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【第百九九節/人造天使の神殿 下】

 カナンとイスラが消えた。


 そう聞かされた時、ペトラは尻もちをつかないよう、何とか椅子に座るのが限界だった。


 ディルムンの動力を復旧させると同時に、彼女はアブネルに号令を掛けさせて地下から撤退した。依然追いすがってくる二つ首たちを石壁やゴーレムで阻みながら、何とか地上に出て本隊と合流出来た。


 その矢先であったため、油断しているところにもろに悲報が突き刺さった形だ。


 前後の状況をヒルデから聞かされ、何とか平静を取り戻したが、それでも心配なことに変わりはない。


(あいつらは生きてる。ただ、どっかに飛ばされただけだ)


 問題はそれがどこか、ということだ。


(あたしとしたことが……!)


 ペトラはほぞを噛んだ。一つ、明確に思い当たることがあるからだ。


 ディルムン市街の街灯を復活させるために術式を起動させた際、彼女はそこに意図的に作られた空白を読み取っていた。到底ゆっくりしていられる状況ではなかったが、もう少し注意深く探っていれば、せめて転移先くらいは読み解けたかもしれない。


「……今から戻るのは無理だぞ」


 そんなペトラの考えを読み取ったのか、腕を組んだままのアブネルが釘を刺した。ペトラは唸ることしか出来なかった。


 本営の天幕に重い沈黙が充満した。急いで作った仮本営のため、何とか椅子と机だけを並べたような有様だ。その物足りなさは、総指揮官であるカナンが不在であるために、より一層顕著であるようにペトラには思えた。


「これから、どうなるのでしょう……」


 隣席のヒルデが、うつむいたままぽつりと呟いた。彼女とて幹部の一人なのだから、決められるよりは決める側の人間に属している。どうなるのか、と問うよりも、それを考え出すのが仕事だ。


 しかし現にそれを考えられそうな状態の者が、ここには一人としていなかった。ゴドフロアやアブネルはあくまで戦士であり、複雑な政治的決断を下す能力に欠ける。継火手の一人であるクリシャは補給任務の最中であり、そもそもイスラとカナンの遭難すら知らない。


 修羅場をくぐってきたという自負のあるペトラでさえ、何をどうしたら良いのか分からなかった。


 ただ、一つ提示しておかなければならない事柄があり、それを最初に提言したのはアブネルだった。



「撤退という道も、考えるべきだろう」



 それは、とペトラは言いかけた。だが、アブネルとて葛藤が無いわけではない。そんなに簡単に切って捨てられるなら、最初からカナンに付き従ったりはしないはずだ。


 彼がカナンに個人的な恩義を覚えているのは確かだ。しかし数千人の人命を決する立場にある以上、これは必ず誰かがら提示しなければならない。きわめて冷静な判断だった。



「……撤退するわけにはいかない」



 そんなアブネルの意見が出た後だっただけに、オーディスの絞り出すような声と意見は、ことさら平静を欠いているように思われた。


「この遠征に、もとより撤退などという考えは存在しない。ただ前進する。それ以外に無い」


「本気で言っているのか?」


 アブネルの視線がオーディスに突き刺さった。ペトラも、思わず目を見開いていた。普段の冷静沈着な彼とはかけ離れた、あまりに強引な主張だ。


「それ以外に選択肢が無いから言っている。まさか、戻れるなどという甘い考えをまだ持っていたのか?」


「そうは言っていない。だが、戦場では状況が刻一刻と変化する。貴様こそ、その程度のことが分からんわけではないだろう?」


「ちょ、ちょっと待ちなよ、あんたたち! 前か後ろかって話も大事だけど、あいつらが戻ってくる可能性だってあるんだよ!? せっかくディルムンに灯が戻ったんだ。少し待つくらい……」


 彼女の言葉を遮るように、伝令兵が天幕の中に駆け込んできた。ネフィリムが数体、壊れた城壁を越えて侵入してきたという。ペトラの言う通りディルムンは格段に明るくはなったが、さすがに巨人ほどの夜魔となると、その程度では止められない。


「……俺が行く」


 アブネルは席を立った。


「前に進むにせよ、戻るにせよ、それかここに残るにせよ、決めるのは生き延びてからだ」


「そうだな」


 両者の意見は一応の一致を見たが、どちらも声音は冷たかった。ペトラは己の無力さを覚えずにはいられなかった。


カナンあの子がいないと、あたしたちはこんなにも脆い……)


 ペトラは机の下で手を組んだ。世界を見棄てた神とやらに期待はしていないが、それでも今は闇雲に祈りたい気分だった。


「ペトラさん……」


 ヒルデがそっと手を重ねた。二人は互いに、眉根を寄せたまま何とか微笑を浮かべ合った。


(イスラ、ちゃんとカナンを連れて帰ってくるんだよ。今それが出来るのは、あんたしかいないんだから)


