「世界と人を……導く……?」
カナンは一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。意味を掴みかねて茫然としていたのは一瞬で、すぐにそれは困惑へと変わり、やがて嘲笑へと変移した。
あるいは、このおぞましい樹もまた、最初の狂人と同じように狂っているのかもしれない。とんでもない誇大妄想だと思った。嘲る彼女の瞳には、本人も意識しないうちに僅かに涙が浮かんでいた。無論、同情の涙などではない。失望と諦念の涙だった。
「そんな有様の貴方が?」
だが、
『我々とて望んでこのような姿になったのではない。人を導くという大義も、我々だけが負う必要などないものだった。
だが、我々には力がある。
「
この旅の中で時折目にした光景をカナンは思い起こした。至高天、なるほど適した名詞だ、と思った。
『はじめは全くの偶然であった。本来、至高天は人間の手の届かない領域である。あの天空を舞う卵たちは、その一つ一つがこの星……否、全宇宙の運行を司る単子なのだ。
熱せられた鉄を想像してみたまえ。炉から取り出された鉄に何の手も加えなければ、おのずと冷えて固まっていく。逆に冷えた鉄が何の介入も受けないままに溶け出すことはありえない。これは我々が良く知る法則の一つであろう。
しかし至高天を観測し、その情報を書き換える方法さえ得られれば、我々は事象という名の
「何でも……望むことを、ですか?」
『無論、魔力の無い者が至高天に接続するのは不可能だ。仮に出来たとしても、改竄可能な範囲はその者の魔力の総量によって決まる。
現に我々は、あの破滅の日を回避することが出来なかった。かねてより至高天への過剰接触が招く危険性について、何度も警告を行ったのだ。それでも人々はこの力を無尽蔵と思い込んで使い続け、結果として滅びを招き寄せた。
もし我々が対抗術式を用意していなかったならば、人間はこの星もろとも死に絶えていただろう』
「……待ってください。では、貴方たちは一度世界を救ったというのですか!?」
『然り』
断固として、誇りさえ感じさせる口調で、樹は言い切った。
カナンの混乱はいよいよ深まる。自分の根源の一つが、彼らが創った人工の命であることは確定している。そのことに対する怒りは未だ強いままだ。ティファレトの神殿で出会ったシオンは、まさに創られた命の不憫さをそのまま体現するような存在だった。彼女をあんな風に扱ったこと自体がそもそも許せない。生命への、自然への冒涜そのものと表現しても過言ではないだろう。
そして自分もまた、シオンが課された不自由さの延長線上にいる。
シオンほどの不幸と、自分のそれを同列に語るのはおこがましいかもしれない、と彼女も自覚している。しかしカナンは生まれながらにして、その立場や出自故に多くを制限されることを運命づけられていた。
アラルトの闇の中で聞かされた、あの呪わしい言葉が何度も耳の奥で甦る。ユディトのように、既存社会の中で運命を選択出来たなら何の問題も無かったかもしれない。しかしカナンには、そんなめぐりあわせも無ければ、折り合いをつける器用さも持ち合わせていなかった。
継火手は祝福された聖なる存在などではない。それにも関わらず、世界の全ての人々から特別視され、あたかも天使の如く扱われてきた。自分自身の人並みな精神を自覚するたびに、どうしても膨れ上がる違和感がぬぐえずにいた。
求められる大きな大きな責務に応えよう。
この身に宿った蒼い炎と一緒に生きていくためには、煌都の中で型通りの生活をしてはいられない。
もしそうした安寧に身を委ねてしまえば、この炎が魂を灰に変えてしまうだろう。解決出来ない違和感と、心臓を炙り続けるような焦燥感に、自分はきっと耐えられなかっただろう。
傍から見れば、贅沢極まりない悩みであることは分かっている。しかし苦悩とは所詮、それを抱いている本人だけしか把握出来ないものだ。完璧な共感を他者に求めることは出来ない。それがたとえイスラであっても、自分のこの心の内を理解することは不可能だろう。
『力は必然的に責務を喚起する。これは最も重要な倫理の一つだ』
「……そう、その通り……」
呟いてから、カナンははっと我に返った。
