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【第二一九節/継火手カナンの叛逆 上】

 殺す、と口に出して言った瞬間、その言葉は至極滑らかにカナンの内面へと落下していった。まるで眠れない夜に飲む冷水のように、それが自分の身体の芯を通って隅々まで行き渡るのを感じた。


 しかし、その言葉が喚起したのは溶岩のように燃え滾る戦意だった。


 冷え冷えとした血が心臓から身体のあちこちに広がっていく。それは脳も例外ではない。余計な雑念が全て消え去り、ただ戦闘のためだけに特化した思考形態へと移行する。最高に冴えた状態だった。


 故に、法術の構成も即座に頭の中で組みあがった。



「我が蒼炎よ……御怒りの奔流となり悪を滅せよ、出でよ断罪の光! 能天使の閃光エクシアス・ブレイズ!」



 突きつけた剣の周囲に蒼い魔法陣が展開する。天火を極限まで圧縮し、高めに高めた熱量を光線として発射するこの術は、カナンの蒼炎に最も噛み合ったものだ。その威力の高さ故に、敵を滅ぼす以外には使い道のない術でもある。


 カナンはそれを、一切の躊躇なく放った。


 しかも普段以上に光線を収束させることによって貫通力を増している。注ぎ込んだ天火の量も通常の倍以上に値する。最早光線と言うより、莫大な熱と光を伴った剣と表現したほうが適当かもしれない。



『אלוהים הפך את הסלע לביצה של מים』



 だが、それが樹に届く寸前で阻まれた。カナンに認識できたのは、不可思議な文言の後に白い靄のようなものが両者の間を隔てたことだけだった。


 靄に光線が当たると同時に、轟音と煙が彼女の顔に吹き付けた。それは庭園の中の木々を揺らし、騒音とは無縁に生きてきた小動物たちを驚かせた。鳥たちのけたたましい鳴き声が響く中で、カナンは自分の皮膚に触れたものの正体に気づいた。


(水……蒸気!?)


『恐るべき破壊力だ』


 煙が晴れ、その向こうに依然立ったままの樹が見えた。


 だが、正面の樹皮は一部が抉れている。青々とした葉もいくらか吹き飛ばしており、垂れ下がった脳髄の果実が剥き出しになっていた。


 しかしこの程度では足りない。確実に樹を薙ぎ倒すつもりで撃ったのだ。何かが原因で、想定以上に威力が殺されてしまっていた。


『特異点の近似値程度でこれならば……真の天使は、我々の期待した以上の成果となっていることだろう』


「チッ!」


 舌打ちとともに第二射の詠唱を始める。防がれたとはいえ、効くには効いたのだ。自分の蒼炎は十分に戦力として通用する。



『אם אתה לא זוכר אותי, הלשון שלך צריכה להיאחז בלסת העליונה שלך』



 再び、あの聞きなれない言葉が頭の中に響き渡った。


 それが何を意味する言葉なのか、文意は何なのか、いくつもの疑問が沸き起こったが、それはすぐに吹き飛ばされてしまった。疑念に代わって彼女の心の中を占めたのは、足のつかない大水に放り込まれたかのような恐怖感だった。



 言葉が、頭の中から消え去ったのである。



 正確には、つい今しがた口に出そうとしていた法術の聖句が丸ごと消え去っていた。忘れたのではない。一つ一つの単語を断片として思い出すことは出来る。


 だが、それが脳内で文章として構築出来ない。口に出そうとすると崩壊し、極度の吃音のように舌が硬直してしまう。首を絞められたような掠れた吐息しか出てこない。まるで、脳組織の一部を丸ごと取り外されたかのようだった。


(これは、シオンの!)


 ティファレトの神殿に囚われていたシオン。その彼女を内側から縛り付けていた部分的失語症。


 自分に使われてみて、初めてその非人道性と恐怖感が理解出来た。


 言語は人間を構成する最も基本的な要素の一つであり、同時に他の動物と差別化する大きな特徴でもある。発話によって意思疎通を行い、複雑な思考を取りまとめ、社会を構築するための欠かさざる基本機能。


 だが、日常の中で当たり前のように使用するこの能力が奪われた時、人間は大きな無力感ともどかしさを覚える。


 ましてや言葉というものに深く関わって生きてきたカナンのような人間にとって、その衝撃はまさに言語に絶するものがあった。



『お前の法術は、我々にとっても大きな脅威だ。先ほどは威力を測るためにあえて撃たせたが、さすがに二度も三度もやらせはせん』



 無言のまま、頭の中で思考を取りまとめる。通常の思考をする分には何の問題もない。ただ、法術の詠唱だけが完全に妨げられている。


(法術は……)


『いかに考えを巡らせようと無駄だ。お前の考えていることは全て見通している。我々が、継火手の反乱の可能性を想定しなかったとでも思ったか?』


「……」


 その可能性については考慮していた。エデンの大燈台に踏み入った時から、常に不愉快な視線を感じ続けていたからだ。彼らの声にしても、音ではなく直接意識に働きかける形で認識させられている。いずれにせよ、予想が現実になったとて、状況は何ら有利にはならない。



