石造りの廃墟が立ち並ぶ東部貧民街。その中でも一際大きな建物の屋上に立ったユディトが、天火を纏う剣を高く掲げた。
「我が焔よ、車輪を象かたどり咎人の行く手を阻め、回れ炎の剣!
ユディトの剣から放たれた円形の炎が、城壁の残骸をまたごうとしたネフィリムを斬首する。巨人が灰となって崩れ落ちる様に周囲の兵士たちが湧き立った。だが、破壊された城壁からは、次々と夜魔が流れ込んでくる。
ユディトは剣の切っ先をその方向に向けた。
「弓兵隊、斉射開始!」
同じく建物の影に配置されていた弓兵たちが、夜魔の出現点に向けて矢の雨を降らせる。これだけで夜魔を掃討することは出来ないが、四肢のいずれかに当たれば動きを鈍らせることは出来る。
足止めを抜けた夜魔たちは、水が石畳の隙間を走るように、次々と貧民街の隘路へと呑み込まれていった。そこには槍衾が待ち構えており、数の有利を失った夜魔を次々に突き倒していった。
中には障害などお構いなしに乗り越えてくる者もあるが、そうした敵にはあらかじめ高所に陣取っていた兵士たちが対処する。数的にどうしても劣勢な場合は、ユディトやイザベラが援護に入った。
貧民街は長年の増改築によって混沌とした形状となっていたが、ユディトは事前にここの地形の下調べを済ませていた。城壁が破られるのは必至であるため、そこから一歩下がった地点で戦わなければならないと分かっていたからだ。
無論、上層部にも貧民街の要塞化を進言したが、提案は満足には聞き入れられなかった。彼女を軽んずる者はいないが、それよりも我が身の方が大事なのである。自身の財産や家族を守ることを優先するあまり、エルシャ全体のことを考えられる者はほとんどいなかった。
彼女の手元にはエルアザルの根回しで街道警備隊五百騎が与えられていた。肩書きも一つ増え、街道警備隊隊長となっている。
ユディトは開戦当初からこの部隊を東部地区に配備するつもりでいた。ところが都軍上層部は貴重な戦力を惜しみ、予備として後方に留め置いたのである。あるいは、大祭司の娘であるユディトが戦死する事態を恐れたのかもしれない。
いずれにせよ、彼女に言わせれば愚かな判断であった。半ば命令無視の形で駆けつけていなければ、今頃東部地区の部隊は全滅していただろう。
(もしこの戦いを乗り切れたら、ボンクラ共の首を挿げ替えてやる!)
ユディトは固く誓っていた。
だが、何をするにしても、まずは生き延びなければ話にならない。
「第五小隊、劣勢です!」
ぼろぼろの伝令が声を張り上げる。それに負けないほどの凛とした声でユディトは返した。
「踏みとどまりなさい! すぐに援軍を送らせるわ……イザベル、イザベラ!!」
ユディトが振り返ると、後ろに控えていた継火手姉妹は揃って顔をそむけた。
ユディトは二人の頭を掴んで、無理やり自分の方に向けさせた。
「行きなさい」
「無理無理!」「死にます」「敵多すぎだし!」「味方はやる気無いですし」
「行け」
「逃げるが勝ち!」「逃げた方が賢いです」「負け確定だよ!」「捲土重来を期しましょう」
「行け」
「「……はぁい」」
このままゴネ続けても、最後はユディトに尻を蹴られるだけだと分かっているので、二人は渋面を隠そうともせず気怠げに戦場へと向かった。
「行けるなら、とっくに行ってるわよ」
ちゃんと指示した場所に行くのを見送りながら、ユディトは一人呟いた。
自分にはここで部隊を指揮するという役目がある。逆のことはあの二人には出来ない。
それに、ここは到底安全な場所とは言えないのだ。むしろ最も危険な戦域になるだろう。
エルシャの上空に黒い翼が翻った。
ティアマトたちは市街も城壁も問わず手当たり次第に攻撃している。だが、東部地区に飛来したものは、例外なくユディトに狙いを定めた。
そしてユディトもまた、唇の端を吊り上げて「好都合」と呟く。
偶然彼女の表情を見た一部の兵士たちは例外無くぞくりと身体を震わせた。まるで精緻を極めた絵画や、秀でた演奏を聴いた時と同種の震えであった。神聖な存在でありながら、同時にどこか魔性の気配を漂わせているように思われたのである。
「せっかく目立つ場所に立ってあげたのよ。来て貰わなきゃ困るわ」
急降下するティアマトに向けて、ユディトは天火を纏わせた剣を振り上げた。
「我が焔よ、抗う者を薙ぎ払え、
刀身から火焔の散弾が放たれ、襲い掛かろうとしていたティアマトを蜂の巣に変えた。だが、全ての敵を葬るには到底足りず、弾幕を抜けてきた三体の竜が大きく口を開く。喉が膨れ上がり、酸の塊が三方向から飛来する。
「我が焔よ、恐怖を祓う覆いとなれ!
