「こりゃあ……参ったねぇ……」
崩れかけの城壁から地平を見ていたペトラは、しばらくの間「参った」以外の言葉を出せなくなっていた。眼前に迫ったあまりに絶望的な状況に、さしもの彼女も思考停止に陥ったのである。
もっとも、恐慌をきたさないだけ肝が据わっていると言うべきだろう。難民たちの大半はすでに大混乱に陥っており、ウルバヌス兵どころか闇渡りの戦士までもが顔面蒼白になっている。すでに暴動一歩手前の状況だった。
「ペ、ペトラ、あたしたちどうしたら……」
傍らに立ってるオルファの声も震えているが、それ以上に脚が竦み上がっている。人として当然の反応だな、とペトラは思った。
辺獄に入って初めて
しかし、地平に佇む怪物は、ただ巨大だから怖いというわけではない。それ以上の何かがある、とペトラは思った。恐らくそう感じている者は大勢いるだろう。剽悍極まりない闇渡りですら怯えているのだ。本能を意思で押さえつけることの出来る彼らが怖がるということは、人間の本能よりもさらに深い部分の何かが刺激されているということだ。
(まあ、何を……なんて、考えてる場合じゃないさね)
怖いものは怖い。今はそれ以外に無い。
「ペトラ殿、迎撃するか!?」
ゴドフロアが声を絞り出す。一見、勇敢な提言に思えるが、ペトラはそれを退けた。
「こんな状態じゃまともに戦えない。第一、戦って勝てるとも思えない」
ペトラの判断は正しい。到底戦える状況ではなかった。
彼我の戦力差については語るまでもない。第二次救征軍はもとより正面対決を目的とした集団ではない。あくまで六千名あまりの難民を護衛するための最低限の戦力しか持ち合わせていないのだ。
一見、エデンの城壁を使って少しでも時間稼ぎをするべきのように思えるが、ろくに防衛設備や連絡線の整っていない状態とあってはただの戦力分散にしかならない。自分たちは、まだエデンの地形すらろくに把握していないのだ。これでは混乱を広めるばかりである。
第一、当の兵士たちの士気が低い。暴動を抑えるので手一杯といった有様だが、それは外に出て夜魔と戦いたくないという心境の表れであろう。内向きになって人間と相対している方が、まだしも気が楽なのだ。
しかしそんな彼らを責めるのは酷というものだろう。ディルムンでの決死の持久戦に耐え、ついに目的地であるエデンにまで生きてたどり着いたのだ。喜びと安心の絶頂にあったところから、絶望の谷間に突き落とされたのである。どれほど訓練された軍であろうと、この落差には抗えない。
それは難民たちにしても同じだ。騒ぐなという方が無理な相談である。
だが、そうして兵士や難民を
「ゴドフロア、ヒルデ! 各部隊長に退去命令を出すよ!」
「エデンを棄てるのですか!?」
ゴドフロアが声を上げる。ほとんど悲鳴のように聞こえた。
「命あっての物種さ。あの化け物は明らかにこっちを目指して進んできている。まともカチ合ったところで踏み潰されて終わりさね」
「ですが、ペトラ様……民も兵たちも、エデンに着いたことを大変に喜んでいます。それを引き離すのは……」
遠慮がちにヒルデが言う。それに対して、ペトラはあえて冷然と返した。
「残りたい奴は残らせな」
「見棄てるのですか!?」
「説得してる時間なんて無い。大丈夫、皆がバタバタ逃げ出すのを見れば、それに引きずられて着いてくるさ。大坑窟の時だってそうだった。ここで死ぬーって
「……分かりました。では、私は難民たちの方に回ります。ロタール卿は軍の取りまとめを」
「……承知」
ヒルデはまだしも、ゴドフロアは上手く切り替えが出来ていないようだった。それでも己に課せられた使命を思い出して、ペトラに一礼する。
そんな二人に対して、ペトラは明るく「エデンは足を生やして逃げたりなんかしないよ!」と言った。
そんな彼らの真上を、七本の巨大な熱線が通り過ぎて行った。
闇のように暗く、それでいて不可思議な輝きを放つ光条だった。黒いのに光り輝くとは矛盾しているが、事実ペトラたちの目にはそう映ったのである。嫌な光だと思った。ペトラの中の不愉快な記憶を刺激する。
あたかも彗星の尾のように夜空を切り裂いたそれは、未だ煌々と光を放つエデンの大燈台に殺到した。
誰もが直撃を確信した瞬間、燈台の正面に光線と遜色無いほど巨大な魔法陣が展開された。古代文字の
無論、けたたましい大音響と衝撃とが、ペトラたちの上に降り注いだ。稲妻のように辺りを照らし出した光の下で、人々が恐怖の声を上げた。それは豪胆に構えているペトラとて例外ではない。直接光線によって焼かれるよりはいくらかましかもしれないが、頭よりも身体の方が敏感に危機を感じ取ってしまう。
しかも、光線による砲撃は一斉射では終わらなかった。一発だけでも山を穿ちそうな攻撃を、池に小石を放り込むような気軽さで延々と撃ち続ける。その間、救征軍の士気は揺れに揺らされた。
エデンの魔導障壁とて例外ではない。驚異的な防御力を誇るそれも、間断無く叩き込まれる砲撃の前では気休め程度にしかならないだろう。
「……一部修正。逃げたりなんかしないだろうけど、跡形も無く吹っ飛ぶかもね」
罅割れ始めた魔導障壁を見上げつつ、ペトラは呟いた。
脱出を急がなければならない。
だが、自分が退散するのは一番最後だと決めていた。
待たなければならない者たちがいる。