『被造物が造物主に盾突くとは、つまりこうなるということだ。

 これで、いかに愚かな挑戦であるか分かっただろう』



 樹の言葉が滑り込んでくる。実際に耳に響いているわけではないが、その声音には隠す気もない軽蔑と高慢が高密度で詰め込まれていた。


 それに呼応するように、樹の根本が盛り上がり、四体の人間らしきものが這い出してきた。


 だが、その生き物たちの人間らしさと言えば、せいぜい四肢を備えていることと二本の脚で立っていることくらいである。


 それらは、一体ずつ異なる動物の特徴を備えていた。獅子の首を持つ者、牡牛の首を持つ者、鷲の首を持つ者……最後の、一番人間に似た姿の者についてはカナンも見覚えがあった。ティファレトの神殿に保存されていた、人造天使の試作品の一つに良く似ている。腰回りを白い布で覆っている以外は全裸であり、体型はいずれも熟練した戦士を思わせる頑強なものだった。


 彼らの身体には、そこかしこに眼球が埋め込まれていた。顔面には六つ、両肩にそれぞれ二つ、胸骨に沿う形で八つ、手の甲に二つ、足の甲に二つ。彼女の立っている所からは見えないが、背中には脊椎に沿って十の目玉が蠢いている。


 各々が片手剣と円形の盾で武装し、その切っ先をカナンへと向けていた。


「それは……」


 カナンの考えを読み取ったのか、樹は先んじて『左様』と肯定した。


『これらは、いずれも天使の雛型として創った者たちだ。言わば継火手にとって兄弟分。最早使い道は無いだろうと思っていたが、反逆者の掃除役としては適任であろう』


「……」


 カナンはあえて黙した。相手が思考を読んでいる以上、わざわざ自分の嘆息を語って聞かせる必要も無い。


 人造天使のなりそこないたちは、いずれも不思議な荘厳さを備えているが、言うまでもなくおぞましさの方が勝る。いかにツァラハトが混乱したとて、こんな姿形の者たちによる統治を受け入れるほど、人間は寛容ではないだろう。


 しかしエデンの樹の、人間に対する強烈な侮蔑を考慮すれば、煌都の頂点に据えられる人造天使をことさら醜く造形することも、ある種の諧謔であったのかもしれない。


 結果的に「醜さではなく美しさ」「かけ離れたものより近しいもの」という俗物的な判断基準が採られただけで、一つでもボタンの掛け違えがあったなら、ああいった正真正銘の化け物たちが煌都を支配していたのだろう。


 あるいは、その方が人間にとって幸せであったかもしれない。あからさまな怪物に支配された方が、民衆も反乱の意志を強く持ちえただろう。


 人造天使を女性に……それも殊更美しい女性に造形したのは、全く持って大正解であったと言うほかない。


「いや、一つだけ失敗している」


 カナンは自身のダルマティカを剣で裂き、脱ぎ捨てた。黒いズボンと肌着だけの軽装に変わる。


 その動作が終わるか終わらないかのうちに、人造天使たちが一斉に斬り掛かってきた。特に速いのは鳥頭の天使で、振り払ったダルマティカの残骸が地面に触れるか触れないかのうちに、カナンの真正面へと踏み込んでいた。


 天使が剣を掲げる。


 しかし、それが振り下ろされることは無かった。


 カナンは左手に持った細剣で、今まさに地面に触れたダルマティカを突き刺し、目隠しとして引っ張り上げた。布が嘴に引っ掛かり、鳥頭が耳障りな悲鳴を発する。


 そうして彼女を見失った次の瞬間、鳥頭の嘴の下半分は、カナンの杖によって粉々に突き砕かれていた。蝸牛の殻を踏んだように乾いた音が響きわたる。その一撃は嘴だけでなく頸椎にまで損傷を及ぼしており、鳥頭の天使の運動機能を完全に停止させた。


 天使が巨体をのけぞらせる。完全に崩れた胴に向けて、カナンは連続で細剣による突きを叩き込んだ。


 嘴が砕かれた時点で、他の天使たちは突撃を中断し様子見していた。カナンがいきなり奇策を用いたせいでもあるが、何より彼女の発する怒気が、意識を持たない彼らすらも恐怖させたのである。


 カナンは力を失った身体を仰向けに押し倒し、眼球で覆われた胸部を強かに踏みつけた。心臓が圧迫され、腹に空いた穴から鮮血が噴き出し、彼女の長靴に赤い斑点が飛び散った。顔にはまだダルマティカの残骸が引っ掛かったままなので、絶命した瞬間の顔は見えなかった。


「……貴方は、私たちを女として創るべきではなかった。

 少なくとも私は……怒ったら、何をしでかすか分かりませんよ」

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