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【第百九九節/人造天使の神殿 上】

 ひんやりとした感覚が肌から伝わると同時に、カナンは目を覚ました。


 彼女が最初に目にしたのは、鏡のように磨き上げられた黒い床だった。夜闇を固めたかのようなそれが一体何で出来ているのか、頭の中の書庫を探っても分からない。


「起きたか?」


 イスラの声がした。カナンはかぶりを振りながら上体を起こした。


 振り返ると、大破した『蛹』の残骸にイスラが腰を下ろしていた。手に持っていた水筒から水を一口含み、栓をしてからカナンに向けて放り投げた。


 パシッ、と手の中に水筒が収まる。ずっしりとした水の重みを感じた瞬間、忘れていた喉の渇きがうずき始めた。


 残さなければならないと思いつつも、つい大きくあおってしまう。ハーブを漬けた水は清涼感があり、ひりつくような渇きに染み込んでいく。身体の芯にまで滑り落ちていくのを感じながら、カナンは深呼吸をした。


 少し冷静になる時間が必要だった。


「イスラ、ここは……」


「どこなんだろうな」


 イスラは苦笑しながら肩をすくめた。


 カナンは周囲を見渡した。背後と左右に壁があることから、何となくここが入り口であることは分かる。扉の類は無いが、旧時代の人間にとっては転移門さえあればそれで良かったのだろう。


 残る一方向に向かっては、巨大な列柱が何本も聳え立ち、天井を支えている。アラルトの発着場や大坑窟で見たような光源がいくつも埋め込まれているが、壁の色も相まって、あまり明るいとは思えなかった。


 瘴土の闇とはまた異質な不気味さが、この空間には満ちている。カナンはそう感じた。


「あ……」


 ふと天井を見上げると、そこには輝く石を嵌め込んで作られた紋章が浮かんでいた。


 花弁のような円環の中に、四つの翼の生えた卵が環を成して飛んでいる。そして、二重の環の中心には、金色こんじきの輝きを放つ眼球が置かれていた。


「あれは」


 忘れるはずもない。彼女はあの紋章が意味するものを、実際に目の当たりにしたことがある。名無しヶ丘の戦いの終盤、カナンは虐殺を止めるために熾天使の羽衣ラファエルズ・ローブを最大出力で発動させた。


 そしてその向こうに、翼を持つ卵たちが渦のように蠢く空を見た。


(あれを見たのは……知っているのは、私だけではない……?)


 肩にぞくりと悪寒が走った。今、何か気付いてはならないものに気付きそうになった。知ってはならない何かを知りかけた。子供の頃、はじめて「死」という概念を理解した瞬間を、カナンは今になって思い出した。



 死に匹敵する真実が、ここにはある。



 それは単なる直感に過ぎないが、カナンは確信した。


「カナン」


 そんな彼女の変化に気付かないほど、イスラも鈍くはない。むしろこの空間の異様さに関しては、より野性的な感性を持ったイスラの方が、強く感じていたほどだ。


 生まれてからずっと自然の中で育ってきたイスラにとって、この空間の極端なほどの無機質さは、ある種の諧謔や侮蔑さえ感じるほどだった。ここを造らせた者は、焚火の中で薪が弾ける音も、木々を揺らす風も、等しく無用と思うことだろう。


「あれが何か、分かるのか?」


 カナンは唇を固く結んだ。なかなか言葉が出てこなかったが、やがて絞り出すように「はい」と呟いた。


「座れよ」


 イスラは自分の隣に来るよう促した。そこにちょこんと腰を下ろし、カナンはイスラに、かつて見た光景のことを明かした。


 何故もっと早くに言わなかったのか、と怒られるかと思った。だが、イスラは『蛹』の上に座ったまま、黙って彼女の告白を聞いていた。そして最後にぽつりと、「もう使わない方が良いな」とだけ言った。


「……怒らないんですか? 黙ってたこと」


「何だよ、怒られたいのか?」


 意地悪そうな表情で、イスラはカナンの顔を覗き込む。


「いえ……」


「まあ一つ言わせてもらうと、もう無茶するなって言われたって、何の説得力も無いってことだな……いや、そりゃ前からか」


 くくっ、とイスラは喉を鳴らした。そして不意に、彼女の肩を強く抱き寄せた。


 カナンの心臓が驚きに跳ね上がる。ついさっきまで血の気が引いていたのが嘘のように、頬や耳が痛いほど熱くなった。頭の片隅で、そういえばこうやって並んで座るのは久しぶりだったな、と声がした。


