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【第二二〇節/兇刃】

 回廊の出口を目指して走り続けていたイスラは、途中、恐怖に駆られて逃げ惑う小動物や小鳥たちと何度もすれ違っていた。時折爆音や破砕音が響き、狭い回廊の壁に増幅されて彼の鼓膜を打った。すでに戦端が開かれていることは明白だった。


 だが、ようやく光に包まれた空間に出た時、そこにはイスラの想像を超えた光景が広がっていた。


 辺り一面を蒼炎が覆い尽くし、何もかもを手当たり次第に焼き尽くしていく。夥しく立ち昇る煙が人工の夜空を覆っていた。木々の燃え立つ音がひっきりなしに続き、それに混じって動物や小鳥たちの必死の叫びが聞こえる。かつて曲がりなりにも美しい庭園だったこの場所は、今や窯の中と変わらなかった。


(あいつがやったのか)


 カナンは自らの力の強大さを自覚し、常に自制を心掛けてきた人物だ。イスラはそんな彼女の姿をすぐ隣で見続けてきた。夜魔のような人外が相手か、よほど切羽詰まった状況でない限り、徒らに法術を使ったりはしない。ましてや、これほど見境無く攻撃するなど、考えられないことだった。


 彼女の精神をそれほどまでに怒りに傾けたものは何か。そう思った時、頭の中に直接悲鳴が響いた。



『……よせ、やめろ! 自分が何をしているか分かっているのか!?』



「何度も言ったはずです。貴方を殺すと」



 カナンの声が聞こえた瞬間、イスラは一片の迷いもなく炎の中に飛び込んでいた。


 その声音は、まるで永久凍土より切り出してきた氷塊のように冷ややかで酷薄だった。普段の明るく、朗らかな声音などどこにも無い。あるのはただ憎しみを突きつけようとする意志だけだった。


(違うだろ、お前は……そんなんじゃないだろ!)


 蒼い炎にまかれた樹々をくぐり抜け、煤で顔を汚しながら、イスラは声の聞こえた方向に向かって走った。救征軍の紋章が縫い込まれた外套を焦がしながら、炎の壁を越えてその先へ向かう。足元に転がっていた土塊や死骸を蹴り飛ばし、地面に出来た半球形の大穴を飛び越えたその先に、ほっそりとした少女の姿が見えた。



「カナンッ!!」



 カナンの、露わになっていた丸い肩がびくりと揺れた。左手にぶら下げていた細剣の切っ先がぶれる。



「イスラ……」



 振り返った彼女の顔は、驚くほどに蒼白だった。戦闘の形跡からして相当強力な法術を使ったようだが、青褪めている理由は別の所にあるようにイスラには思えた。


 恐らくそれは、やましさであろう。


 イスラに何の相談もしないまま、彼を置き去りにしてここまで来てしまった。そもそもカナンの「エデンに行く」という夢を叶えるための旅であったにも関わらず、その最終段階で今まで付き添ってくれたイスラをないがしろにしてしまった。


 そのことが持つ意味を、誰よりもカナン本人が理解していた。蒼褪め、今にも泣きだしそうな表情は、彼女のそんな悔恨を雄弁に物語っている。


 だが、イスラにとってはどうでも良いことだった。腹が立っていないと言えば嘘になるが、それを責めるのは後回しにすれば良い。今は何が彼女をここまで駆り立てたのか、それを知ることが何よりも大切だった。


 カナンの足元に、人間の首のような物体が転がっている。どう見ても死骸の一部にしか見えないはずなのに、それは未だに不気味な生気を保ったままだった。カナンの細剣の先端は、その生首の額に触れるか触れないかといったところにある。


 何を言うべきか迷った。イスラの方から問いかけたいことはいくつもあるが、それを今この状況で知ろうという気にはなれない。考えれば考えるほどに頭の中が干上がり、言葉は舌の上で溶けて消えてしまう。もしも自分が優れた語彙の持ち主であったとしても、胸の中で渦を巻く感情の濁流を濾過することは不可能であろう。


 だから、二人は燃え盛る炎の中にありながら、互いに見つめ合うことしか出来なかった。背景だけが激しく揺らめくが、二人は彫像のように動きを止めたままだった。何と間抜けな有様なのだろう、とイスラは思った。



「……帰ろう、カナン」



 長考を経て出てきたのは、そんな簡単な言葉だった。イスラは片手を差し出して一歩踏み出す。だが、カナンは一歩退いた。



「ごめんなさい、まだ、帰れない」



 そう言うなり、彼女は一度瞼を閉じ、そしてキッと見開いた。足元に転がる生首を睨み剣を振り上げる。


 彼女の動作が見えた瞬間、イスラは一気にカナンとの距離を詰めて、振り上げられた腕を捉まえた。


「放して、イスラ!」


「断る!」


 イスラの力に抗えず、カナンはあっさりと体勢を崩した。ほとんどもたれかかるような形になりながらも、カナンはイスラの腕を逃れようと身を捩らせる。


 だが、これ以上彼女に剣を持たせておくわけにはいかない。今のカナンは明らかに冷静さを欠いている。


「しっかりしろよ、こんなことをするためにエデンに来たんじゃないだろ!?」


 カナンの額が、イスラの胸骨にぶつかった。「……違う」とカナンが呟いた。



「私は継火手として……この人たちに創られた者の末裔として……それが私の……!」



 カナンの手の中の剣がガタガタと震えた。もっと天火のある状態ならば振り払われていたかもしれない。それほどに強い激情が、彼女の身体から感じられた。


 だが、だからこそ彼女にこれ以上の暴力を振るわせてはならない。



「そんなこと、お前がする必要は無い」



「どうして!?」



ガラじゃ無いからだよ!」



 カナンの信念は、決して口先ばかりのものではない。


 宗教的な信条が根底にあるとしても、徒らに力を用いず、あくまで理性的に付き合っていこうとするのが彼女の基本姿勢だった。その考え方が彼女の精神を、ひいては人生そのものを形成していると言っても過言ではない。