ユディトは切っ先に天火を集中させ、飴細工を作るかのような動作で剣を躍らせる。刀身から引き延ばされた残光がそのまま宙に残り、竜の酸を打ち消す盾となった。
だが間髪入れずに、直上からティアマトの脚が落ちてくる。ユディトは即座にその場から飛びのいた。
一本足が脆くなった床を突き破り、ティアマトもろとも崩落する。「ッ!」ユディトは思い切って敵の背中に飛び乗った。落着と同時に背中に剣を突き立てる。結果、無傷で降りることは出来たが、ティアマトの残骸である灰の山を転がる羽目になった。
髪をかき上げながら立ち上がる。地上にはすでに、他の二体が先回りして待ち構えていた。兵士たちは援護しようとするが、振り回される首や尾に阻まれて何も出来ない。
しかし、敵の意識が逸れた一瞬を突いて、ユディトは竜の懐へと斬り込んだ。巻き上げるように剣を振り上げ、首を斬り落とす。
そのまま振り返りざまに法術を放とうとするが、ユディトが撃つよりも先に、そちらのティアマトは法術によって撃破されていた。
「遅参、御容赦!!」
見ると、馬に乗った数名の継火手が、手勢の兵士を引き連れて駆けてくるのが見えた。
先頭を走るのは、ユディトとさほど歳の変わらない少女だ。継火手特有の祭司服を着てこそいるが、服にも杖にも相当年季が入っている。顔立ちこそ例によって整っているが、栗色の髪を襟足辺りで切り揃えており、額に垂れさせた髪も短く揃えている。
「祭司アドラムの娘、タマル! 有志の者と共に駆け付けました!」
急行してきたためかタマルの顔は赤く、顔中にこれまでの働きを物語る戦塵がこびりついていた。汗に溶け出したそれらを拭うことすら忘れている。到底垢抜けているとは言えない娘だった。
しかし不利と分かっている戦域に飛び込んできた彼女を、ユディトはすぐさま信用した。
同時に、申し訳無さや羞恥心にも似た感情を抱く。この危険な戦場を選んで加勢にやって来たのは、祭司服を買い直すことも出来ないような家格の者ばかりなのだ。豪奢な衣服や、高性能な武具を纏った者は、ユディトを除いて一人も来ようとしない。
自分が居るから良い、という話ではないのだ。そういう連中をついぞ動かすことが出来なかったのは、己の無能故である……。
咄嗟に出来るせめてもの礼として、ユディトは頭を下げた。
「御助力、痛み入ります」
「何の! ティアマトの相手は我々が致します。ユディト様は部隊の再編を!」
「ありがとう!」
部隊長たちを集めるため駆け出そうとする。その足をふと止めて、ユディトはタマルに問うた。
「……タマルさん、正門側の戦線について、何かご存じないですか?」
「優勢です! すぐにでも」
彼女が言い終わらない内に、二人の側を一つの影が抜き去っていった。
「ギデオ……!」
彼女が声を発した時には、すでに剣匠は戦火の中へ斬り込んでいた。