「甘えてくれよ、カナン」


 普段はぶっきらぼうで、知らない人には冷たく感じられる彼の声が、今は少し柔らかく、そして湿っているように聞こえた。


「何が出来るってわけじゃないけど、一人で抱えてても苦しくなるだけだろ? それくらい、手伝わせてくれよ」


 カナンは初めて気付いた。イスラは今まで悲しみという感情を見せなかったが、それが現れる時、こういう声音になるのだ。


 分かってしまうと、尚更申し訳なくなった。


「……ごめんね、イスラ」


「謝るなよ」


「ん……」


 カナンはイスラの身体に頭を押し付けた。彼の言う通り、今は色々な心配事を脇に置いて、しばらくこうしていたかった。


 救征軍の総指揮官、難民の代表、蒼炎の継火手……そんな数々の肩書が、ここでは意味をなさない。そう思うと、この味気なく陰鬱な空間ですら悪くないものに思えてくる。


 誰かに身を寄せられるのは、実はとても贅沢なことなのだと、カナンは思った。




◇◇◇




 カナンの身体に力が戻るのを待ってから、イスラは「行くか」と声を掛けた。立ち上がった時は少しふらついたものの、しっかり歩くことが出来た。熾天使級法術は莫大な天火を使用するが、全て出し切る前にある程度余力を残していたのが功を奏したのだろう。


「行けます」


 二人は黒い回廊を真っ直ぐに進んだ。馬車を並べて置けるほどの横幅があり、現に何か大きな貨物を運んだような跡があった。


 辺りは静まり返っており、二人の靴音と話し声以外には何も聞こえてこない。普通はどんな空間でも臭いというものがあるはずだが、ここでは冷たい空気以外に、何一つ嗅覚を刺激するものがなかった。


 さしあたり、ディルムンに戻るための出口を見つけなければならない。ここへは転移門を使って入ってきたが、よもや出入り口が一つだけということは無いだろう。それでは、外で『蛹』が破壊された場合、内部の人間が出られなくなってしまう。


 歩き続ける間、イスラはディルムンの地下で起きたことをカナンに話した。特に、夜魔の首が埋め込まれた人間たちのこと。それらに噛まれると、夜魔が感染するということ。


 思い返すと、地下施設はどこか収容所を思わせるような構造になっていた。もしかすると、ここに二つ首の謎を解く鍵があるかもしれない。


「それにしても、せっかく二人きりになれたんだから、もうちょっと雰囲気のあるところが良かったな」


「もう……こんな時に何を言ってるんですか」


 カナンは口ではそう言うが、表情は柔らかかった。実際、彼と同じことを考えている自分がいると気づいていた。


 心配事が無いと言えば嘘になる。むしろ心配しない方が異常だ。


 置き去りにしてきた仲間たちのこと、この空間から出るための出口のこと……何もかも不確定な状況で、不安を覚えない方がおかしい。


 イスラが殊更に冗談を言うのは、そんな自分の心配を察してのことだろうと思う。元々、イスラはあまり冗談や軽口が上手くない。それでも無理をして言ってくれるあたりに、彼の気遣いが見て取れた。


 だから、そんな彼に応えなければならない……と考える自分は真面目だな、とカナンは思った。


「ねえ、イスラ」


「何だ?」


「もし、私とどこかに出かけるなら……どこに行きたいですか?」


 物言わぬ列柱の背後から、いつ何かが襲い掛かってくるか分からない。そんな不気味な空間でするには、あまりに不釣り合いな話だった。


「どこに、って……」


 歩みを止めずに、イスラはカナンの身体を横目で見やった。その視線がどこに向かっているか気付いたカナンが、ススッと距離をとる。


「今、ふらちなことを考えましたね?」


「……いや? 別に?」


「嘘! 絶対やらしいこと考えてましたよね!?」


 はぐらかすように、イスラはそっぽを向いた。


「もうっ、真面目な質問なんですよ!」


「別にふざけちゃいないよ」


 一度肩をすくめると、イスラは離された分の距離を詰めてカナンの横に立った。


 正直なところ、二人きりになれる機会があるなら、カナンを抱きたいというのが本音だ。イスラとて人並みの欲求はあるので、他の闇渡りが娼婦のところに行くのを見たり、新婚のサイモンの惚気を延々と聞いていると、さすがに苦しいものがある。


