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【第二〇〇節/始源の継火手】

『我、民を養ふ牧者につきて謂ふ


 汝ら我が群を散しこれを顧みざりき


 見よ我は汝らの悪しき行いによりて 汝らに報ゆべし


 我、我が群の遺餘いよたる者を諸々の地より集め


 再びこれをその牢に帰さん


 我、これを養ふ牧者を遣わすべし 彼の者はふたたび慄かず懼ずまた失じ


 彼の者、王となりて世を治め榮え公道と公義を世に行ふべし』



 そんな聖句を聴かされ、日々そらんじなざら育ってきた。



「お前たちの身体には、混沌の時代、神によって遣わされた聖女シオンの血が流れている。暗黒のなかで惑うことしか出来なかった人々は、その正義の光の元で秩序を取り戻し、今日に至るまでの平和を築いたのだ」



 父親の説法の中で何度も登場したその人物を想うたびに、カナンは遥か歴史の彼方の出来事を見てみたいと、何度となく願った。


 混沌に沈んだ世界のなかで、彼女は何を思い、何をよすがとして生きたのだろう?


 特別な力と使命を授かった孤独と重圧に、どのようにして向き合っていたのだろう?


 その答えを聞くことは決して叶わず、ただ想像するしかなかった。だから、その姿に自分の寄る辺なさを重ねて見ることも出来た。ある意味で、遠くて近い存在だったのだ。




「驚かせちゃったかな?」




 シオンを名乗る人物は、申し訳なさげに眉を寄せ頬を掻いた。その肌は雪のように白く、同色の法衣との境界が曖昧になるほどだ。日に焼けた肌ほど美しいとされる煌都の美観とは対照的で、どちらかと言えば闇渡りの肌に近い。


「君たちにとって、僕は何百年も昔に死んだはずだからね。びっくりするのも仕方がないよ」


「や……あの……」


 驚いた、などと言う程度では収まらない。カナンは目の前の人物が本当にシオンなのかどうかすら判断出来なかった。もしかすると、シオンを名乗るだけの偽物かもしれないからだ。


 だが、偽物だとして、こんな場所でその名を偽称する理由があるだろうか?


 むしろ、この異様な神殿の頂上にいたのがシオンであることに、奇妙な調和すら感じるほどだ。


 その点、知識のあるカナンよりも、事情を良く分かっていないイスラの方が冷静でいられた。


「あんたがここの元締めか?」


 シオンは即答しなかった。かわりに、少し腰をかがめてイスラの顔や手をじろじろと観察する。そしてやにわに「王様の肌だねぇ」と言った。


「お、王様? 俺が?」


 珍しく面食らったイスラが問い直すが、シオンは「あ、そっか」と一人合点して、ポンと手の平に拳を打った。


「エマヌエルの時からおかしいと思ってたんだ。なるほどね、追い出された人たちは肌が白くなって、居残り組は肌が焼けて……なるほどなるほど。道理で口調が粗野なわけだ」


 判じ絵を完成させた子供でも、ここまで無邪気に喜んだりしないのではないかとカナンは思った。シオンは愉快で愉快でたまらないといった風だ。粗野と言われたイスラのしかめ面を気にも留めず、にこにこと笑っている。


 その笑顔は純粋無垢そのものだが、ここまで様々な異形を見てきているカナンにとっては、背徳的な瓶詰標本以上に不気味に思えた。あれら冒涜的な所業の数々すら可愛く思える何かが、この笑顔の裏に潜んでいるような気がしてならない。


(私は、何を……!?)


 カナンはふと我に返った。


 自分が相対しているのは、最初の継火手シオン……を自称する者。真偽のほどはさておき、聖典において最も聖なるものとされる存在に対して、気味悪さを覚えている……。




 それは聖典を、天火を、自分を、何より神を疑うことと同義ではないか?




「元締め、ね。残念だけど僕はここの主人じゃない。ただの管理人さ」


 カナンの葛藤をよそに、シオンはあっけらかんとした表情でイスラの質問に答える。


「ずいぶん趣味の良い物を守ってるみたいだな」


「そう言われても困るなぁ。あれを選んだのは僕じゃないし、そもそも僕だって、展示品の一つに過ぎないんだよ。管理人役はあくまで副業さ」


 どういう意味ですか、と問いかけたカナンの声は、霞のように頼りないものだった。よろめくように一歩踏み出すが、イスラの腕が彼女を遮る。彼の手は明星の柄にかけられたままだ。


 シオンもまた、それまで浮かべていた柔和な表情をおさめ、極端なほどの無表情でカナンの顔を見つめる。それはさながら、重篤の患者に医師が余命を伝える時のような厳しさがあった。



