二つ首の
不揃いな腕は長さこそあるものの、腕力そのものは普通の人間とさして変わらないだろう。ただ、正気の人間ならば、自分自身の身を守るためにある程度力を抑えるものだ。筋や腱が切れていたり、あるいは骨を砕いてまで走り続ける者はいない。
だが、彼らにはそうした自己防御に関する欲望が欠如していた。文字通りの死に物狂いである。
枷を外された力は、同時に猛烈な勢いを生じるものだ。その勢いに押され、一人の闇渡りが押し倒された。
そして倒れた闇渡りの首筋に、人頭の方が歯を突き立てる。鹿の頭の方は何もしない。ただ、例の嘲るような眼光を湛えたまま、もう片方の頭の醜態を見守っている。
「何やってんだよ!」
イスラは
アブネルが負傷者の襟首をつかみ、自分の背後へと引きずり込む。すかさず他の闇渡りたちが壁となって布陣し、二つ首たちに相対した。
そんな中、イスラはふと違和感を覚える。息つく間もなく二つ首たちは襲い掛かってくるが、一体、また一体と斬り伏せるたびに、違和感は確信へと変わっていった。
「……こいつら、夜魔じゃない!」
普通の夜魔ならば、撃破した時点で灰と化す。しかし、今相対している敵は、斬ってもその姿を消さない。肩や首から生えている
暗さ故に判別し辛いが、血液の色も人間に近い。やや黒ずんでいるが、夜魔特有のタール状の体液とは明らかに異なっている。
「アブネル!」
イスラと同じ懸念を、アブネルもまた抱いていた。だが、彼は努めて冷静であることを己に課していた。
「騒ぐな。やることは別段変わらん。二対一を徹底し……!」
彼は反射的に横に跳んでいた。絶望的な死線を幾度も潜り抜けて鍛えられた危機感地能力が、無意識のうちに彼の身体を動かしていた。
つい先ほどまでいた場所を、伐剣が薙いでいた。彼が助けた闇渡りが、右手に剣をぶらりと提げていた。「貴様!」だが、アブネルは即座に異変に気付いた。
その闇渡りの首筋が泡立ったかと思うと、
さすがに、他の闇渡りたちも驚愕する。いずれも都外巡察隊士以上の経験と力量を持った連中だが、これほどまでにおぞましく、また心肝を寒からしめる出来事は初めてだった。
噛みつかれれば、怪物になる。それは、ただ死ぬよりもずっと恐ろしいことだ。しかも、その怪物とはつい一瞬前まで仲間だった存在である
イスラは直感的に、前回の救征軍が何故失敗したのか……すなわちエマヌエル・ゴートが何故死んだのか理解した。彼女は
不意打ちに対応出来なかったのか、それとも部下の姿をした夜魔を斬れなかったからか。よく見ると、二つ首の中にはラヴェンナ製の鎧を着た者も散見される。彼らもまた、この醜悪な怪物たちに呪いをうつされた者たちであろう。
「チッ」
アブネルの判断は早かった。今、自分が躊躇えば、間違いなく全滅する。
大ぶりな伐剣を振り上げ、せめて一撃で葬ろうとする。「待て、アブネル!」しかし、その刃が届くより先に、突進したイスラが明星で見者の首の方を斬り落としていた。それでもなお、憑依された闇渡りはイスラに噛みつこうとする。
「だったら……!」
右手の明星で相手の頭を殴り付けてよろけさせ、混血児を取り落とした左手にカナンの蒼炎を纏わせる。そして、聖なる炎で燃える左手を、斬り落とした方の傷口に突っ込んだ。
闇渡りの体内に侵入した天火は、そこに残っていた夜魔の残滓を悉く焼き尽くした。闇渡りが膝から崩れ落ちる。イスラはその身体を受け止めた。呼吸は荒いが、「恩に着るぜ……」と確かに人語が聞こえた。
「今度こそちゃんと休んどけよ」
他の者に押し付けると、イスラは混血児を拾い直して前線へとんぼ返りした。彼に先を越された時点で、すでにアブネルは全体の指揮に戻っていた。
「……悪くない仕事だ」
