何と野蛮な生き物になってしまったことか。
カナンに討たれた人造天使たちの亡骸を眺めながら、エデンの樹は内心で嘆息していた。
半ば諦めの境地から生み出したものとはいえ、継火手には世界を導くという確固たる使命を与えていた。人は力と美に服従する。これは偏見などではなく、混乱に満ちた厄災の時代に得られた証明可能な事実である。煌都という枠組みに幾重にも罠を仕掛けたことは事実だが、一方で彼女たちを「天使」として創造したこともまた事実なのだ。
導けるならば、導けば良い。永劫の夜によって、かえって洗い清められた人々がここを訪れていたならば、その者たちのために世界再生の秘法を授けることもやぶさかではなかった。
しかし、カナンの持つあまりに強い暴力を見れば、そんな空想など無意味と思い知らされる。
最初の天使であるシオン
確かに人と異なる心を持つ者たちを受容れるのは難しい。しかしそれは、あくまで平時のことだ。暗黒の到来によって混乱をきたした人類社会は、人ならざる人造天使を支配者として戴くほか無かった。
無論、人と交わるごとに、人としての性質がより強まっていくことは想定していた。天使的な無感動はいずれ失われ、かえって人の心が大半を占めるようになる。
肝心なのはその人間性というものが煌都の中で良い方向に改造されていることであったのだが、その結果については見ての通りである。
(所詮、我々の想定の域を出ない存在にしかなれなかった。多くを望むのは酷か)
カナンの心は戦意に燃えている。しかし彼女の考えていることは全て筒抜けであり、法術はほぼ完全に封じている。
成程、確かに全く新種の法術を使えば、失語の術をすり抜けて天火を操ることが可能だ。先ほどカナンが見せた二つの法術は、自分たちが設定した天使の術に区分されない全く別体系のものである。咄嗟に思いついたものであるため対抗出来なかったが、それも既に封じてしまった。
かくなる上は、戦いながら新しい法術を生み出すしかない。
だが、カナンが術に名前を与えるその瞬間に失語の術を打ち込んでしまえば、彼女の目論見も泡と消える。考えながら戦うだけでもかなりの負担となるが、その結果とて必ずしも芳しいものにはならない。全く無謀な挑戦と言うべきだろう。それすらも分からないほど感情的になっているカナンに、エデンの樹はある種の憐憫さえ覚えた。
(しかし、念には念を入れる)
彼女が計画の障害として立ちはだかるのならば、全力で排除しなければならない。
『חייל בוץ』
樹を中心に展開した魔法陣から、泥で作られたゴーレムが立ち上がる。全部で十体。不細工だがその体躯と質量だけで十分な武器になる。人造天使の試作品たちが思った以上に不甲斐無いため戦力を継ぎ足したが、さらに手を加える。
地面から樹の根が飛び出し、十体のゴーレムに差し込まれる。これで彼らは樹の手足同様の存在となった。のみならず、魔法を放つための砲台としても利用出来る。
これらを全て横陣に展開して、一斉に水魔法を発動させた。
前線では人造天使たちとカナンが接近戦を行っているが、最早
獅子の天使は反応して回避に努めたが、カナンに殴られかけていた人型の方は間に合わなかった。十体分の氷柱を受けてずたずたに刺し貫かれる。
当然だが、カナンにも攻撃は向けられていた。敵がゴーレムを展開させたことには気づいていたが、よもや味方もろとも撃つとは思っていなかったために反応が遅れた。
それでも、氷対炎。天火を杖にまとわせて回転させ、抜けてきた分の氷柱を叩き落す。
だが、氷の質量はカナンの想定以上に重かった。人型天使の術とは比べ物にならない。一発叩き落すごとに手が震え、指先が痺れた。まるで鉄球を打ち返しているかのような気分だった。
そして、先に悲鳴を上げたのは権杖の方だった。五発目の氷柱を叩き落したところでへし折れ、三分の二ほどの長さになる。
依然として氷柱は降り注いでくる。カナンは走って避けるしかなくなった。だが、そうはさせまいと、得物を失ったカナンに最後の人造天使が斬り掛かってくる。
「何でっ!」
(それが人形だからだ)
樹は、そう思っただけで、カナンに対しては何も言わなかった。望んだ以上の結果を叩きだせなかった存在に意味は無い。そういう意味では、継火手も、人造天使の試作品たちも何も変わりはしない。
氷柱の砲撃に曝されながら、獅子の天使は渾身の力を込めて剣を振り下ろした。カナンは杖の残骸で刀身を受け止めるが、力を殺しきれない。刃が左肩の骨に当たる。振動で彼女の膝が折れた。
獅子の天使は再び同じ攻撃でカナンを仕留めようとする。
