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【第二一六節/イドの回廊】

 カナンを追って大燈台の中に飛び込んだイスラは、彼女が遭遇したのと全く同じ状況に陥った。隣にいたはずのオーディスの姿はいつの間にか掻き消え、代わりに溺れそうなほどの泡沫が彼の身体に当たって弾けた。


 即座に害をなすものではない。直感に過ぎないが、闇渡りとしての動物的な勘はあながち馬鹿に出来ない。


 一方で遠回りな罠の方が、直接的なものより一層危険な場合もある。そうした趣味の悪い罠である可能性も、イスラは重々承知していた。


 だが、幻影の泡が像を結ぶにつれて、イスラの顔に徐々に驚きの色が広がっていった。


 誰かがこちらに背を向けて座っているのが見えた。肩の形や仕草から、男だと分かる。彼は焚火の守番をしながら、手の中で細工物をいじっていた。焚火の爆ぜる音に混ざって、木肌の削がれる音が聞こえる。時折、思い出したかのように手元の木杯に手を伸ばし、水で薄めた火酒をちびちびと啜った。


(……何で、薄めてるって分かったんだ?)


 だが、それは考えるまでもなく思い出せた。イスラ自身が、一度飲んだことがあるからだ。盗み飲みだった。恐らく、人生で初めて酒を飲んだ時の記憶である。あの時は、薄めに薄めた火酒ですら覿面に効いたし、少しも美味だと思えなかった。


 そんな風に酒を飲む男を、イスラは一人しか知らない。



「……親父?」



 イスラの声に答えるように、足元を一人の少年が追い越していった。


 静寂に包まれた森に屈託のない笑い声が染み込んでいく。その姿は紛れも無くイスラ自身の幼い頃のものだった。だが、本当にあんな風に笑えていたのか、今となっては分からない。そうであったかもしれないし、あるいはこの幻影が見せる虚構に過ぎないのではないか。


(そう、幻だ。なのに……)


 男の首に抱き着く自分自身を見て、イスラは胸の内に懐かしさが広がっていくのを感じた。故郷を持つ者ならば、郷愁と表現出来ただろう。


 闇渡りのイザークは手元から少しも目を離さず、片手で幼いイスラの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。それ以上のことはしない。イザークは黙々と作業を進める。


 だが幼い頃の自分は、職人を思わせる武骨で大きな手にこの上ない安心感を抱いていたし、彼が無言のまま物を作っていく過程を見るのが好きだった。


 思えば、自分のどちらかと言うと口数の少ない性質たちは、あの時間の中で形成されたのかもしれない。


 もちろんイスラも子供だったので、いつまでも行儀よく座ったままではいられない。少年はその日にあったことを思いつくままに喋った。イザークはそれに対して「そうか」とか「ああ」と淡泊な相槌を返すだけだ。だが決してイスラを追い払おうとはしなかった。


 そして、時に少年が悩んでいるなと察すると、独り言のような厳かな口調で、闇渡りの格言と由来とを語った。


 言葉は飢えを満たさず渇きを癒さない。大抵の場合において、振り下ろされる剣を受け止めることも出来ない。現にイザークは剣によって斃れた。


 しかし、文字に書き記さない限り無形のままであるこの言葉というものこそ、人間の持ち得るあらゆる力の根源である。


 言葉は、人間が世界と接続し、「存在する」という夜の中に己の影を浮き立たせる唯一の灯火なのだ。


 闇渡りのイザークが与えてくれた諸々の言葉たちは、小さな灯火となってイスラの胸の内に宿り、冷厳な夜の中にあっても精神の凍死を防ぎ続けた。


 もちろん無傷とはいかなかった。カナンと出会ったあの時、イスラの心はほとんど限界に近かった。頑強な肉体に反して、心は死期を迎えた病人のように痛覚を失っていた。


 だが、カナンがそれを温め直してくれた。




 ——言葉を信じるあなたなら、私の語る楽園エデンの夢も、信じてくれるかもしれない……そう思ったんです。




 アラルト山脈の洞穴で見せた、眩いばかりの彼女の笑顔が、今はひどく遠く感じる。


 あの時は、自分も彼女も、こんな乱れた心地でエデンに踏み入るとは思っていなかった。


「……お前がそう言ってくれたから、俺はお前の夢を信じたんだ。


 なのに、お前がそれを捨ててどうするんだよ……」


 あんな辛そうな顔を見たくて、エデンまで来たのではない。




「イザーク……親父、教えてくれ! 俺は……俺はあいつに、なんて言ってやれば良かったんだ!?


 あれだけじゃ足りないのか?


 逃げても良いって言っても、エデンに行こうって言っても、同じ場所に居たいって言っても、口付けしても、抱いても! それでも足りないのか!?


 どうすれば伝わるんだよ!


 何を言えば良いんだよ!!


 俺は……!


