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【第二一七節/テエナー】

 星空のような闇の中を歩いていたカナンは、いつの間にか自分の靴が柔らかな青草を踏んでいることに気付いた。


 どうやら円形構造物の内部にいるらしい。あくまで推測なのは、壁面があまりに遠くまで伸びており、天井に至っては本物の夜空なのではと錯覚するほどに高かったからだ。


 緩やかな曲線を描く壁面には、天井を支える巨大な支柱が一定間隔で据えられている。柱の先端は見えない。広間を覆う天蓋には弧を描くように一本の線が伸ばされ、その線の上を人工の月が静かに移動している。その月から降り注ぐ光はすこぶる明るいが、温かみは一切無かった。


 その冷たい光に照らされているせいか、カナンの目の前に広がっている豊かな庭園もまた、どこか白々しく紛い物めいた印象を放っていた。


 だが、そう感じてしまうのはカナン本人の感情のためかもしれない。自分自身の起源も含めて、何もかもが嘘で舗装されている。疑わしく思えてならない。


 青草を踏みしめ、カナンは庭園の奥へと進んだ。


 生えている木々は、いずれも見事なものばかりである。水路の側に植えられた葡萄の若木、岩石のような木肌を持つに至った巨木、色とりどりの花を咲かせた低木には濃紺の翅を持った蝶が群れている……乳歯のように白い岩々の間には、小鳥が巣を作っている。人を全く恐れない彼らは無警戒にカナンの周囲を飛び回る。杖の先端にとまっても、彼女は一顧だにしなかった。


 庭園の大気は、外の世界の森とは決定的に異なっていた。自然が生み出す特有の臭気が感じられない。不快感に繋がるようなものを意図的に排除しているかのようだ。


 しかしカナンは、その潔癖症的な空気の中に、僅かに甘ったるい腐臭のようなものが紛れ込んでいることに気付いた。瘴土の中の空気とも違うし、食物や、あるいは死体が腐った時の臭いとも異なる。強いて言うならば、穢婆たちの調合していたある種の薬の臭いに近い。くどいほどに甘く、それでいて鼻腔を裏側から押すような強い癖が感ぜられる。


 その腐臭は、庭園の中心に近づくにつれて明確に強まっていった。


 嗅覚は脳に向けてしきりに不快感を訴える。不快感は苛立ちや焦燥感に化けてカナンの精神を揺さぶった。まるで巨大な焚火の周囲を何度も走り回ったかのように、喉の奥が乾いてひりついていた。


 神殿の垂れ幕を思わせる枝垂れ柳をかき分けると、その向こうに石の敷き詰められた祭壇のような場所が広がっていた。



 そしてその中心に、一本の樹が生えていた。



 巨木という程の大きさではない。丈は三ミトラ程度で、幹の太さも大人が二人いれば囲める程度である。形状は広葉樹に似る。根は床の石材の隙間に潜り込み、広場全体を蝕んで庭園の土にまで及んでいる。


 しかし樹だと認識していられたのは、ごく短い間だった。近づけば近づくほどにそれが決して植物などではないことが明瞭に分かってきた。


 表面の色は灰褐色であり、屍蝋を連想させる。木肌はそこかしこで罅割れて醜い裂け目を露わにしていた。反面、繊細な枝から生い茂った円い葉は目を刺すような鮮やかな新緑である。その美しい色合いも、全体の不釣り合いな印象を掻き消すことは出来ず、かえってその樹の不自然さを強調する一構成要素と化していた。


 カナンを苛む腐臭は、確かにその樹から発せられていた。


「……臭い」


 彼女は、それが自分の発した言葉だとは思えなかった。


 カナンは今まで風邪というものを経験したことが無い。あくまで伝え聞いた話ばかりで、鼻づまりや喉の腫れ、熱で思考が妨げられるといったことも想像するしかない。


 しかしもし病を得た経験があり、かつ彼女が冷静であったならば、今の自分の状態はそれに限りなく近いと判断しただろう。


 熱に浮かされる、とはこういうことを言うのだ。


 そして病人とはえてして自分の症状に無自覚なものである。


 カナンは怒りという名の病に侵されていた。


 自分が怒りを覚えていることは、一応は頭で理解出来ている。冷静さを失っていることも分かっている。


 しかしそうした一種の心神喪失がもたらす危険性について、あまりに無頓着になっていた。


「貴方が、エデンの主ですか?」


 カナンは樹に向けて呼びかけた。


『然り』


 頭の中に声が響いた。



『お前は我々の待っていた者ではない。我々の求める素質を持っていない。

 しかし、自己の意志に基づいてここを訪れる者がいるとは、我々も想定していなかった。

 故に、我々の前に立つことを許した』



「貴方たちの求める素質……それが、私たち継火手を生み出した理由なのですか?」



『然り』



 思わず一歩踏み出したカナンは、樹の一際大きな裂け目の中に何かが潜んでいることに気付いた。


 そこには逆さまになった人間の首が埋め込まれていた。一つだけではない。見えている範囲では五つか六つだが、奥にまだ詰め込まれているかもしれない。


 しかしそのうちの一つを除いて、他の全てのものは活動を停止しているようだった。残った一つにしても、両の眼球に魚鱗のような白濁が浮かんでいた。


 また、樹を覆う枝葉の中に赤い果実がいくつも成っているのが見えた。一見すると無花果テエナーか、あるいは家畜の睾丸のような印象を与えるそれは、毛細血管に覆われた脳髄だった。煮こごりのような半液状の物質でくるまれ、樹から養分を受けて小さく血管を波立たせている。


 反射的に沸き起こった吐き気のために、カナンは片手で口元を抑えた。逆流しかけた胃液が引いていくにつれて代わりに笑いがこみあげてきた。




「じゃあ、教えて下さい。貴方たちは継火手を生み出して、何をさせるつもりだったのですか? 


 その素質というのは、何のことですか? 


 何に使うつもりですか?」




 笑い交じりにカナンは問うた。


 樹は答えた。




『世界と人とを、あるべき姿に導くためである。


 そのために我々は待った。待ち続けた。


 真の天使の生誕を』

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