アブネルがそんなことを言った。イスラはギョッとしたように彼の横顔を見る。まさか夜魔にやられてはいなかろうかと、心配になった。
「勘違いするな。貴様の行動で、他の連中が安心した。この状況下ではそれが何より大事だ」
「そりゃ、どうも」
彼の言う通り、あの二つ首の特性は非常に危険である。ただでさえ精神が揺らぎやすい瘴土の中で、噛まれたら怪物になるという恐怖と戦うのは、いくら熟練兵でも至難の業だ。
そしてその恐怖が夜魔を呼び寄せる。結果として、二つ首と夜魔、両方を相手にしなければならなくなる。そうなりかねない事態を、イスラはたった一手で防いだのだ。指揮官の立場からしてみれば、たとえ気に食わない相手だろうと称賛せざるを得なかった。
イスラの殊勲があったとはいえ、依然として二つ首の脅威が薄れたわけではない。彼らは続々と横穴から姿を現し、その身に憑依した呪いを捨て去ろうと殺到してくる。
彼らにとって、呪いうつしも死も、等しく救済に繋がるのだ。恐らくは理性などとうの昔に消失しただろうが、発狂しても呪いは見逃してはくれないのである。
もう一人、防御に失敗した者が手首を噛みちぎられ、傷口から鹿頭が飛び出した。位置的にイスラも救援に回れなかった。闇渡りたちは即座に状況を呑み込み、夜魔に取りつかれた仲間に引導を渡した。
イスラ、ペトラを含めて残り二十九人。しかも、ここにいる者は一人当たり十人以上の戦力価値がある。あと四、五人倒されれば、撤退の判断を下すべきだとアブネルは考えた。
しかし、まだその時ではない。
「野郎ども、入り口近くの敵をどかせろ! ペトラ!」
あいよっ、とペトラが魔導書を開く。そこに挟んであった鉄欠を掴み、闇渡りたちが作った空間に向けて投擲する。
「我、真理を探る者也。巌の壁よ、立ち現われて我らを護れ!」
地面に突き立った鉄欠の紋章が光を放ち、大人の背丈以上の石壁へと姿を変えた。湧き出る敵が尽きないのであれば、出入り口を塞いでしまおうという魂胆である。
石壁の後ろからはしきりに拳を叩きつける音や、悲鳴、咆哮が聞こえてくる。しかし二つ首の腕力は所詮人間並みであり、いくら頑張ったところで石の壁は砕けない。
「このやり方でどんどん塞いでいくよ! それまで、やられたら承知しないからねッ!!」
「了解っす、姐さん!」
「頼りにしてますぜ!」
アブネル率いる一団は、その後も敵を排除しつつ、じりじりと前進を続けた。湧き出す敵の数を抑制出来たこと、手の内がある程度明らかになったことも相まって、それ以降犠牲者が出ることはなかった。
◇◇◇
とはいえ、楽な仕事で無かったのは確かである。
「糞面倒臭かったな、マジで……」
誰かの言ったその一言が、二つ首に対する感想のおおよそを表していた。他にも「年増の淫売を思わせるしつこさ」だとか「尻を狙うオカマ野郎」といった罵倒も散見される。
いずれにせよ、彼らは大いに疲れさせられた。理性の
闇渡りたちの世界で、言葉と言葉をもって和解が成立することは珍しい。大抵は戦いで決着をつけることになる。
しかし闘争の文脈の中には、死への恐怖という共通言語が織り込まれている。自分が死を恐れる時、相手もまた恐れている。
奇妙な話だが、殺す=殺されるという殺伐とした関係性の中には、相手に対する絶対的な信頼が内在しているのである。互いに絶対に倒さなければならない敵だが、人間性の底の底の部分では相通じているという確信。
だが、二つ首にはそれが無い。
彼らは口々に何かを叫んでいた。今もまだ、石壁の後ろから聞こえてくる。それは何かを痛切に訴えかけているようだが、どこまでも一方的なものに過ぎない。彼らの姿が中途半端に人間に似ていることも、かえって