樹の言ったことは、カナンが己に何度も言い聞かせてきたことだった。
「貴方は一体何なのですか? 世界に大きな嘘をついておきながら、世界を救ったと言う……貴方は悪なのですか? 善なのですか?」
『我々は我々を善と自認している。
しかし善悪を主観的に判断することは不可能である』
それはそうだ、とカナンも思った。何と愚かな反問をしてしまったのだろうと自身をなじった。
『だが、旧世界の人間たちが悪であったことは証明可能な事実である。至高天は本来不可触の領域。そのことを忘れて徒に力を引き出したばかりに破滅を招いた。この星だけではない、至高天の巨大な構造そのものに傷をつけてなお、一切の罪悪感を抱かなかったのだ。
今となっては想像することも出来ないだろう。あの時代、どれほどの悪徳がこの星を包んだか。全ての王侯将相が破廉恥な快楽のために力を行使し、汚物同然に扱われた下民共はその地位に甘んじて鼠のように相食む道を選んだ。
勇者は辱められ、義人は追放され、学士は軽んじられた。
不正が正義として認められ、善行が愚行として貶められ、格差は美徳として崇められた。
真実は隠され、大利のための悪が肯定され、災禍はあって無きものとされた。
進歩は途絶え、革命は裏切られ、啓蒙は閉ざされた。
これほどの力をもってしても、人はいささかも賢くならなかったし、超越的なものに対する畏敬や畏怖を抱いて解脱を志すこともしなかった。むしろすすんで痴愚へと堕した。国などどこにもありはしない。あるのは愚者の大乗のみ。いずれ重みに耐えかねて沈むは知れている』
樹の口調は無機質的だが、選ばれる言葉の一つ一つに深い絶望が込められていた。おぞましい姿に成り果てながらも、彼らが世界のことを考えられた一握りの人々であったのは本当のことだろう、とカナンは信じた。
『たとえ我々に善悪を判断する権利が無いとしても、至高天を傷つけた罪は全宇宙に対する罪。悪と言う他無かろう。
そしてその罪は、今のお前たちの世界にも
「罪?」
継火手は常に天火と共にある。その天火が至高天を、この世界の根本原理を侵して発現するならば、継火手もまた世界に害成す存在ということになる。もとより魔法にせよ天火にせよ、狂った夢から生まれ落ちた忌み子なのだ。その力を預かる自分たちを悪と断ぜられるのは癪だが、一面においては確かに正しい。
だが、樹はカナンの考えを読み取ったのか、『それだけではない』と付け加えた。
『継火手を生み出したのは、元はと言えば我々だ。我々にもその責の一端はある。
問題は、常に大衆と共にあった。五七〇年という歳月をかけても、なお賢くなれずにいる大衆にこそ罪がある』
「……どういうことですか?」
『お前は問うばかりで、何も考えられないのか?』
「今の世界が歪んでいることは分かっていました。だから考え続けてきました。何度も、何度も……だから、分からない」
挑発ともとれる樹の言葉に対しても、カナンはそう答えるしかなかった。事実、彼女ほどこの世界の矛盾について考え続けてきた者はいない。
その彼女をして、これ以上は何も思考が働かなかった。
否、分からないのだと思いたかったのだ。
『歪みに気付いているのならば、とうに見抜いているはずだ。
何故歪んでいるのか、何が歪みの源泉か。
先ほど、お前は我々に問うたな。何故心を与えたのかと。逆に問うが、心無き者に人が共感を覚えると思うか?』
カナンは答えなかった。答えるまでもない質問であったからだ。
もし、あの心神喪失に陥ったシオンを煌都の人々が見たとして、彼女を継火手として崇めただろうか? どれほど美しく
「……私たちを、人々の間に住まわせるため……いや、それだけじゃない…………!」
すでに推論の材料は十二分に揃っていた。一流の料理人が材料から仕上がりを想像するのと同じく、カナンはここまで聞いた話や体験から、全てを見通すことが出来てしまった。
何故、男の継火手が生まれないのか? 女性で、なおかつ顔かたちの整った者ばかり生まれてくるのか?
何故、継火手を人々の間に根付かせる必要があったか?
煌都にとって継火手は必要不可欠の存在である。しかしそもそもの始まりから、継火手という存在に依存するように煌都という枠組みが仕組まれていたとしたら?
