幻影の泡沫を浴びる中で、カナンは一人の狂人を見た。
歴史の中には数えきれないほどの狂人が登場する。己を襲った悲運のため後天的に狂人と化した者もいれば、生まれながらに他者と隔絶した精神を持つ先天的狂人もいる。狂気が芸術として昇華されることもあれば、仄暗い洞穴の中に封じ込められて消え去っていくこともある。彼らの内包する狂気の種類によって、世界が彼らに注目することもあれば、歯牙にもかけず忘れ去られることもある。
人間から身を隠し、荒野を彷徨いながら蝗を貪り野蜜を啜る彼は、超越的な存在と邂逅することを夢見ていた。あるいは、現世からの解脱であっても良かったかもしれない。人という存在から離脱して、全く異なる何かを目指そうとした。
そんな欲望は、大して物珍しくはない。彼の前にも、彼と同じ時代にも、あるいはその後にも、彼と同じ欲望を抱いた者は大勢現れた。彼は精神に異常をきたしている以外は、他の人間と全く異なるところのない存在だった。
ただ一つ特異な点があるとすれば、それは彼が自らの「研究」を執拗に書き残していたことだろう。
紙など到底得られないような環境なので、彼の成果はもっぱら岩肌に刻み付けられた。
膨大な人生をひたすら浪費しながら、彼の探求は続いた。
いかにすればより高位の存在へと至れるのか? その研究課程は血生臭く、多分に滑稽さを含んでいた。獣の肉を裂き、内臓を取り出し、その皮をかぶったまま四つん這いになって走り回った。荒れ地の岩のために両手足は血塗れとなり、爪が砕けたが、彼は痛みなど歯牙にもかけなかった。むしろそうした痛みこそが扉を開く鍵になるのではと信じた。
しかし、痛みに何の意味も無いと悟るや、彼はその事実のために泣き喚き、己の身体をくまなく掻き毟った。
あるいは酩酊こそ鍵ではないか? そう考えた彼は街の倉庫を荒らし、上等の葡萄酒や火酒が満たされた樽をいくつも引き倒した。酒交じりの泥を舐めているところを発見されても、狂人の常として全く悪びれず、それどころか超越に至らんとする己を崇拝せよとのたまった。当然のことだが、崇拝の代わりに飛んできたのは飛礫や罵声ばかりであった。
血塗れになりながらも、彼は自分の住処へと帰り着いた。誰も彼を殺そうとはしなかった。彼はその得体の知れなさ故に、何か恐ろしい呪いの技術を持っているのではないかと疑われていたからだ。
しかし皮肉なことに、彼はこの時初めて、人間に対する深い憎悪を抱いた。研究記録は憎悪の記録へと変わり、いかに人を呪うか、復讐するかということが骨子となって取り変わっていった。
元来強く捻じ曲がっていた彼の精神は、この一件を機により強烈な歪みへと陥っていった。
歪みの海溝には底が無い。狂人の憎悪は尽きるところを知らない。彼は世界を呪い、人を呪い、その全てを見返すことを望んだ。ツァラハトで最も高い山の頂に立ち、全世界の人間が大雨に流され溺れていく様を眺める……そんな夢を幾千夜も繰り返し味わった。
所詮夢は夢に過ぎず、狂人は一人の狂人に過ぎないはずだった。
だが、ある日彼の狂気は、正真正銘、本物の奇跡に触れた。
彼が偉大であったわけではない。例えるならそれは、森の中で偶然拾った小枝が、神殿の宝物庫の錠穴にぴたりと嵌まったようなものであろう。
しかし現に狂人は、神殿の扉の向こうに本物の天界を見出した。翼の生えた卵たちが、不可思議な賛歌と共に渦を成し、遥か上空には輝く薔薇が浮かぶ世界。
だが、彼がその成果を味わったのは、ほんの一瞬のことだった。
扉が開かれると同時に現れた門番が、狂人を真っ二つに引き裂いた。その門番の姿は、カナンが良く見知ったものである。頭部に埋め込まれたいくつもの赤い眼球、異形そのものの身体、禍々しい爪……。
それで全てが無かったことになるはずだった。狂人は誰からも忘れ去られ、彼の研究成果は荒れ地を襲う砂嵐によって隠されるはずだった。
だが、その記録は日の目を見ることとなった。
それもまた偶然のなせる業であった。砂嵐に追い立てられたある商人が、逃げ込んだ先の洞窟で例の彫刻を発見したのだ。好事家という名のカモに売りつけるにはちょうど良い商材に思えた。
彼は洞窟の内壁ごと彫刻を切り出すと、それをさも歴史的価値のあるものとして都まで運び込んだ。無論、見る目のある者からは冷笑をもって迎えられたが、その中にあってさらに慧眼を持つ者にとっては、これがただの破廉恥な作文でないことは明らかだった。文章の九割九分は意味の無い文言の羅列だが、残りの一分に、奇跡に至るための秘術が偶然記述されていたのである。
奇跡を得ようと願うのは、何も狂人だけではない。接近の仕方が異なるだけで、学問の領域からも、奇跡や秘法といったものを求める者は数多かった。薬品の化合や調合によって金を創り出そうとする分野などは、まさしく奇跡探究の学問と言えるだろう。
そんな奇跡を求める人々にとって、狂人の書き残した文言は、まさしく福音と言うべきものだった。
狂気は学問にとってかわられ、学問は理論化と体系化を推し進めた。やがてその成果の巨大さが明らかになると、為政者がこぞって研究を支援するようになった。
いかに働きかければ、真理は人間に向けてその秘密を解放するのか? どのように術式を組めば、番人による妨害を抑え込むことが出来るのか?
