こんな光景だけはあってはならない。
アラルト山脈でカナンが傷つけられそうになって以来、イスラの中で絶対に破ってはならない誓いが生まれた。
どれほど気丈に振舞おうと、どれほど才能を露わにしようと、カナンもまた他の人間と同様に傷つき悩む存在なのだ。あの一件で彼女が負った心の傷は、決して浅いものではなかった。
だから二度とそんな目に遭わせるわけにはいかない。
自分には戦うことしか出来ないが、せめて戦いの痛みや良心の呵責だけは、少しでも多く背負うつもりでいた。
もし、自分も彼女も死を免れ得ない状況になったとしたら、先に死ぬのは自分でなければならないと思っていた。
(馬鹿か、俺は)
だが、そんな決意などただの独りよがりに過ぎない。置いていかれる者の苦しみを少しも想像出来ていない、無責任な考え方だ。
現に今、胸を貫かれたカナンを目の当たりにして、自分は真っ暗闇のなかにいる。
どこに行くのも怖くはないが、元居た場所に戻ることだけは怖い。
隣に誰もいない。ただひたすらに暗闇が続くだけの中を、行く場所も分からず、今居る場所も分からず、どこから来たのかも思い出せずに歩き続ける旅。
時折差し込んでくる月明かりも、気ままに歌う鳥や虫たちの声も、木々をすり抜けていく風も、その何もかもが自分を認識してくれない。それらはただそこにあるだけで、自分もまた、それらの中にただあるだけの一存在に過ぎない。物質と何も変わらない。そこでは自分は、人であって人ではない。
いつか腰が曲がって歩けなくなり、蹲ったまま死んで屍になって土に還る。そんな自分の生涯に、誰も何の意味付けもしてくれない。ただ冷然たる自然法則が働くだけで、それまで自分が積み上げてきたもの、体験してきたもの、成し遂げたものは何一つとして意味を持たなくなる。絶対的孤独とはそういうものだ。
それが当たり前になってしまえば何の痛みも無い。しかし傷を負っているのに無痛というのは、言うまでも無く看過できない異常である。精神的な死は、肉体が血塗れになって死ぬ以上の悲惨さを伴うことがあるのだ。
だが、カナンはそんな真っ暗闇の中の自分に光を与えてくれた。
そんな、掛け替えのない少女の胸から剣が引き抜かれ、糸が切れたように力を失った。
地面に生々しく叩きつけられた身体から鮮血が染み出し、地面に大輪の華を描いた。イスラは言葉も失って彼女に縋りつき、傷口に外套を押し当てた。
まだ息はある。刀創の位置も心臓から僅かに逸れている。
だが、胸骨のいずれかは確実に断たれているだろうし、重要な血管が斬られたことも確かだ。いくら押さえつけても血が溢れ出してくる。イスラの黒い外套は吸った血の量に比例して重くなっていった。
顔面蒼白で呼吸は浅い。桜色だった爪が、ほんの僅かな時間で木苺のような青紫色に変わってしまった。
「全く不愉快だ。こんな陳腐な策に縋ろうことになるとは」
その声が聞こえるまで、イスラは誰が彼女を刺したのか考えないようにしていた。
だが、オーディス・シャティオンの声は、彼に否応なく現実を突きつけた。
「オーディス……!」
何故刺した、何故助けない……そう怒鳴りつけてやりたかった。だが、言葉が喉に張り付いて出てこない。口の中から唾液が消えて、カラカラに干上がっていた。きっと今の自分の表情も、死にかけているカナン同様に真っ青になっていることだろうと思った。
「安心するが良い。君は裏切られたわけではない」
イスラは目を見開いた。
「何をやったッ!?」
反射的に飛び出した声は、若干裏返り、ひび割れていた。
「身体を借りたのだよ。というよりも、明け渡してもらったと言うべきか」
オーディスの声音そのものでありながら、その響きはいつもの彼とは決定的に異なっていた。
オーディス・シャティオンの声は、いつも礼節や端正ぶりを感じさせるようあえて作られたような声音を持っている。それがどこかわざとらしさや胡散臭さを感じさせることもあるが、時として、本当に同一人物なのだろうかと疑わしく思えるほどに純粋で透き通った音になることがある。そこがオーディスという人間の掴みづらい部分なのだが、同時に個性でもあった。イスラは彼のそうした二面性が決して嫌いではなかった。
だが、今のオーディスの声からは、イスラが親しんできたものが一切感じられない。虚無と傲慢と、そして見通せないほどの憎悪だけで凝り固まっている声だ。野生児であるだけに物事を感覚的にとらえがちな彼だが、それだけに敵意や悪意を察知する能力は抜きんでている。
この「声」の持ち主こそ、討つべき敵だ。イスラはそう直感した。
しかしこの状況では到底身動きなどとれない。カナンは死にかけている。この手を離してしまったら、その瞬間に血が溢れ出して、彼女の命の最後の一滴までも零れ落ちてしまうだろう。
「奪っておいて、何をぬけぬけと……!」
「違うな。この男は回廊の中で幸福な幻想を選んだのだ。今もまだ、夢のなかに居る」