「エマヌエルは気付いたよ。そして彼女が、自分と同じくらい賢いと評した君なら……もうとっくに理解しているはずだ」



 シオンが両腕を広げ、言った。




継火手僕たちはここで創られた」




 自分の中で、何かが音を立てて崩れていくのを感じた。


 否、「何か」などではない。




「私は……創り物…………?」




 自らその言葉を口にした瞬間、身体を動かしていた見えざる糸が一斉に断ち切られたかのように、カナンの全身が脱力した。


 抜け落ちていくのは力だけではない。


 知識、感情、感性、才能。それらを組み合わせて構築してきた、自分自身という人格そのもの。そして己の力を他者のために使うという生き方。


 それら一切合切が、霞のように虚しいものへと変貌していく。そして、最も忌まわしい男の声が脳裏に蘇り、カナンの耳朶を舐めた。



 ――継火手の肉体は良い物ですなあ!



 ――あんたは雌鶏と同じだ。



 ――それもただの雌鶏じゃない、宝物で作られた雌鶏だ。



 ――あんたの胎は権力の源だ。



 そして、一人の継火手の声がそっと囁いた。




 ――我々は怪物だ。




「嫌ぁ!!」


 草の上にうずくまり、カナンは自分の耳を、髪を掻き毟った。痛みなど微塵も感じない。ただただ記憶にこびりついて離れない、呪わしい声を引き剥がしたかった。


 咄嗟にイスラが止めに入るが、彼女の力は凄まじかった。継火手の肉体は天火の力によって強化されている。その力で自身を傷つければあっという間に血が滴る。シオンの血と名付けられた、その血が。


 だが、そうして出来た傷跡も、カナンほどの力を持った継火手ならば瞬時に塞がってしまう。その異様さを見直してしまうと、カナンの狂乱はより一層強くなってしまう。


「やめろカナン! いい加減に……!」


 強引に腕を引き剥がそうとした瞬間、イスラはカナンによって突き飛ばされていた。


 カナンが後退りする。そこに浮かんでいた表情は、今までイスラが一度も見たことのないようなものだった。


 いつも知性と好奇心を絶やさない蒼い瞳が、今は別人の物のように翳り揺れ動いている。そこにあるのは、恐怖と羞恥と罪悪感。自分を穢れたものだとしか思うことの出来ない、不幸な人間の目だ。


(それが分かるってのも、どうかと思うけど……!)


 イスラにとっても覚えのあるものだ。だが、だからこそ、誰よりもカナンにそんな思いを味わって欲しくはない。


「見ないで、イスラ、私を…………私を、見ないで……」


 蒼白になった頬の上を、幾筋もの涙が零れ落ちていく。両耳を覆っている麦穂のような髪に鮮血が絡みついていた。


 その悲痛な姿や声音が、イスラの中にかつて抱いたことのない種類の怒りを燃え上がらせた。


「……誰が、やったんだ?」


 イスラはシオンに向けて問いを発した。理不尽だと自覚しつつも、彼は自分の声に怒気が混ざるのを抑えられなかった。


「それは、ァッ、っっァッ……ダメだね。言えない」


「言えッ!!」


 シオンは困り顔を浮かべ「ごめんね」と謝った。


「言えないんだ、僕は。だって、ね? 僕らが勝手なことをしたら、その人たち・・・・・が困るから」


「困らせりゃ良い!」


 シオンはクスクスと笑った。それから地面にしゃがみこんで、カナンと視線を合わせる。だが、カナンは怯えたまま自身の顔を覆った。



「僕が創られた時、すでに世界は暗闇の中にあった。一体何がどうなってそうなったのか、僕は知らされていない。知る必要なんてないからね。


 ただ一つ確かなのは、僕たちが古い支配者たちに代わって人々を治める使命を得たということ。これは、今も変わっていないね?」



「…………たくない」



「最初に創られた僕は、いわば試作品だ。この下にあった博物館を見てきただろ? ああやって色んな試行錯誤を繰り返した結果が僕だ。もっとも、ここからさらに手を加えて出来たのが、量産型の」



「聞きたくない! そんな話ッ!!」



「駄目だ。聞くんだ」



 強く叱責するようなその声音は、確かに説法をする時の継火手の声そのものだった。それが余計にカナンの心を揺さぶる。もうこれ以上、何一つ知りたいとは思わなかった。



「これはエマヌエルの、最後の頼みなんだよ」



 だが、シオンの口からその名前が挙がると、カナンは否応なしに顔を上げざるを得なかった。



「彼女がここにたどり着いた時には、もう息絶える寸前だった。ほんの少しの時間しかなかったよ。僕の願いを託すことも出来なかった。


 逆に、彼女からお願いされちゃってね。カナンって女の子がやってきたら、僕の知っている全てを教えてやってほしいって。


 その子には、全ての真実に耐えるだけの強さがあるだろうから、って」



「っ……!」



 自分にはそんな強さなど無い。そう言い切ってしまいたかったし、心の中はもうこれ以上踏み込みたくないという拒絶反応で一杯になっている。こんな風に思うのは初めてのことだ。