 胸騒ぎを覚えながら、ペトラは虚空に向けて念じた。




◇◇◇




「何……ここ……」


 カナンの虚脱しきった声が、煌々と輝く室内に空しく響いた。


 そこは塔内に浮かぶ無数の建造物の一つ。全ての階段や回廊が必ず通らなければならない位置に設けられている。


 扉を開けた二人の前に広がっていたのは、神殿の列柱の如く並べられた、巨大なガラス管たちだった。


 大理石のような純白の建材によって造られたこの空間は、まるで美術蒐集家の展示室のようだ。ガラス管の中身が美しく、価値あるものという前提に従って、それらを鑑賞させることを目的としている。そうでなければ、それぞれの管にわざわざ金字をあしらった銘板を埋め込んだりはしないだろう。


 管の中は水色の液体で満たされており、一粒の気泡も無い。



 その液体の中には、それぞれ、奇怪な有機物が浮かんでいる。



 あるガラス管の中には、脳と脊髄、そしてそれらと神経を介して繋がった純白の翼が浮かんでいた。器官はいずれもつい先ほど取り出したかのように生々しい色と質感を保っており、白い翼に包まれている様は、まるで微睡んでいるかのようだ。


 また、別のガラス管には、灰色の体毛を持った烏程度の大きさの鳥が浮かんでいる。しかし良く見ると、その頭部は鳥類の規範を外れて肥大化しており、特に眼球が極端に巨大である。うっすらと開いたそれは、白底翳しろそこひを患った老人を思わせた。


 イスラもカナンも、言葉が出ない。二人とも、あまりにおぞましいこの空間に圧倒され、息をすることすら忘れかけたほどだ。


「……とんでもない物を見ちまったな」


 常人離れした度胸を持っているイスラですら、この場所の異常さには悪寒を覚えた。ガラス管の中に詰められた怪物の出来損ないは、別に怖くはない。飽きるほど戦ってきた夜魔とて、十分に奇形的だ。



 二人の心胆を最も寒からしめているのは、ここを造った者が、恐らくはこれを異常だと思っていない・・・・・・・・・・という予感からである。



 その者がもし、人倫とか畏敬とかいう感情を持っていたなら、生命そのものを愚弄しあまつさえ観賞用に保存しようなどという発想は、生まれてこないはずだ。


 展示室の中心は広間となっており、その床には例の紋章が刻み込まれている。それを見たカナンは、より一層絶望的な気分になった。ここを造った者たちもあの神秘的な世界を目にしたはずだが、その行いは冒涜的である。


 そんな連中が、あの翼の生えた卵たちの飛ぶ空に、どんな欲望を抱いたか。考えたくもなかった。


「この世界が夜に包まれた理由、覚えてますよね」


「傲慢になり過ぎた人間に、神様が絶望したんだろ?」


「……あれは真実だったのですね。神話や、言い伝えなどではなく……」


 まさかこんな場所で、その証拠を得ることになるとは思いもしなかった。


 無論、得たいなどと微塵も思ってはいなかったが。


 こんなものを見せられると、神でなくとも絶望的な気分にさせられてしまう。


 ガラス管の中には、イスラが先ほど戦っていた二つ首も含まれていた。どうやら、成果となるものは全てここに集められているらしい。


 管の中の二つ首は、人間の部分は眠っているが、夜魔の方は目覚めたままだった。肩から飛び出した見者ハサイェの顔が、笑いをこらえきれないとでも言うかのように、口元を長く長く裂いている。


「カナン。ここの文字、読めるか?」


「……出来なくはないけど、やりたくないです」


「それもそうだな」


 カナンの心情を慮って、イスラはそれ以上追及しなかった。


 もし彼が古代の文字を読めたならば、そこに奇しくも『混血児ヒュブリス 試作品』と記されているのが分かったことだろう。


「当たり前のように人間を材料にしやがる……」


 最早怒りの感情すら湧かない。もしこれらを造った者と相対したとしても、あまりに話が合わなさ過ぎて、余計にしんどくなるのではないか……イスラはそう思った。


 二人とも、それ以上じっくり見ようという気にはなれなかった。管のうちの一つでも視界に入れたくない。


 だが、反対側にある扉を目指す途中、嫌でもそれらの中身が目に入った。元々そういう風に設計されているのだろう。奥に進めば進むほど、より完成度の高いものが出てくる配置になっているのだ。