自分たちが殺し、殺される時にさえ抱いている人間性、対話可能性……それが彼らには欠如しているのだ。
「連中の断末魔、憶えてるか?」
「思い出させるんじゃなぇ」
「ガキの悲鳴みたいだったな」
「俺はジジイの呻き声に聞こえた」
「……胸糞悪ぃ。まるで俺たちが悪者みたいじゃねぇか」
「悪者だろ? 俺ら」
「そりゃそうだが……ちょっと意味合いが違うな」
闇渡りたちが感想を共有する間、イスラも物思いに耽っていた。大体は彼らと同意見だが、一つ引っ掛かる点があった。
ペトラがそんな彼に「どうしたんだい?」と声を掛ける。
「いや……あいつら何だったんだろうな、って思ってさ」
明星と混血児で、一体どれくらい斬ったか分からない。一つ確実なのは、夜魔を斬る手応えではなかったということだ。
「あれは人間の、それも鍛えていない奴を斬った時の手応えだった」
「あんたもそんな経験があるのかい?」
「一度だけ、な。森の中で迷って、気が狂った商人を斬った時だ。あれと……いや、あれよりもっと
ペトラは何か分からないか?」
「あたしだって知らないよ。ただ、ここは何か変だね」
「変、って?」
「ただの燈台の動力部じゃないってことさ。少なくともウルクの地下はこんな風じゃなかったし、パルミラの燈台を見学させてもらった時も全然様子は違ってた。まるで、何かの工房みたいに見える」
「工房……」
「ただ、それにしちゃあ設備みたいなものが見当たらない。ひょっとしたら、あいつらの出てきた部屋の奥に何かあったのかもしれないけど……」
二つ首たちの這い出てきた部屋の奥に何があったのか、調べる術は最早ない。真実を見極めたいのであれば、この先に進むほかないのだ。
間もなく、高さ五ミトラ程度の大きな扉が姿を現した。
驚いたことに、開かれている。
何とか残った力を振り絞って押し開けたのであろう、身体を半身にしてようやく通れる程度だ。明星の光を近づけると、手形の血痕が付着しているのが見えた。指の長い、華奢な手だった。
(ここまで来たのか……)
武器を手放し、傷を負ったままここまでたどり着いたエマヌエルは、恐らくこの先で力尽きたのだろう。
「開けろ」
闇渡りたちが数人がかりで両開きの扉を開いた。重々しい音が響き、積もっていた埃が舞い上がる。
そこは、円形状の広大な広間だった。部屋の周囲には他に四つ、つまり計五か所の扉が設けられている。高さは二十ミトラほどもあるだろうか。明星の光で、ようやく天井まで照らせる程度だ。無論、光源などどこにも無い。
床には水脈のように魔法陣が走り、壁面は樹木を思わせる管で覆われている。そして中心部には、明らかに制御盤と思われる物体が鎮座していた。
「なあ、ペトラ」
「何だい?」
「カナンから聞いた話なんだが、ウルクもこんな感じだったんだよな?」
「そうだね」
「じゃあ、
何だ? と言ってイスラが指さしたのは、制御盤の真上。そこに、銀色の巨大な蛹のようなものが浮遊している。
「何だろうねぇ。少なくともタロスには見えないねぇ」
ペトラは頬に人差し指をあてて首を傾げる。アブネルは無言でイスラの肩に手を置いた。普段は悪態ばかりつく闇渡りたちが、信頼と親愛の念を込めてイスラの背中や尻をバシバシと叩いた。
「…………お前ら、覚えてろよ」
蛹の頭部らしき箇所に、赤い光が灯った。
上体の、人間ならば肩にあたる部位が左右に突き出し、その突起から機械音と共に二対六本の腕が展開する。その腕の先には、暗闇の中にあっても
イスラは忌々しさを溜息に込めて吐き出すと、両手の明星と混血児に秘めていた天火を解放した。蒼炎が両腕を肩まで覆い、彼の身体に力を与える。
銀色の蛹は、その輝きを刈り倒すべく、眼光を一層爛々と輝かせ突進した。