何千、何万という罪人や奴隷を材料として、探究は強力に推進された。その流血の量は、狂人のひっくり返した酒樽をいくら集めても足りないほどに、膨大であった。
そんな犠牲などつゆ知らず、人々は人工的な奇跡に……いつしか魔法と称されるようになったその力に酔いしれた。
為政者も、あるいは研究者たちでさえも、その力を使い続けることがどのような結果を迎えるかについて、想像力を働かせなかった。
何故番人が現れるのか? そも番人とは何の意味合いを持つのか? それらは形而上学とみなされ、実学としては扱われなかった。魔法から齎されるあまりに多くの利益の前に、野暮な警鐘など何の意味も持たなかったのである。
そして運命の日を境に、虚ろな繁栄は崩壊を余儀なくされた。
世界を、闇の
「……世界の裏にあるものを燃やし続けた結果、というわけですか」
番人とは夜魔そのものである。
夜魔は邪悪なものではなく、むしろ不可侵の領域に踏み入った者を裁く、ある種の装置だったのである。
そして、その夜魔を一方的に焼き払うことが出来る継火手とは、天火とは、すなわちこの世の
(薄々、気付いてはいた……)
疑義を差し挟む機会はいくらでもあった。
果たして己に宿っている力が、本当に神から与えられたものなのか? 善に属するものなのか?
もしこの力が悪に属するものであるならば、それを生まれながらにして宿した
――我は死神なり、世界の破壊者なり。
いつだったか、どこかで目にした詩句の一節が、カナンの脳裡をよぎった。
胸に手を置く。身体の中で炎が燃えているのを感じる。それは決して神から与えられたものではなく、一人の狂人の夢を全世界の人々が共有した結果生み出されたものだ。
夜の闇の中を旅してきたが、ここまで先の見えない闇に呑まれたのは初めてだった。生まれてこの方、どんな闇の中に踏み入っても、自分を照らしてくれる炎が常に掌中にあった。しかしこの力が忌まわしいものだと分かった以上、最早天火は光であって光ではない。
今、こうして息をしているこの瞬間でさえも、自分は世界の一部を破壊しているのだ。
「ッ……!」
カナンは己の胸を強く握り締めた。
「……何故、私たちでなければ……継火手でなければならなかったの……?」
依然ぶつかってくる泡沫を払いのけて、カナンは叫んだ。
「何故、私たちに心を与えたの!? 世界を燃やすだけの、私たちに……私にっ!!」
無意識のうちに放たれた炎の矢が、泡沫と共に回廊の闇を掻き消した。爆炎が轟き、熱波がカナンの髪をかき乱す。
濛々と立ち込める煙の彼方から、再び声が聞こえた。
『来なさい』
カナンは杖を固く握り締めた。口元に嘲笑が浮かぶ。上等だ、行ってやろうではないか、と。
『来なさい』
再び声が響く。
だがカナンの胸中には、最早答えを求める気持ちなど残っていなかった。理想のための目的意識も、自己同一性の基盤すらも崩されて、荒れ狂う蒼い天火は最早一切の制約を失っている。
(だから、何だというの)
今まで真面目に信じ込んできた一切合切何もかもが馬鹿々々しく思えた。こんな力のために、必死になって理由付けや意味付けをしていた自分は、どんなにか滑稽だったことだろう。一体どんな面で、今まで説教してきた人たちの前に出て行けば良いのか。
(狂った夢から出てきた、狂った力……だったら……)
『来なさい』
「だったら、私は……私は…………ッ!!」