 本来の自分と異なることをするのは疲れる。ましてや、精神の主柱と言うべき部分を自ら裏切るなど、辛くないはずがない。


 そんなことは、カナンにとっても自明なことであろう。だが自分だけで考えるのと、他者から指摘されるのとでは、受ける印象は大きく異なる。現にイスラの言葉は、それまで怒り一辺倒に傾いていたカナンの心情を揺らがせた。



「……分かってますよ、そんなこと」



 だが、ふと自分を客観視した時、カナンはそこに横たわっているあまりに大きな怒りに抗うことが出来なかった。



「分かってる。今の私が支離滅裂だってことくらい……自分の言ったことを、自分で裏切ってるってことくらいッ!!」



 剣を握る手に再び力が籠る。まるで沸騰寸前の鍋のように激しくぐらつくそれを、イスラは必死になって抑え込んだ。もうほとんど天火を残していないような状態にも関わらず、カナンは彼女自身が持つ本来の力だけでイスラを押し離そうとしていた。


「だったらやめろ!」


「やめられないよ!」


 その絶叫は、出会ってから今までで一番悲痛な声音を伴っていた。




「赦せない! こいつは継火手私たちを……私を、ただの家畜くらいにしか思ってない! そんな奴を……!」




 イスラがたじろいだ一瞬の隙を突いて、カナンは彼の身体に体当たりした。背中を向けて再び剣を振り上げようとする。イスラは背後から腕を回し、華奢な身体が軋むのも構わずに抱き締めた。




「私の顔も身体も、創り物だって……そういう風に創った方が魅力的だからって……そんなの、そんなのあんまりじゃないですか。


 私の心はどうなるんですか?


 煌都あんなところで生きたくないって思う女の子は、どうすれば良いんですか? 心を殺してでも身体を捧げるべきだったんですか? 笑いたくなくても笑わなきゃいけないんですか? 孤独でも、そうじゃないように見せかけなきゃいけないんですか? それが正しいことだったんですか?


 ふざけるな。


 そんなこと絶対に……!」




「でも、お前は俺を選んでくれたじゃないか!」




 なりふり構ってはいられなかった。イスラは、カナンが振り上げていた剣の刀身を素手で握り締めた。


 左手に焼けるような痛みが走る。だが彼にとっては些細なことだった。このまま指が落ちても良いとさえ思っていた。


 カナンも動けなかった。本人が良いと思っていても、カナンには彼の指を切り落とすだけのことは出来なかった。


 握り締められた指の間から血が垂れて、焼け焦げた石畳の上にぽつぽつと斑点を作る。彼の手から滲んだ血が、カナンの頑なな感情を融解せしめた。


 柄に掛かっていた指が離れると同時にイスラも刀身を手放した。無粋な金属音が響き渡った。




「本当は分かってますよ、こんな所に来たかったんじゃない……こんなことをしたくもなかった……でも……でも、じゃあ私、どうしたら……!!」




 カナンの肩が震えていた。



「俺は、それをお前と一緒に考えたかったよ」



 抱き締めたままの彼女の口元から、嗚咽を漏らす音が聞こえた。



「皆の所に帰ろう。話はお前が落ち着いてからゆっくり聞かせてくれ。俺たちは……もっともっと話し合わなきゃいけない。お前だってそう思うだろ?」



 カナンはしばらく俯いたままだったが、やがてこくりと小さく頷いた。イスラは内心、胸をなでおろした。


(俺も甘いな……)


 ここは本来、もっと怒るべき場面なのかもしれない。カナンの暴走ぶりを鑑みれば、多少邪険に扱っても文句を言われる筋合いはないかもしれない。しかし不思議と、そういう気持ちにはなれなかった。居留地を飛び出してきた時こそ激しく苛立っていたものの、こうしてカナンが腕の中にいるという事実が彼を安心させた。


 カナンがそこに居てくれる限り、何度でも仕切り直しは出来る。今までも、自分たちは言葉を交わして繋がりを作ってきたではないか。


(俺一人で……じゃ、ない。こいつと一緒だったから……)


 それでもまだまだ言葉が足りなかったのだ。悔いても仕方の無いことだが、ディルムンを出た後にもっと会話をしておくべきだった。少しでも彼女の悩みを晴らすようにしておくべきだった。たとえ言葉が見つからないとしても、想いを伝える方法はいくらでもあるのだから。


 そんな後悔を二度としないためにも、今は皆の所に帰らなければならない。


「……そいつ、持って帰れるのか……?」


 事情を知るためには、何よりもカナンが戦っていた例の生首を持って帰らなければならない。



 だが、さっきまでそれがあった場所には、今はもう何も無くなっている。



「……おい?」


 イスラは一気に現実へと引き戻された。カナンを見つけ出せた安堵感が、知らず知らずのうちに彼の警戒心を緩め切ってしまっていたのだ。熟練の闇渡りとは到底思えない、あまりにお粗末な失敗だった。


 異常を察したカナンも顔を上げる。


 彼女が息を呑む音が聞こえた。そう思った時には、イスラはカナンによって真横に突き飛ばされていた。予想外の行動に、イスラはあっさりと体勢を崩した。




 そして、白色金の長剣が、カナンの胸を貫く瞬間を見た。

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