った。ユランの巨大な翼は、まとわりつく瘴土の闇を風と共に切り裂いて進む。翼を動かす筋肉のうねりのせいで乗り心地は悪く、しかも真正面から冷たい風が吹きつけてくるが、イスラは悪い気はしなかった。


 もし生まれ変わるようなことがあったら、その時は操蛇族か風読みあたりに生まれてみたいものだ。


 幾重にも張り巡らされた城壁と水堀の先に、廃都ディルムンの燈台が鎮座している。一般的な煌都の大燈台より小規模とは言え、荒れ果てた辺獄の中にあっては一際大きな建造物であり、ずんぐりとした形状は得も言われぬ威圧感を醸し出していた。


 真上から市街を見下ろすと、まるで汚泥の巻き上がった下水を見ているような気分になる。濃厚な闇が見捨てられた街の隅々にまでいきわたり、かつてそこにあった生活の名残の一切を塗りつぶしていた。


 ふと脳裏に、墓標の街、という言葉が浮かんだ。あまり詩情というものを持ち合わせていないイスラだが、ディルムンの静寂と荒廃は、人が訪れず忘れ去られた墓地を十分に想起させた。


「ぞっとしないね、あそこに降りていくなんて……」


 前方の鞍に座ったペトラの呟きが聞こえた。士気を落とさないよう小声で言ったのだろうが、イスラの耳にはしっかりと届いていた。


「歩いていくよりずっと良いだろ? 相当、楽させてもらってると思うぜ?」


「そりゃそうだけどね……」


 ペトラはまだ何か言い足りないようだったが、長々と雑談するほどの飛行時間ではなかった。「降ろせ」アブネルが例の、大声でない割に良く聞こえる声で、降下命令を下した。


 着陸地点は、ディルムンの燈台前広場である。


「……行くぞ!」


 竜の脚が地面に着くより先に、イスラは飛び降りていた。着地と同時に身体を転がして勢いを殺し、立ち上がりの動作と連動して明星ルシフェルを抜く。


 闇の澱みの中に、蒼い光が瞬いた。


 続いて、アブネルら精鋭部隊も続々と降下してくる。イスラほど派手に降りた者はいないが、すぐに体勢を立て直して伐剣を抜き、周囲を警戒する。


「あ、あたしも飛ばなきゃダメかい!?」


 ペトラが竜の上から恐々と下を見下ろす。着地していても、脚の短い彼女には酷な高さだ。「……無理するな」アブネルは子犬を持ち上げるようにペトラの両脇を抱えると、そっと地面に降ろしてやった。


「あんがと。いいとこあるじゃないの」


「……フン」


 ディルムン燈台の入り口は、第一次救征軍が侵攻した際に開かれたままになっている。ラヴェンナ王女エマヌエルの放った法術によって無残に吹き飛ばされた正門は、神話に出てくる海竜レヴィアタンの口のように大きく広がり、暗闇のために全く奥を見通せない。


(オーディスの女は、この中で死んだのか)


 もし仮に彼女の死体を見つけたとしても、オーディスには見せない方が良いだろう。


「踏み込むぞ。全身を目玉にしたつもりで見張れ。何が出てきても、基本は三対一、無理なら二対一で手早く片付けろ。

 聞かん坊、先頭は貴様だ」


「それ、俺のことか?」


 イスラは自分の顔を指さした。アブネルの後ろから強面の闇渡り連中がズイと首を突き出した。


「手前以外にいるか、ボケ!」

「小便垂れでもいいぜ!」

「この洟垂れが!」


「……聞かん坊でいいや」


 イスラは「やれやれ」と肩を竦めた。誰かが唾を吐いた。


 アブネルは懐から、色ガラスを嵌め合わせて作った小さな瓶を取り出した。一見すると香水の容器のように見えるが、中には乳香の樹脂が詰められている。「火」「ん」イスラは明星の切っ先に小さな火を灯し、それを瓶の中の香に移した。


 すぐに白い煙が立ち上り、玄妙な香りが辺りに漂った。瘴土の中の嫌な臭気の中にあって、そこだけが清浄な空気となっているかのようだった。


 これは魔除けの護符……ではなく、時計代わりである。中の乳香が燃え尽きるまでに目標が達成出来なければ、作戦は失敗だ。


「操蛇族は上空で待機だ。こちらからの合図を見落とさないよう、目を凝らしておいてくれ」


「ちゃんと拾ってくれないと困るからね。万一の時は頼むよ」


 了解です姐さん! と威勢の良い声を残して、竜たちが上空に舞い上がった。


「御武運を!」


 暗闇の中に踏み込んでいく闇渡りたちは、各々振り返って手を振ったり、伐剣を掲げるなりしてそれに応えた。だがすぐに前に向き直り、明星を光らせるイスラの後に続いて、澱んだ闇の中に消えていった。