 ただ、そういう欲求をひた隠しにして、何事もないかのように振舞ってしまうところに、イスラという青年の難儀さがあるのだ。


「どうでしょうね。イスラにはむっつり疑惑が掛かっていますから」


「疑惑って、お前な……」


「じゃあ、興味無いんですか?」


 んぐっ、と呻き声が漏れた。


「お前な、どう答えさせたいんだよ」


「イスラが私の、その……か、身体を……いやらしい目で見るからです」


「その言い方やめろ」


「事実じゃないですか」


「そりゃぁ…………仕方ないだろ」


 イスラは負けを認めた。


(つくづく、こんな時に痴話喧嘩なんて……阿保か俺は)


 だが、カナンとのこんな他愛ないやり取りを楽しんでいる自分がいることに、イスラはしっかりと気付いていた。


 やはり自分は、カナンのことが好きなのだ。


(こんな場所じゃなかったら良かったのにな)


 墓所のように静まり返った回廊は、色恋の正反対にあるような空間だ。無機質な壁や天井を見ているだけで気が滅入ってしまう。


 もし行けるのであれば、どこにでも行きたい。パルミラのバザールや図書館、風読みの里の温泉や羊たちのいる丘、そして一人で旅をしている時に出会った様々な美しい場所……。


「カナン、お前はどうなんだよ。どこか行きたいところがあるのか?」


 そうですね、とカナンは少し顔を伏せた。六歩ほど進んだ時に、答えが出た。




「海に……行ってみたいです」




 海か、とイスラはオウム返しに呟いた。やはりと言うべきか、カナンらしい答えだな、と思った。


「イスラは見たことがあるんですよね?」


「ああ、一度だけな。タルシシュの近くを通った時だったか……でも、見ても面白くもなんともないぞ? 墨みたいに真っ黒だし、ただ波の音が延々と聞こえてくるだけで、何が綺麗ってわけでもない。そんなところで本当に良いのか?」


「はい」


 何で海なんだよ、とイスラは理由を問うた。するとカナンは、少し照れ臭そうに笑って答えた。


「子供の頃に読んだ詩が、すごく印象に残ってて……」


 それを聞いてイスラもなるほど、と思った。詩の世界観に惹かれたというのは、いかにもカナンらしい理由だ。


 どんな詩だったんだ? とイスラは尋ねようとした。だが、その寸前でカナンが「あっ」と声を上げた。


 見ると、回廊の奥に大きな扉があった。わずかに開いており、そこから白い光が零れている。回廊内に設けられた光源とは異なる種類の光だった。


 扉の前までたどり着くと、イスラは明星の柄に手を掛けながら、隙間から顔をのぞかせた。広大な広場のような場所に、無数の螺旋階段が木々のごとく据えられている。どこか大燈台の内部を思わせるような構造だった。


 建材の材質が、今まで進んできた回廊と全く異なっている。さっきまでは徹底して黒にこだわっていたというのに、今度は一転して純白の石材がふんだんに用いられていた。


 周囲に敵の気配はない。二人は扉の隙間から身を捻じ込んだ。


「燈台の中みたいだな」


「そうですね。でも、少し違うみたいですよ」


 頭上の空洞には、ディルムン燈台と同じように、橋や階段が入り組んで配置されている。だが、そもそも空洞の直径からして、ディルムンとは桁違いに大きかった。カナンが訪れたどの大燈台よりも大きいかもしれない。


 どのような理屈なのかは分からないが、空中には燈台をそのまま小さくしたような建造物がいくつも浮かんでおり、それらをつなぐように橋や階段が渡されている。その建物の形状は、どこか鳥籠を思わせた。


 そしてそれらよりもさらに高い位置に、白い光を放つ台座のようなものが見て取れた。


「……行くか、あそこまで」


「はい」


 二人は無数に伸びる階段の一つを選んで、のぼり始めた。

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