 俺は、あいつを……!!」




 幻影に向かって手を伸ばす。その腕はいつの間にか、幼い頃の細く短い腕に変わっていた。


 しかしそんな不自然な変化に気づけないほどに、イスラは父の言葉を求めていた。


 最も恐ろしい罠とは、嵌った者がいつ陥ったのか分からないような罠である。闇渡りとしての危機感知すら働かないままに、イスラは幻影の澱みへと呑まれかけていた。


 目の前に座る男が外套を広げ、その中に入ってくるよう促す。黒い外套の向こう側には、さらに一層黒々とした闇が広がっていた。イスラはそこから放たれる引力に抗えず、引き摺られるように歩いていく。


 頭の中にもやが掛かっている。一歩踏み出すごとに霧は濃くなり、己の意識が明瞭さを失っていることにさえ気づかせない。


(前にもあった……前にも……)


 小さい頃に一度だけ風邪をひいたことがあるが、その時の感覚とよく似ていた。五感の全てが鈍くなって、足元がおぼつかず、何かをしようという意欲も湧き上がらない。


(そうだ、あの時手を引いてくれたのも……)


 自分のことなど微塵も顧みない母親に代わって、いつも手を引いて歩いてくれたのはイザークだった。一つ一つはほんの些細なことだが、その小さないたわりが積み重なって、今の自分の根底を成している。


 そこに帰れば、答えが見つかるかもしれない。


(答え? 答えって、何の答えだ?)



『おいで』



 男が手を差し伸べる。皺の刻まれた手だけが空中にぽつりと浮かんでいるかのようだった。そこに、自分の小さな手をそろそろと伸ばす。


(前にも、こんなことが)


 二つの手が重なりかけた刹那、薄れかけていたイスラの視野を、一つの情景が飛び去って行った。


 血に濡れた手を重ね、しゅんとうなだれた少女の姿が。




 ――これじゃダメだな。こんな姿、全然こいつらしくない。




 視界は幻影に支配されているが、腰に手を伸ばすと、そこにはちゃんと在るべき物が備わっていた。


 明星ルシフェルを抜刀と同時に薙ぎ払い、眼前の男の影を両断する。振り切ると同時に、小さかった腕が元の大きさへと戻っていた。


 斬り払われた影はしばらく宙に姿を留めていた。だが徐々に端から崩れ始め、小さな泡となって拡散していく。いつの間にか森の木々や焚火も消え失せ、光の粒が瞬く回廊へと姿を戻していた。


 罠は去った。イスラは剣を下ろし、消えゆく父の幻影を見送った。影は最早、何も言ってはくれない。


「……まぁ、生きてた頃のあんただって、女の扱いは下手だったもんな」


 聞く相手を間違えたよ、とイスラは苦笑交じりに口ごもった。イザークはそんなに甲斐性のある男ではなかった。口が上手く、如才のない洒落者だったら、自分の運命はもっと違ったものになっていただろう。そんな人物でなかったから、自分は彼に懐いたのだ。


 だから、得られないものを求めても仕方が無いのだ。




 ――イスラ。あんたはそれを自分で見つけなきゃいけない。




 ペトラの言う通りだ。今更誰かの言葉を求めてしまったのが恥ずかしい。もうとっくの昔にそんな段階は卒業したと思っていたが、自分の中に残った甘さが、イザークの幻影を呼び起こしてしまったのだろう。


 そして、それが最早罠として使えないから、自分はここに帰されたのだ。


「イスラ、無事か!?」


 振り向くと、オーディスが駆け寄ってくるのが見えた。


「ああ、何とか……あんたは平気か?」


「僕は大丈夫だ。その口ぶりだと、君も何か見せられたようだな」


「まあな。でもこれではっきりした。ここには俺たちを罠に嵌めようとする奴がいる。カナンも多分……」


「急ごう」


「ん」


 何を伝えるべきかは定かではない。


 だが、カナンがいてくれなければ、結局どんなに考えを巡らしても仕方が無いのだ。


 オーディスに続いて駆け出そうとした刹那、イスラはふと足を止めて振り返った。影は最早小さな泡と化して、輪郭すらとどめていない。子の望みを受けて今一度姿を現してくれた父親は、再び彼岸へ渡ろうとしていた。


 たとえそれがただの影に過ぎないとしても、彼にとって大切な意味を持った存在であったのだ。


 イスラは消えゆく影に向けて、小さく頭を下げた。



「ありがとう、父さん。


 たとえ幻でも、もう一度あなたに会えて良かった」



 それを最後に、イスラは踵を返して駆け出した。


 死人に会うのは、いずれ叶うことであろう。今は、心の底から会いたいと願う生者を見つけ出すことだけが大切だ。


 二人が立ち去った後、回廊は再び静けさを取り戻した。乱されていた光が静まり、星空から持ち運んできたかのような静寂が再び空間を満たした。

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