◇◇◇




 上空に昇った竜から赤色の閃光弾が投げられた。ディルムン城壁前の本営で防戦の指揮を執っていたオーディスは、見張りよりも先にその合図に気付いていた。


「突入成功、か」


 オーディスは呟き、机の上に置いていた瓶に、アブネルと同じように火を灯した。


 ここまでは予定通りである。敵の第三波も少ない犠牲で撃退することが出来た。やはりカナンが前線に出ると、兵士たちの士気も見違えるほどに向上する。


 だが、あまり危険に身を曝されているばかりでは、こちらの心労もいや増すばかりだ。


「オーディスさん、イスラたちは……!」


 一戦交えて戻ってきたカナンも、ディルムン上空で光った赤い閃光に気付いていた。馬から降りたカナンに、手伝いをしている少女が水を持って駆け寄った。「ありがとうございます」息を弾ませ、額に髪を張り付かせたカナンは、木の杯に注がれた水を一息に飲み干した。


「無事、突入に成功したようです。ここからは、ただ待つばかりです」


 すでに賽は振られた。後はイスラたちが神殿の深奥にたどり着き、ペトラの復旧作業が終わるまで持ちこたえてくれるのを祈るのみである。


 もし撤退しなければならない場合は、アブネルから合図が上がる手筈となっている。可能な限りの戦力を竜で回収し撤退、仕切り直しを図る。


 だが、最悪の状況は、誰も竜たちに危機を伝えることが出来ないまま全滅することだ。そうなった場合、オーディスたちはすでに潰えた希望に縋って戦い続けるしかなくなる。


(考えたくはないが……)


 全滅とは、すなわちペトラとイスラ、アブネルという救征軍の要石を一挙に失うことを意味する。その時点で、最早遠征の継続は不可能となるだろうし、何よりカナンの意志が挫けてしまうかもしれない。


 故に、作戦時間は絶対である。これが完全に消えてしまい、しかも誰も戻らなかった場合は、何もかもを諦めてラヴェンナに戻るしかない。


(戻れるのか?)


 ラヴェンナが、一度追い出した闇渡りたちを受け入れるとは思えない。それでも他に選択肢など無いので、そうするしかないが……。


 だが、オーディスの胸中にはもう一つの懸念が浮かんでいた。


 もし、戻った時にラヴェンナで異変が起きていたら? ハルドゥスからの不正確な情報を当てにして戻るべきだったのではないか?


「……何を今更」


「オーディスさん?」


 ふと目を上げると、こちらをじっと見つめるカナンの瞳とぶつかった。澄み切った蒼い虹彩の中には、彼女の善性と一緒に、全てを見通してしまうような聡明さも宿っている。


(浮気を絶対に見逃さない種類の女性だ)


 こんな時に何を考えているのかと自分を叱りたくなったが、同時に、イスラに対して多少同情のようなものが芽生えた。


「何か、ご懸念がありますか?」


「不安要素だらけです。待つというのは、しんどいものですね」


「私もそう思います。でも、イスラたちならきっと大丈夫だって、信じてます」


 カナンの言葉に嘘偽りは一切無かった。彼女は旅の仲間たちのことを信じている。


「きっちり仕事を果たして、帰ってきてくれます。だから、今は私も私自身の仕事をしないと……」


「でしたら、あまり前線に出過ぎないようにしてください。私がイスラから叱られる」


 カナンは微笑を浮かべた。


「イスラにそんなこと言う権利、あると思います?」


 敵襲! という声が聞こえた。オーディスが止める間も無く、カナンは馬の背に登って戦場へと飛び込んでいく。


「……あの二人、聞かん坊という点では全く同類だな」




◇◇◇




 アブネルに率いられた一団は、イスラの持つ明星の明かりを頼りに、暗闇の中を進んでいく。もちろん他の者も松明やランプを掲げているが、カナンから分け与えられた蒼い天火は、そのいずれよりも明るく輝いている。


 だが、空の星を捕まえて閉じ込めたかのような光をもってしても、ディルムンの神殿の隅々までもを照らすには至らなかった。


 彼ら闇渡りは、当たり前だが今まで燈台の内側に踏み込んだことなどなかった。だから、巨大な空洞の中を無数の回廊や階段が交差している様を見ると、そこに注ぎ込まれた途方もない労力に圧倒されてしまった。


 幾何学的な美観に基づいて配された回廊や階段は、途中で交錯や接合を繰り返しては、天井……天火の戴かれた燈台へと続いている。ちょうど真下から見上げると、様々な構造物が何らかの印を結んでいるように映るのだ。


 もっとも、長年放置され風化したため、それら構造物も所々崩れている。時折、頭上からパラパラと小石のような物が落ちてきたが、それらはこの建造物の耐用限界が近づいている証拠であろう。