 後半になると、明らかにある種の美意識を重視した変遷が見て取れた。初期に見られたおぞましさはなりを潜め、変わって常人の感性に適う方向へと推移している。


 例えば、身長二ミトラほどの人型が詰められた管などは、その傾向が顕著だった。一流の戦士のように筋骨隆々ながら、顔立ちは役者のように整っており、全身には一切体毛が無い。無論全裸であるが、男性器は完全に去勢されている。


 果たしてこれを美しいと言えるかどうかは分からないが、ともかく一目で人外と断じることは出来ないだろう。


 最低最悪の後味を抱えたまま、二人は展示室を抜けて、最後の階段を登った。カナンの歩みはことさら遅かった。疲労のせいでもあるだろうが、それ以上に精神が大きく摩耗している。


「大丈夫か?」


 イスラがそう尋ねると、カナンは何とか微笑を浮かべた。だが、彼女が「はい」とか「大丈夫」と答えず微笑だけ浮かべる時、大抵虚勢も張れないくらい弱っていることを、彼は知っている。


 旅に出たばかりの頃、カナンは偏見を持たず理解力も優れているものの、総じて箱入り娘だった。実際に目にする現実の過酷さに、いつも圧倒されていた。イスラはそんな彼女の姿をずっと隣で見続け、同時にその成長をも目の当たりにしてきた。


 だが、今またしても、彼女の想像を超えた現実が姿を現しつつある。果たしてそれに抗するだけの力が、今のカナンに備わっているだろうか?


 何もかもを受け入れ、消化することの出来る人間など存在しない。それは自分自身とて同じことだ、とイスラは思う。


 だからせめて、彼女の旅を側で支えていたいと思うのだ。たとえ何が立ち現れてくるとしても。


 台座へと至る階段を登り切った二人の前に広がったのは、青々とした草木の生い茂る空中庭園だった。色とりどりの可憐な花が咲き乱れ、水晶のように透き通った泉や小川が点在している。中央には白い小さなテラスがあり、巻き付いた蔦から葡萄の房がいくつも垂れていた。


ツァラハト……」


 カナンがぽつりと呟いた。確かに、円形の空中庭園の形状は、皿という単語を思い起こさせた。




「違うよ、ここは世界ツァラハトじゃない」




 その声を聴いた時、イスラはある種の既視感を覚えた。どこかで耳にしたことのある声だ、と。透き通り、芯が通っていて、かつ温かみを含んでいる……。


 東屋の、葡萄の房の影に、人影が一つあった。蜉蝣かげろうのように華奢でありながら、確かな存在感を放っている。しかし、体型からは少年なのか少女なのか判然としない。


 その人物は、ゆっくりと東屋を離れて二人の前に立った。その顔立ちを見て、益々イスラは混乱する。


 恐ろしく整った顔立ちだ。と、言うだけなら、この旅の間に何人も見てきている。出会った継火手は、一人の例外も無く美女ばかりだった。ユディト、ベイベル、マスィル、ヒルデ、コレット、そしてカナン……。


 彼女らに比べると、目の前の人物の美しさには、若干硬さが見て取れた。わざとらしさ、と言っても良いかもしれない。しかし、少年のように整えられた銀色の髪や同色の虹彩は、文句なしに美麗である。


「やぁ、はじめまして。君がカナンだね?」


 彼、あるいは彼女は、穏やかな微笑を湛えて挨拶した。だが、二人は驚愕する。


「……初めまして。一体どこで、私の名前を?」


「なんてことはない、友達が教えてくれたのさ。ほんの数十分ばかりの付き合いだったけどね。

 エマヌエルが言っていたよ。次にここを訪れるのは、カナンって女の子だ……って」


 二人がより一層大きな驚愕と困惑に見舞われたのは、言うまでもないだろう。同時にイスラは、あの地下にエマヌエルの遺体が無かった理由を悟った。彼女はここにたどり着いていたのだ。


「あなたは、一体……何なのですか……?」


 彼、あるいは彼女は、表情を変えない。その微笑みは少年のように無邪気だが、同時に母性的な温かさすら内包しているかのようだ。「僕は」という一人称と共に言葉を紡ごうとする。


 だが、言葉の代わりに出てきたのは、意味をなさない音だけだった。吃音のようにも聞こえるが、そもそも音と言葉の意味とを結び付けられず、崩壊させてしまっている。完璧な外見を持った存在に似つかわしくない不自由さを感じさせた。


 何度か呻いてから、困り顔で「やっぱりダメみたいだ」と呟いた。


「ごめんね。機密に抵触することを喋ろうとすると、言語野が阻害されるんだ。

 あ、でも、名前を言ったら分かってくれるかな? エマヌエルもそれで分かってくれたんだ」


「名前?」


「そう。きっと君も聞いたことがあるはずだよ」


 完璧な顔が、心底嬉しそうな表情を作った。




「僕はね、シオンって言うんだ」

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