その寸前で、彼女はあえてさらに一歩踏み込んでいた。動作の俊敏ぶりは小動物さながらであり、大ぶりな攻撃を狙っていた獅子の天使は一手も二手も出遅れた。
杖の石突きで天使の水月を打ち、すかさず顎をかち上げる。殺到する氷柱が獅子の天使を捉え、その身体を貫いて出た血塗れの槍がカナンの頬をかすめる。
だが、カナンはその分厚い肉の塊の後ろで法術の文句を口ずさんだ。
「我が蒼炎よ、竜の
『אם אתה לא זוכר אותי, הלשון שלך צריכה להיאחז בלסת העליונה שלך』
言葉が封じられる。盾の耐久性も限界だった。杖までも手放してカナンはその場から飛び退った。
樹には、カナンの脳裡で浮かんでいる思考がありありと読み取れた。
それはあたかも一巻の巻物のようだ。彼女が考えると、白紙に文字が書き足されていく。それを読み込み、法術の名前の箇所に差し掛かれば、そこに失語の術を加えて黒字で塗りつぶす。
最初の継火手であるシオンたちは、まだまだ創造主の影響下にあったため思考まで完全に制御することが出来た。何世代も経てきたカナンに対してはさすがに思考制御までは行えないが、依然として法術に関してだけは完全に支配下に置いている。これは、継火手による叛逆を想定して設けられた策の一つだ。
「我が蒼炎よ、
『אם אתה לא זוכר אותי, הלשון שלך צריכה להיאחז בלסת העליונה שלך』
「我が蒼炎よ、我が手に槍となって現れよ……」
『אם אתה לא זוכר אותי, הלשון שלך צריכה להיאחז בלסת העליונה שלך』
「我が蒼炎よ、汝は鷹の翼、獅子の爪なり……」
『אם אתה לא זוכר אותי, הלשון שלך צריכה להיאחז בלסת העליונה שלך』
「我が蒼炎よ、逆巻く波となりて敵を飲み干せ……!」
『אם אתה לא זוכר אותי, הלשון שלך צריכה להיאחז בלסת העליונה שלך』
全て異なる思考、異なる詠唱が、たった一つの術によって完全に封じられる。
逃げ回っていたカナンもいまや全身血塗れになっていた。何とか直撃だけは回避し続けているが、息は上がり、痛みからか動きも鈍くなっている。
『諦めるのだ。お前たち被造物では、造物主たる我々には敵わない』
最早、瀕死の虫を潰すかのような様相だ。到底戦いとは言えない。良識派を自称するだけあって、エデンの樹は無用な冷酷さを好まない。彼女が負けを認めるならば一息に刺し貫くつもりだった。
しかし彼女に降伏の意志が無いこともまた、読めてしまっていたのだが。
「……言った、はずです。貴方を殺すと」
『不可能だ』
「私は……殺すだなんて、軽々しく言いたくない。
だけど、貴方だけは別です。絶対に殺します」
もし生身の身体が残っていたならば、溜息を禁じえなかっただろう。
『もう良い』
ゴーレムたちの砲台に加えて、樹の正面にも無数の魔法陣が発生する。火、水、風、土……全ての属性の魔法をぶつけて、一挙に片を付けるつもりだった。
(そう、まさに片づけだ)
外では古い人間たちへの
こちらも、役目を終えた人形を片付けておかねばならない。
最早、魔導は放たれる寸前の弓矢と同じである。弦は張り詰め、後は指を離すだけだった。
「我が蒼炎よ、魔女の憤怒を象り敵を葬れ……!」
『אם אתה לא זוכר אותי, הלשון שלך צריכה להיאחז בלסת העליונה שלך……』
樹は、最早何も思うまいとした。
故に、驚愕することとなった。
「
満身創痍のカナンの真正面に、巨大な蒼い門が展開する。そこから溢れ出した蒼炎が、あたかも濁流の如く樹やゴーレムに向けて襲い掛かった。
『っ、馬鹿な!』
障壁を張らせたゴーレムたちを盾に使い、押し寄せる炎の津波をやり過ごす。
しかし衝撃は大きかった。
そしてカナンは、その動揺を見逃すほど甘くは無かった。
◇◇◇
カナンは、何も闇雲に法術を詠唱していたわけではない。
肝心なのは「敵にどの程度の能力があるか」を探ること。先程ベイベルの法術を使用出来た時点で、失語の術が決して完全無欠でない事は証明された。どこかに突破口があり、そこを突けば一挙に形勢逆転することが出来ると踏んだのだ。
既知の法術は文言、名称共に封じられている。
未知の法術は詠唱可能だが、その間に名称を封じられて発動出来ない。