イスラが父の幻影を見せられたのと同様に、オーディスも夢の中に囚われてしまった。その没入の度合いは、イスラなどの比ではない。そしてイスラもまた、彼がどんな夢を見ているのか薄々察していた。
「……悪趣味な野郎だ」
「何とでも言えば良い。君のような、取るに足らない者と長々喋り込んでいる時間も無い」
未だカナンの血を滴らせる月桂樹が、怪しい煌めきを放った。イスラは両手を離せない。ただオーディスの抜け殻を睨み付けることしか出来なかった。
だが、最悪の事態には至らなかった。理由は二つ。オーディスの腕が強張ったまま動かなかったこと。そして、炎の壁を突っ切って飛び込んできた闇渡りのアブネルが、一切の躊躇なくオーディスに斬り掛かったためだ。
オーディスの身体は、ぎこちないながらも何とか大刀の斬撃を回避した。アブネルに続いて突撃してきた闇渡りたちが、倒れるカナンの周囲に円陣を張る。
「あんたら……!」
「この愚図がッ! 死んでもその方を御守りするのが仕事だろうがッ!!」
オーディスに剣を突きつけたまま、アブネルが声を荒げた。イスラは何も反論出来なかった。「言ってたってしょうがねぇぜ、大将」と、担架を担いできたサイモンが言った。「念のために持ってきて正解だったな」
オーディスに対峙した闇渡りたちは、良く訓練された猟犬のように剣を構えたまま微動だにしなかった。無論ただ止まっているのではない。飛び掛かる一瞬のために、体内に爆発力を蓄積させてる。
「アブネル、どうする?」
一人が指示を仰いだ。アブネルは「殺せ」と吐き捨てた。
放たれた矢のように、前衛の十名が一斉に斬り掛かる。オーディスを乗っ取ったエデンの主は反撃しようとするが、その右腕は押さえつけられているかのように微動だにしない。
「無意識のうちに抵抗しているか……小癪な!」
肉体の支配は完了していないが、元々エデンの主が持っていた能力は維持されている。敵との間に石の壁を創り出し、それを乗り越えようとする敵には炎の弾丸を放って追い払う。火だるまになりながら、それでも闇渡りたちは炎ごと外套を脱ぎ捨て、身体の一部が焦げているのも構わず再度突撃する。
「野良犬共がッ!」
オーディスが声を荒げる。同時に、不自然に隆起した右肩から蔓のようなものが飛び出し、再攻撃しようとしていた闇渡りたちをまとめて薙ぎ倒した。
アブネルは続けて兵を繰り出そうとするが、それよりも先にオーディスの引いた炎の壁が両者の間に隔たった。到底突っ切ることの出来る熱量ではない。敵の手管が分からない以上、アブネルも無暗に手を出せなかった。
「よくよく噛みついてくれる。永劫の夜のなかで、とうとう山犬にまで身を落としたか」
炎の壁の向こうから愚弄する声が聞こえてくる。アブネルは鼻で笑った。「悪口ぐらい、人の顔を見て言ったらどうだ?」と煽り返すが、その口調には隠し切れない怒りが滲み出ていた。
「……言葉を交わすのも穢らわしい。
どの道、貴様らの時はもうじき終わる。
じきに我々の待ち望んだ真なる天使が到着する。このツァラハトの地平にこびりついた罪業が、全て清算される時が来たのだ」
「天使だと?
アブネルの反問に対してついに答えは返ってこなかった。炎の壁の向こうに、最早人の気配は無かった。アブネルの納刀に合わせて他の闇渡りたちも臨戦態勢を解いた。
「……撤収するぞ」
アブネルが命ずる前に、すでにイスラはサイモンと一緒に担架を抱え上げていた。
一応の応急処置はしたがそれだけでどうにかなる状態ではない。カナン本人の天火も切れかけており、ヒルデやコレットの天火を当てにするしかない状況だった。
燈台から出ていく間、誰も何も言わなかった。イスラも、待機を命じられていたアブネルたちが飛び込んできた時点で、何か異常事態が発生したことを悟っていた。
エデンの大燈台を飛び出した瞬間、強烈な横風が身体を叩いた。その中には瘴土特有の灰の臭いが多分に含まれている。いつもより明瞭に感じられた。
一体どこから来たのか……だが、その出所は考えるまでもない。エデンの地平に現前と佇んでいた。
天を突くような七つの首を持った、巨大な生き物。
獅子を思わせる胴体からは煙突のような大小無数の筒が飛び出しており、瘴土の闇そのものを間断なく吐き出している。鰐のような六本の脚が地面を踏むたびに、小規模な地震同然の揺れが起こった。
そしてその足元には、黒煙から生み出された夜魔たちが、海辺の砂のように無数に犇めき合っている。
イスラが大怪獣を目にしたのと同様、怪物もまた、エデンの燈台を認め咆哮を上げた。
その声は空を震わせ雲を散らし、海の波濤を黙らせ地を揺さぶった。人間の持っているどんな楽器を持ち出しても比較、形容出来ない音だった。明らかに超越的であるが、さりとて雷雲の感じさせるような武骨さもない。不思議に音楽的であった。
その大音声は、単純な音の大きさもさることながら、抗いようのない恐怖によって聴く者の臓腑を揺さぶった。
イスラもアブネルも、他の百戦錬磨の闇渡りたちも、例外無く誰もが同じことを思った。
世界が終わる時には、きっとこのような音が鳴り響くのだ、と。