 もし向かう先が屋上であったなら、階段を登るだけで一苦労だったはずだ。だが、今回向かうのは地下……かつてディルムン全体に魔力を供給していた動力塔である。


 この辺りの構造は、かつてペトラたちが囚われていた大坑窟と良く似ている。万一に備えて、動力源を燈台と動力塔の二つに分けておくのは、理にかなった考え方だ。


 無論、地下は神殿以上に濃厚な闇に包まれている。それでも、誰一人として躊躇う者はいなかった。さすがに百戦錬磨の闇渡りばかりであり、今回は技術者としてついてきているペトラも、潜り抜けた修羅場の数は彼らに勝るとも劣らない。


 そんな剛の者ばかりであるからか、未だに夜魔は現れず、予定より大幅に時間を短縮出来ている。アブネルは乳香の詰められた瓶を鼻に近づけた。まだまだ匂いは濃厚に感じられる。


 地下へと続く入り口は、神殿の中心部、様々な階段が集結する点に置かれていた。一部分だけくり抜いたかのように空洞が開けており、その空洞に添うようにして、長大な螺旋階段が伸びている。


 アブネルは足元に転がっていた石片を蹴落としてみた。音が返ってくるまでに、十数秒かかった。


 戦うにはあまり好ましくない地形だが、立ち止まっていても仕方が無い。空洞に落ちないよう注意を促しつつ、アブネルはイスラに続いて階段を下りた。他の者も彼らに続く。


 ここに来るまでに何度か見かけてはいたが、そこかしこに甲冑を着た人骨が転がっていた。以前にディルムンを攻めてラヴェンナ騎士たちの末路である。生者は誰しもが「ああはなりたくない」と思った。



「薔薇ぁ、をー、持つ人ー! 薔薇ぁにも、まごぉー!」



 急に誰かが歌いだしたため、全員がギョッとさせられた。しかも、悲劇的なまでに音痴である。階段の外側を歩いていた者が、危うくつんのめって空洞に落ちかけたほどだ。


 歌声は空洞の壁面に何度も跳ね返っては、波のように何度も押し寄せてくる。「うるっせぇぞクソバカ!」という文句もまた然り。


「何だよ、気分を盛り上げようとしただけじゃねぇか」

「危うく落ちかけたぞ、どうしてくれる」

「吐き気がするぜ、夜魔だって逃げ出すわな」


 おぇ、と実際に誰かが喉を唸らせた。


「こらっ! あんたら、こんなところで喧嘩するんじゃないよ!」


「……すまん」

「すんません、姐さん」

「俺ら皆仲良しでさぁ」


 揃いも揃って、叱られ尻尾を垂らした犬のようにシュンとしている。イスラは呆れ顔で「あんたら本当に腕利きかあ?」と疑義を呈するが、返ってきたのは盛大な罵声と罵倒だった。アブネルは普段よりもさらに声を落として唸った。


 そんな冗談じみたやり取りを経て、いつの間にか空洞の底にまでたどり着いていた。


「……今度は横方向、か」


 イスラの呟き通り、幅十ミトラ程度の回廊が伸びている。入口はアーチ状になっており、何らかの古文字が刻まれていたが、劣化しておりペトラでも読み解けない。だが、構造や表示から、この先が目的地であるとペトラは見抜いていた。


「あともうちょいだね」


「ああ……」


 底に行くにつれて、ラヴェンナ騎士たちの死体の数は減っていった。だが、継火手らしい服装の者は認められなかった。


(あるとしたら、この先か)


 見つけてどうなるものでもない。だが、イスラはオーディスに対して、ある種の義理のようなものを感じていた。彼女の死体が野ざらしになったままならば、せめて外套でもかぶせておいてやりたい。


 だが、イスラが回廊の中に一歩踏み込むと、それまで感じていなかった明確な敵意のようなものが満ちていることに気付いた。他の闇渡りたちも同様である。弛緩した空気を引き締め、武器を握る手に力を込める。


 回廊は、側面にいくつもの小部屋や小廊下を設けていた。暗闇の中から、こちらを覗いている者どもがいる。


 松明の光を向けられると、それらは恥ずかしがるかのようにおずおずと暗闇から姿を現した。


 一見、全裸の人間のようであった。しかし両腕の長さがそれぞれ不揃いで、極端に長かったり、逆に短かったりしている。血の気を失った皮膚には、所々黒い斑紋が浮かび上がってた。


 しかし何よりも異形感を醸し出しているのは、その頭部であろう。二つあった。普通の人間の頭に加えて、首の付け根あたりからもう一つ飛び出している。見者ハサイェの鹿を思わせる形状と、赤い目玉がぎょろぎょろと蠢いていた。


 それらは次々と小部屋の中から姿を現してきた。中には女子供の身体を持った者までいる。表情……少なくとも人間の頭の方には、それらしきものが認められたが、しかし直視し難いほどに醜悪な表情であった。


「こりゃまた、えげつないのが出てきたね……」


 ペトラの呟きに、それらは静電気に触れたかの如くびくりと身を竦めた。そしてそれぞれの身体に根付いた二つの頭から、苦痛に満ちた嗚咽を絞り出しつつ、正常な人間に向かって殺到した。

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