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【第二一四節/一人、闇の奥へ】

 イスラとペトラは本陣となっている天幕へと駆け込み、幹部以外の人間を追い出してからカナンの失踪を告げた。


 各人がそれぞれの反応を見せる中で、オーディスはまず驚き、ついで呆れ顔を浮かべた。


「まさか独走されるとは……」


 カナンの独断専行を知らされたオーディスは深く溜息をつき、頭痛をこらえるかのように眉間を摘まんだ。


「済まない、俺がもっと注意していたら……」


 イスラは爪が食い込むほどに拳を握り締めた。


「君が気に病むことではない。最近、どこか様子がおかしいことには私も気付いていた。もっと早く声を掛けるべきだったのだろうが、今更言っても詮無いことだな」


 そう言われたとて、イスラは自分の中から次々と感情が湧き上がるのを抑えられなかった。


 人造天使の神殿で知ったことが、カナンの根幹に大きな衝撃をもたらしたことには当然気付いていた。だからこそいつか冷静に話し合う機会を作ろうと思っていた矢先にこの出奔である。カナンらしからぬ軽率な振る舞いに怒りたくなる半面、問題を先延ばしにしていた自分にも責があるように思えた。


 しかし、さらに深いところまで行くと、やはり怒りの感情の方が支配的だった。


 逃げたくなればいつでも言ってくれれば良い。そう言い続けてきた。もし彼女が望むならば、自分は何の躊躇いも無く逃亡を助けるつもりだった。


 だが、カナンは自分に何も告げず、たった一人きりでエデンの中枢へと乗り込んでいってしまった。まるで自分イスラなど必要無いとでも言われたかのようだった。



(俺は、そんなにアテにならないのか……!?)



 今まであえて先に行かせたり、別行動をとったことは何度もあったが、明確に置いて行かれたのはこれが初めてだった。


 もちろんカナンがどう思っているかは分からない。あるいは他に何も考えられないほど必死だったのかもしれない。


 だとしても、せめて一言くらいは欲しかった。頼って欲しかった。


 そしてそんな感情を自覚するのは、まるで己の未熟さを直視させられるようで、二重に苦しい行為となった。もっと度量のある男なら、何も言わずに去られたくらいで怒ったりしないのではないか……と。


「……で、どうするんだい?」


 ペトラが言う。間髪入れずにイスラは「連れ戻す」と言った。アブネルも「当然だ」と続ける。


「あの方あってこその救征軍だ。俺の部隊はすぐにでも出られる。出発するぞ」


 だが、オーディスは動きかけた闇渡りたちを制止した。今にも剣を抜きそうな二人の剣幕を受け流して、「私とイスラで行く」と言い放った。


「……何故、貴様なんだ?」


「事態が事態だけに末端の者に知られるわけにはいかない。貴公が部隊と共に動けば、難民たちは何事かを察するだろう。これはここに居る者だけが知っていれば良いことだ。


 幸い私は裏方仕事が多かったから、兵士たちにも不在を気付かれにくい。荒事にも対処出来る」


 だったらあたしも! とペトラが声を上げる。だが、オーディスは即座に拒否した。


「万が一、私とカナン様が戻らなかった場合、救征軍の指揮権は君が握ることになるんだぞ? 上位決定者がまとめて消えるような事態になったら、それこそ目も当てられない」


「それはあんただって同じだろ?」


「私は良いさ。君やカナン様ほどの求心力は無い。前の遠征で証明されてしまったからね」


 言葉を詰まらせたペトラを置き去りにして、オーディスはイスラに確認を求めた。イスラはぶっきら棒に「誰だろうと構わねぇよ」と吐き捨てたが、その声にいつもは見られない苛立ちが多分に含まれていた。




◇◇◇




 大燈台の城門は、まるで遥か昔から来訪者が現れるのを分かっていたかのように、ぽっかりと口を開いていた。広大な回廊は闇に満たされているが、足元には小さな光源が点在している。


 その手前に一人至ったカナンは、杖を固く握り締めた。


(何やってるんだろう、私……)


 自分の中の理性がそう囁きかける。今ならまだ、何事も無かったかのように引き返せると。


 たった一人で行くことに何の意味があるのか、カナン自身でさえ説明出来なかった。この独断がどれほど多くの人間を裏切ることになるかも分かっている。思い上がっているとか、周りが見えなくなっていると言われたら一言も反論出来ない。



 目を閉じると、瞼の裏にイスラの背中が浮かんだ。顔は見えない。一体どんな表情をさせてしまったのか、想像したくなかった。



 パルミラでイスラがギデオンとの決闘を勝手に決め込んだ時は、自分も心底怒ったものだ。だが、今はその時よりもよほど酷いことをやっている。


 最初にエデンに行くことを望んだのは自分だ。それこそ、エルシャで初めて出会った時など、ほとんど巻き込むような形で旅に連れ出してしまった。全ては自分の身勝手から始まったことだ。


 それでもイスラはついてきてくれた。あまつさえ、エデンに行くという願いまでも共有してくれた。


 一緒に同じ方向を目指してくれる存在がいることが、どんなに嬉しいことか。どんなに恵まれていることか。それは、エデンに行くこと以上に、自分が求めていたものではなかったか。


(最近、笑ってなかったっけ)


 一体、無意識のうちにどれだけイスラを傷つけたことだろう。どれほど視野狭窄でいたことだろう。思い返すほどに、己の無思慮な振る舞いが次々と浮かび上がってくる。まるで我儘な子供ではないか。


 その上で、なおも愚行を積み上げようとしている。



(……それでも)



 カナンは、自分を突き動かしている根源的な衝動に抗えなかった。真実を知りたいという渇望が他の全てを押しのけて身体を操っている。砂漠の旅人が水を求めるが如く、それを摂り込まないでは生きていかれないような強迫観念。


 だが、知って何をどうするのかまでは、あまりに混沌としていて明視出来なかった。


 複雑に渦巻く胸中とは裏腹に、カナンの脚はごく自然に闇の中へと踏み入った。


 一歩踏み込むと、もう一歩踏み込むのはさらに簡単なことだった。


 そしてまた一歩、また一歩と、闇の中を進んでいく。足元の光は、踏むたびに淡い残光を残して飛び散っていった。まるで星を踏みしめて歩いているかのようだった。


 回廊は暗く広大だが一本道だ。迷う心配はない。もっと罠を警戒するべきかもしれないが、エデンは全体としてあまりに無防備だ。ここまで誰も来られないと高をくくっているのか、あるいは最初からここに招き入れるのが目的なのか。


 思えば人造天使の神殿にしても、内部にはほとんど防衛機構と呼べるものがなかった。せいぜいシオンが待ち構えていたくらいだが、彼女も戦力としてはさほど期待されていなかったのだろう。


 してみると、あの神殿を造った者たちはどこか人間の力を軽んじているようにも思える。家の中に蟻が一匹二匹忍び込んだところで、家主の生活になんら影響を及ぼさないように。


 だから、足元の光源からぼんやりと陽炎のようなものが立ち上った時は、流石にカナンも動揺した。


 最初はただの見間違いかと思ったが、進めば進むほどにぼやけた虚像は空間を侵食し、暗闇を全く別のものへと塗り替えていく。誰かが自分の存在に反応したのかと思った。



「私が見えますか?」



 カナンは暗闇の奥に向かって問いかける。自分自身の声の反響以外に返答は無かった。


 彼女が立ち止まっている間は、虚像も宙にたゆたって動かなかった。だが一歩進むごとに、虚像の濃度や明瞭さは強まっていく。


 そしていつしか、カナンは幻想の澱みの中へと引き込まれていた。

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