ならば、詠唱は詠唱で独立させて、名称は発動寸前に咄嗟に思いついた言葉を叫べば良い。
そうして出てきたのが、今しがた敵にぶつけた術だった。
酷い術だと思った。一度解き放たれたらろくに制御も出来ず、おまけに天火の消耗も激しい。到底洗練された術とは言えない。お陰で周囲の森に燃え移って、山火事の様相を呈している。
だが、使った天火に見合うだけの威力はあった。敵の魔法陣をかき消し、ゴーレムたちもいくらか擱座させることが出来た。咄嗟に障壁を張られていなかったら、さらに戦果を拡大出来ただろう。
しかし何より大きな戦果は、敵の絶対的優位を突き崩したことだ。術を放てた理屈は読まれているだろうし、もう名前も思い出せなくなっているが、手段そのものはまだ使える。
だが、だからこそ使わない。
否、使わなくても勝てると、カナンは確信した。
「我が蒼炎よ、錬鉄の槌となりて
『己……っ!』
失語の呪文が放たれる。
しかし、カナンの蒼炎は巨大な槌の形をとって宙に出現した。
「
振り下ろされた灼熱の槌がゴーレムたちを押し潰す。敵の陣形に乱れが生じた。
カナンは迷わず、その横陣に向かって突撃した。
(これも、使える)
術を唱えるにあたって、あらかじめ複数の名称候補を考えておく。詠唱に並行して、頭の中でそれらの候補を連続で切り替える。仮にそのうちの一つが潰されたとしても、他の候補を即座に選び直して放つことが出来るのだ。
だが、これも二度は使わない。
ただの瓦礫と化したゴーレムに足をかけ、闇渡りのように跳躍する。危険を感じた樹が追加でゴーレムを召喚し詠唱させるが、カナンは最早それを脅威とは思わなかった。
ゴーレムの頭を蹴り、高く跳びつつ術を唱える。
「我が蒼炎よ、汝は
体内に宿っているシオンの銀炎を呼び起こし、自身の蒼炎と融合させて一つの術とする。カナンの周囲に蒼銀の粒子が舞い散る。
「
しかし、これは失敗した。二つの異なる天火を融合させた術ならば失語呪文の法則が通じないかと思ったが、やはり名前を封じられたら撃てない。術として成立する前に霧散する。
法術を放てないまま、カナンはゴーレムたちの只中に着地する。すぐに敵が、細身の継火手を押し潰さんと殺到してくる。
「我が蒼炎よ、汝は質実剛健の剣。その鞘に飾りは無く、蒼刃に曇りは無し」
先の失敗も含めて、失語の呪文の正体は完全に判明した。
既知法術はともかく、未知法術は名前さえ付けてしまえば発動出来る。無論完成度は低くなるが、そこは蒼炎の出力で補えば良い。
「
酔っていたギデオンが、かつて口走った台詞である。それを今、カナンも咄嗟に口走った。一番最初に試した事と近いが、これは最早名詞ですらない。
カナンはあくまで会話の中の一文として記憶していただけで、術の名称などではない。それでも法術は発動するし、失語の呪文か妨害することも出来ないのだ。
カナンの手に超高熱の蒼刃が現れる。それを、脳裏に浮かぶ剣匠の動きそのままに振るい、ゴーレムの壁の一部を文字通り切り抜ける。
一度戦列を抜けてしまえば、鈍重なゴーレムではカナンに追いつかない。最早遮るものは何も無かった。
『!!…… את הסלע לביצה של מים』
頭蓋の内に響いてくる詠唱には、多分に焦りが含まれていた。
その術が完成する直前で、カナンは右手に掴んでいた炎の剣を投げつけた。蒼刃が樹の枝を落とし、その枝から垂れ下がっていた脳髄の実もまた落下した。
瞬間、頭蓋を内側から殴り付けるかのような衝撃がカナンを襲った。それが自分への攻撃ではなく、樹の意識の放つ絶叫だと悟ると同時、カナンの中に『全て』が戻っていた。
そしてカナンは、その中から最も破壊に適した術を即座に選んでいた。
「我が蒼炎よ。この天命を糧となし、聖絶の釘となりて神罰を齎せ!
大いなる震怒の元、執行せよ、
駆け抜けるカナンの右手に、蒼い炎が集中する。彼女の体内に残った全ての蒼炎が、たった一点に凝縮されていく。その膨大な熱量は厳重に封じられ、ただただその密度を高めていく。
やがてそれは太い釘のような形状をとるが、それは他の熾天使級法術同様に目や唇を持っていた。高速で回転する釘から割れるような歌声が響き渡り、眼前の敵に最期の時が来たことを告げ知らせる。
この術には、他の法術のように範囲で攻撃するという概念が存在しない。
その目的はただ一点。全ての天火を集中させ、暴走寸前の状態に至った熱の塊を相手にぶつけることである。カナンほどの天火ともなれば、その威力は超小型の太陽と評しても過言ではない。
カナンは、その破壊の権化とも言うべき炎の杭を、エデンの樹の幹に叩き込んだ。