 いつでも、自分の知りたいと思うことを進んで吸収してきた。そうやって蓄えた知識が、自分自身の生を豊かなものにしてくれると信じてきたからだ。


 だが、その行きつく先に待っていたのは、自分の人間性を否定する真実だった。


 自分の根源は、あのおぞましい肉塊を組み合わせて出来た成果物と結びついている。そう思うだけで、全身の肉を削ぎ落としたくなる衝動に駆られる。


 ここから、もう一歩たりとも動けないような気がした。



「立てよ、カナン」



 だが、イスラがそれを許さなかった。



「無理、です……もう……」



「何で」



「だって、私は創り物で……!」



「それはあいつのことだろ?」



 そう言って、イスラはシオンを指さした。シオンは特に気を悪くした様子も無く、二人のやり取りをじっと眺めている。



「お前は創り物なんかじゃない」



「……イスラも、あの展示室を見たでしょう? 私は、ああいうものと繋がって出来た……」



「それが何だって言うんだよ。根っことか血筋とかが、そいつの全部を決めるのか? だったら俺も、生まれてから死ぬまで、薄汚ぇ闇渡りのままだってことになるのか?」



「っ、そんなこと……!」



 カナンは顔を上げ、それからハッと我に返った。


 自分一人のことならいつまでも俯いていられるのに、イスラの事となるとあっさり上を向いてしまった。


 イスラは「しょうがねぇ奴だ」と苦笑しながら、頭の後ろを掻いている。



「お前のご先祖様が創り物で、お前がその血を引いているとしても、だ……そんなこと、俺がお前を嫌う理由になんてならねぇよ。

 生まれや血筋なんて、俺たちを形作るほんの一部分に過ぎないし、俺たちの中にはもっと大事なことがあるはずだ」



 彼が伸ばした手を、カナンはごく自然に握り返していた。胸の中に罪悪感が沸き起こる。震えはまだ収まりそうにない。


 そんな彼女の怯えをぬぐうかのように、イスラは言った。




「エデンに行く。それは、俺たち二人で決めたことだろ?」




 遠い昔に、誰かが何かの目的のために自分たちを創った。その事実は、依然としてカナンを慄かせる。もしかすると、自分の思考や能力は、全て創造主たちの既定路線から一歩も外れていないのではないか。そう疑わずにはいられない。


 最初にエデンに行きたいと望んだのは、エマヌエルがそう言っていたから。そしてそのエマヌエルも、創造主の狙い通りに動かされていただけかもしれない。


 だが、自分は……。



(私たちは、違う!)



 思わずイスラが引っ張られるほどの力で、カナンはぐいと身体を引き起こした。「復活、かな?」とシオンが尋ねる。それに対してカナンは「分かりません」と答えた。



「まだ怖いままです。でも、猶更……私はこんなところで止まれない。止まれなくなってしまいました」



 エデンに行く。


 その目標は、かつてほど純粋で、愉快なものたりえないだろう。


 もしかすると、今知らされたこと以上に残酷な現実が、そこで待ち構えているかもしれない。


 だが、だとしても、自分は前に進まなければならない。それがイスラとの約束だからだ。


 あらかじめ決められたのではない、自分自身の人生の中で結んだ約束。偽物ではない、確かなもの。



「道を開けてください。私たちはエデンに行きます」



 シオンは静かに微笑を浮かべた。その笑顔に込められた意味は、カナンには分からない。だが少なくとも、冷笑や嘲笑の類でないことだけは確かだった。



「君たちがエデンに行くのを止める権利は、僕にはないよ。

 でも、そのためにはまずここを出ていく必要がある。なぁに、転移門ならこの庭園の奥にだってあるよ。そこに飛び込めばディルムンに帰れる」



「だったら……!」



「その前に」



 駆け出そうとしたイスラの前に、シオンが立ち塞がった。



「僕のお願いを聞いてもらおうかな。そのために君たちを待っていたんだ」



「お願い?」



「ああ。少し厳しいかもしれないけど、ね」




 シオンの法衣がはためき、その裾が重力に逆らって軽く浮き上がる。「頼みってのは何だ」とイスラが尋ねると、シオンはまたしても完璧な笑顔で答えた。



「僕を殺してほしいんだ。そうしたら行かせてあげる」

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