――それもただの雌鶏じゃない、宝物で作られた雌鶏だ。おまけに金の卵を産むときた。
――あんたの胎は権力の源だ。あんたの母親や、そのさらに母親がそうしてきたように、結婚が今日の煌都を創り上げた。
「時の流れの果てに、特異点となる継火手が生まれるのを待っていた。
煌都はそのための揺り籠。シオンの血を薄めず、確実に継承させるための……」
樹は答えなかった。沈黙そのものが、カナンの推論の正しさを証明していた。
至高天に干渉すれば事象そのものを操ることが出来る。
しかし操れる範囲は、術者の持つ魔力……すなわち天火の総量に左右される。より大きな奇跡を起こそうとするなら、それに見合った強力な天火が必要になる。天火を扱える以上、全ての継火手は大なり小なり至高天に干渉していることになるが、それを形象として垣間見られるのはほんの一握りの継火手に限られるのだろう。
例えば、蒼炎のような。
しかし蒼炎は最強の天火ではない。
カナンは知っている。燃えるほどに、より激しく強く燃え立ち、果てには当事者すらも呑み込んでしまうほどの黒い炎を知っている。
「……とんでもない貧乏
俯き、カナンは呟いた。
その呟きを知ってから知らずか、樹は全てを語り始めた。
『帝国最後の皇帝が、世界が夜闇に包まれた日に何を望んだと思う? 破滅した世界でもなお皇帝のままでいたいとのたまったのだ。己らに全ての権威と権力が集中するように、と。
冗談ではない。
決定的な破滅を迎えてなお、奴らは自分たちのことしか考えなかった。だから我々は、奴らに夜魔と抱き合わせの肉体をくれてやった。これこそ新しい血肉だと偽って。連中も、その程度の罰は負ってしかるべきであろう。
だが、民衆は特別な存在に心酔する。旧世界の最も愚劣な皇帝とて、ただ他とは違う血筋にあるという理由だけで民衆から支持されたのだ。
故に我々は今一度試すことにした。皇帝とその一族を夜の世界に追い払い、新たに象徴となる継火手を立てた煌都で、民衆がどのように振舞うのか。
煌都とは試しそのものだ。民衆が継火手と天火の神話を盲信し、依存し、何も疑わず改めないまま、偽りの安寧の上に胡坐をかき続けるか。権力者たちは天火を、シオンの血を独占しないか。
人々は反抗するか。あるいは新しい哲学を生み出すか。それを問うための試みだった』
「もし人々が変わることを望まなかったら、貴方たちの望んだ真なる継火手が生まれてくる」
『左様。
真の継火手はある種の奇形。血の繋がりが濃厚なほど出現確立が高まる。
そんな仕組みを許す社会など、それ自体が歪だ。正そうとしてしかるべきであろう』
この世界にベイベルが生まれ落ちた時点で、彼らの計画は半ば成就されてしまっていたのだ。それが成ることを彼らが本当に望んでいたかどうかは、カナンには分からない。あるいは本心から人の自発的改善を願っていたのかもしれない。
「でも、貴方たちは傲慢だ。自分たちの主観と期待を勝手に私たちに押し付けて、手引きも何も与えようとはしなかった」
『外からの声など誰も聞きはしない。我々は帝国の良識派として必死に至高天の危険性を語り続けたが、一顧だにされなかった。人々が己の愚かしさを真に意識したのは、世界が闇に包まれたその瞬間だった。
五七〇年も与えたのだ。それでも変わらぬというのならば、望みを掛けても無意味であろう』
「導くのではなかったのですか?」
『導くに足る人類を創造する。真なる天使がここに至れば、それが可能となるのだ。この世界から闇を祓い、新たなる天地に知恵と友愛を備えた優しき人々を育む。
これこそ、至高天を穢してでも得る価値のある奇跡である』
「……その世界に、私たちの居場所は?」
『あると思うかね?』
カナンは嘆息した。
そして腰の細剣を抜き放ち、樹に向けて突きつけた。
「聞くべき程のことは聞きました」
『造物主に剣を向けるか?』
「一つだけ感謝を。
ここしばらく、私は何をするべきなのか見失っていました。エデンが理想の場所でないのなら、どうやってこの旅に折り合いをつければ良いのかと。
だけど、今ははっきりしています」
カナンの声はあくまで静かであり、突きつけた剣の切っ先はぴくりとも揺れない。しかしその蒼い瞳の中には、炎よりも熱く激しい感情が潜み、暴発する瞬間を待ち焦がれている。
それでいて、胸の奥底は凍えんばかりに冷え切っていた。エデンという楽園に、人々の安住の地を打ち立てるという理想……もしも達成することが出来たら、自分に宿った特異な力を認めてあげられるかもしれない。
「普通の中に入れなかった自分」を、愛することが出来るかもしれない。
そんな平和な希望は今や、夢幻となって消え果てた。
正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。ある哲学者はそう語った。
(所詮、暴力は暴力。私の意味付けに……意味なんて無かった)
身体の中に宿る蒼い炎に向かって、カナンは侮蔑の言葉を向けた。
そして眼前の樹に、言葉の切っ先を向けた。
「貴方を殺します」